第2章 愛の形

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 数ヶ月後。  私、市布笑夢は普段着ないような薄い桃色のドレスと黒いボレロを身に纏い、手には品のあるパーティーバッグを携え、足下にはヒールの高いパンプスを履いて人形館の入口に立っていた。この日は日曜日、道行く何人かの人が何事かと言わんばかりに私の方を一瞥して通り過ぎていくもので、別に恥ずかしいことをしている訳でも無いのに何だか恥ずかしかった。早く館長が来ないものかと、待っている間ずっと思っていたものだ。  そう、この日は得河澪さんの結婚式だ。私にとっては人生初の結婚式であり、また仕事の一つとして出席するのもあって、失礼にならないようにと友人の長与礼等に手伝って貰いながらこの衣装をコーディネートしてもらった。このような垢抜けていて品のある格好になるのは中々無いので、なんとなく気分が落ち着かない。それにこの後のことを考えると、何だか緊張して胸が早鐘を打っている。  落ち着け私、落ち着けと何度も頭の中で唱えていると、館の方からタキシード姿の館長が現れた。手には革張りの人形用トランクと仕事道具等が入っているであろうカバンを提げている。館長は私の姿に気がつくと、鞄を提げている方の手を小さく振りながら、ゆっくりと歩いて近づいてきた。私の側に来るなり、彼は少し息を切らしながら私に話しかけてきた。 「申し訳ありません。他の仕事の電話がかかってきていたので、少し遅くなってしまいました」 「いえ、大丈夫です。それより時間は大丈夫ですか?」 「えぇ、時間には余裕を持たせてありますので大丈夫だと思います。とはいえ、遅れたら大変ですから急いで車で結婚式場へと向かいますよ」  人形館前の石畳の坂道を二人で下り、駐車場に止めている車に乗り込む。目的地は立山にあるホテル。山の上にあり、眺望が良いホテルとして昔から人口に膾炙している老舗だそうだ。エンジンキーを回し、ミラーなどを整えて、車はゆっくりと動き出した。  会場には予定通りの時刻に到着した。今の時間帯は、確か結婚式の最中だったと思う。きっと花嫁の純白なドレスを身に纏った澪さんが、優しい旦那さんと永遠の愛を誓っている頃だろうな。  一方で私たちはといえば、今回のサプライズを披露宴でやるように準備を進めていたので、式場のスタッフらと打ち合わせやリハーサルを行い、本番に向けて最終調整を進めている所だ。披露宴の式場では、続々と料理や飲み物が運ばれ、ステレオからは音量は小さめだがクラシック音楽が流れだし、賑やかなパーティーの様相が少しずつ見え始めていた。  時刻は昼前。披露宴の開始まで残り時間はそう長くない。私は数ヶ月前に館長から預かった茶封筒を鞄からだし、封筒の中に入っている紙を取り出してそれに目を通した。私が目を通していると、館長が微笑みながら表情で私の様子を窺っていた。 「大丈夫ですか?表情が硬くなっているように見えますが」 「あら、そうですか。自分でも気づかないうちにプレッシャーが膨らんでいるのかもしれないですね」  私は苦笑いして答えながら、頬に手を当ててぐにぐにと顔を優しく揉み込んでマッサージした。その様子を見ながら館長は小さくクスッと笑った。 「ふふ、貴方の活躍に期待していますよ」  私にそう告げると、館長は再び式場スタッフとの打ち合わせや確認作業に入っていった。その館長の右手には人形のトランクが提げられている。どうやら、人形を澪さんへどのように渡すのか確認しているようだ。館長によると、このような人形達はただ単にポンと渡せば良いというものではなく、相手が喜ぶように、良い思い出として強く脳裏に焼き付くように、言動や所作等を一つ一つ気をつけながら渡すことが大切だという。そうした方が、どんなお客様でも人形のことを大切にしてくれるからとのことだ。そうとなれば、私も思い出の一つとして残るように頑張らなくてはと心を奮い立たせた。  さて、2時間近く経過しただろうか。  1時間ほど前に始まった結婚披露宴も宴もたけなわといった様相を呈しているようで、隣の控え室で待機している私たちにもその賑やかな声が聞こえてきた。とても賑わっているねと、私の隣に座っている館長が話しかける。そうですねぇと私が返事すると、式場スタッフの方が私たちを呼びに来た。 「では、そろそろ準備の方を――」  そう言われた私たちは、それぞれ支度を調える。すると控え室の扉が開く音が聞こえた。私と館長が振り向くと、そこには得河さんが立っていた。得河さんは畏まった様子で、私たちに頭を下げた。 「湊さん、市布さん。本日はお越しいただきありがとうございます。そして、宜しくお願い致します」 「こちらこそ、宜しくお願い致します。今日の件については・・・・・・」 「えぇ、スタッフの方から話を聞いております。披露宴会場の入口扉に立って館長さんと待機し、扉が開いたら館長さんと一緒に歩くようにと」 「あぁ、話はありましたね。それなら良かったです。丁度支度して向かうところでしたから、一緒に行きましょうか」  館長はそう言うと、席を立ち上がり得河さんと一緒に部屋を出て行った。バタンと扉が閉まると、部屋の中はまた静かになった。スタッフの方は私の目の前にタブレットとワイヤレスマイクを用意する。タブレットの画面には、賑やかな披露宴会場の様子が映し出されており、真ん中辺りには華やかな衣装に身を包んだ澪さんと思われる女性の姿が見える。 「このタブレットに会場の様子を映しております。音声も聞こえるように設定していますので、会場の様子を注視しながら読んでいただければと思います」  側にいるスタッフが私に説明する。一応、この話は私は打ち合わせの際にも聞かされており、披露宴会場にいる司会者の女性をはじめとした他のスタッフもこのことを把握している。とはいえ、いざ本番が近づいてくると緊張してくるものだ。私は唾をゴクリと飲んで、何とか気持ちを落ち着かせようとする。  チラリと腕時計を見た。・・・・・・もう始まる時間だ。私は気を引き締めた。その横でスタッフが、会場のスタッフへトランシーバーで合図を送っていた。  その頃披露宴会場は、大いに盛り上がっていた。新郎や新婦と記念写真を撮る者、新郎新婦と思い出話に浸る者、それらを遠くから眺めつつ食事や飲酒を楽しむ者、・・・・・・皆思い思いの時間を過ごしていた。 「さて、そろそろ宴もたけなわという所でございます。新郎新婦様宛にプレゼントが届いているとのことで、そちらの準備をさせていただきたいと思います。皆様、一度席へとお戻りいただきますようお願い致します」  司会者がそう案内すると、新郎新婦も参加者も皆、自席へとついた。皆は何が始まるのだろうと期待に胸を弾ませ、どこか落ち着かない様子だ。  すると突然、バッと会場の電気が落とされ、会場内は一気に闇に包まれた。本来この会場は、新郎新婦の後ろに大きな窓があり、そこから長崎市街を一望できるようになっている。この日も天気は快晴で見晴らしも良かったが、披露宴が行われている最中はずっとカーテンで閉ざされており、日の光も会場に入らない。そのため、昼間ながらもかなり暗くなっていた。  いきなりの消灯に会場にいた多くの参加者は何事かと狼狽え、ざわついている。新郎新婦もこの話は知らず、何らかのトラブルが発生したのではないかと顔を見合わせて心配している。不安に駆られた得河澪は思わず自席から立ち上がり、近くにいた司会者の方へ相談しようとした。  その時だった。スピーカーから人の声が流れ出した。澪は慌てて席へ戻る。参加者達も皆、スピーカーから聞こえる声に耳を傾けていた。 『澪へ。 澪、久しぶり。元気にしていたかな。お母さんです。今日は結婚式、澪が人生の中で一番輝ける日だと思います。澪は私が幼い頃に人形館で買った『ベル』という人形をとても気に入っていて、それがきっかけで昔から可愛らしい服や綺麗な服が好きでしたね。どれだけ好きだったのかと言えば、将来の夢にファッションデザイナーを掲げていた程です。今でもその夢を大切にしているのでしょうか。お母さんが病気になっていなければ、今もその夢を支えてあげられたかもしれないと思うと、とても心苦しく申し訳ない気持ちでいっぱいです。せめてもの、澪へ今までの感謝の気持ちを伝えようと思い、今日澪へプレゼントを用意しました。どうか受け取って、大切にしてくれれば幸いです。私にとって澪の存在は、この上ないほど大切な宝物です。昔から明るい笑顔を振りまいて、周りの皆を幸せにしてくれた天使のような子です。澪といるだけで、私もお父さんも心が温まります。どうか、その純粋で透き通った優しい心をいつまでも大切にしてほしいです。そして、澪と結婚する旦那さん。澪のことをこれからも宜しくお願いします。心優しい澪と結婚できる貴方は幸せ者だと私は思います。日々の生活の中で、喧嘩することもあるかもしれませんが、澪への愛情を忘れずに、仲睦まじく暮らしていってくれたらと思います。最後になりますが、私が死んでから何年もの月日が流れていると思いますが、私はいつでも澪のことを側で見守っていますよ。姿は見えなくても、声が聞こえなくても、私は側にいます。貴方がこれからも笑顔でいられるように、貴方が旦那さんと幸せな日々を過ごせるように願っています。今までありがとう。そしてこれからも宜しくお願いします。 お母さんより』  スピーカーから流れてきたのは、得河紫衣の遺したメッセージだった。これを読んだのは私、市布笑夢である。このメッセージはあの茶封筒の中に入っていたものであるが、実は得河紫衣さんが人形館で執筆した、紫衣さんの遺言とも言えるものだったと館長から聞かされている。 「その紙はですね、実は得河紫衣さんが最後に遺した手紙になります。この手紙の存在は、実は得河二郎さんも存じません。紫衣さんより、結婚式当日まで内緒にしておいてほしいとお願いされていました。得河紫衣さんは時折痛みに苦しみながらも、この手紙を書いておりました」  館長は私にこの手紙の代読を頼んだときに、このように語っていた。文面を見ると、所々文字が震えていたり、汗か何かでシミが出来ている部分も見られた。痛みに苦しみながらも(したた)められたメッセージ。A4サイズの紙に書かれたそれらには、A4サイズには収まらないほどたくさんの愛が詰まっているように感じられた。私が読むにはとても荷が重いと思ったが、館長はそれでも貴方が良いと私を推していた。その気持ちに応えられたであろうか。  そんな思いを抱えながら、私はタブレットに映し出された会場の様子を見てみる。入口の扉がスポットライトで照らし出されて扉が開けられる。そして開くと同時に、館長と得河さんが並んで入っていくのが見えた。館長の手には、あの人形のトランクが提げられている。二人はライトに照らされながら、新郎新婦の方へとゆっくり歩いて行った。  澪さんの前に立ったとき、館長は得河さんに人形の入ったトランクを手渡した。別室にいる私には聞き取れなかったが、その際に館長が得河さんの側でヒソヒソと何か話しているのが見えた。その後、得河さんが首を縦に振ってトランクを受け取ると、澪さんの前に立って軽く挨拶を話した。 「澪、改めて結婚おめでとう。これはお母さんが澪に遺したプレゼントだ。お母さんの気持ちを受け取って欲しい」  得河さんはそう話すと、トランクを澪さんへと両手で差し出した。澪さんはそれをそっと受け取ると、机の上に置いて新郎さんや得河さん、館長に見守られながらゆっくりとトランクを開けた。  スピーカーから流れる、お母さんのメッセージ。読んでいる人は式場のスタッフさんだろうか、お母さんの声では無いものの、まるでお母さんが私――澪のことを優しく包んでくれるような優しくて温もりのある声をしている。聞いていて落ち着く声だ。初めて聞く声だけれど、何だか懐かしい心地になる。メッセージを聞きながら、私は頭の中でお母さんへの思いを巡らせていた。  『心苦しく申し訳ない気持ちでいっぱい』か――。私ね、お母さんが死ぬ直前まで病気のことを隠してたとき、正直に言わなくても恨んでいた。私のことをあんなに愛してくれていたのに、何で教えてくれなかったのか分からなくて、不信感が募る内に初めてお母さんのことを嫌いになってしまったし、いつの間にかお母さんのことを信じてた私自身のことも嫌になってしまったこともあった。その結果、幼い頃に描いた夢を追うことを諦めてしまった。  でも、つい最近お母さんが亡くなってから机を軽く整理したときに、机の中から病院で処方された薬がたくさん出てきたことがあった。その横には、メモ帳の切れ端に殴り書きで『絶対病気を克服するぞ』『二人の元気な姿をいつまでも見たい』って震える字で書かれたものを見つけたの。その時に気がついたんだ。お母さんは私やお父さんのために一人で闘っていたんだって。その事実に気がついた時、私は自分の誤りに気がつけた。お母さんのことを勝手に嫌って、勝手に信用しなくなって、そして夢を諦めてお母さんや過去の自分を裏切った。謝るのはお母さんではなくて私なんだって。  気がつくと、私の目の前にはお父さんと男性の方が一人立っていた。司会者の方が言うには、このプレゼントを作成した方なんだそうだ。私は司会者や新郎の彼に促されるがままその場に立った。  お父さんは、男性から「ここからは貴方の役目です」と一言告げられると、何かが入ったトランクを手渡されていた。お父さんはそれを受け取ると、軽く咳払いをして、少し顔を赤らめながら私にそれを差し出してきた。 「澪、改めて結婚おめでとう。これはお母さんが澪に遺したプレゼントだ。お母さんの気持ちを受け取って欲しい」  緊張しているのか、若干話し方がカタコトになっているお父さんから、それを受け取る。受け取ったそれはちょっぴり重かった。何が入っているんだろうかと気になった私は、周りにいた新郎やお父さんらに見守られながら、その革張りのトランクをゆっくりと開いた。きぃと小さく軋むような音を出しつつ開いたその中には、息をのむくらい耽美的な人形が眠っていた。  純白のドレス衣装に身を包んだ少女の人形。まるで絵本の中から飛び出してきたかのような、可愛らしさと美しさを併せ持つ見目麗しさを持っていた。思わず抱きかかえてみても良いか尋ねたら、作成者だという男性は首肯されたので、皆に見えるように抱きかかえてみた。・・・・・・あぁ、何と愛らしい人形か。綺麗な顔、滑らかな手足、瀟洒なドレス衣装、・・・・・・本物のお姫様のようだ。  抱きかかえて満足した私は、それをトランクに戻そうとした。すると、人形からふわっと香しい香りが漂ってきた。何だか落ち着く香り――でも、この香りをどこかで嗅いだことがあったような・・・・・・。トランクの中に人形を戻したとき、私はハッと気がついた。あ、これはお母さんの香りだ。お母さんが気に入って、よく使っていたスミレの香水の香りだ。  久しぶりに嗅いだ懐かしい香り。昔、よく些細なことで泣いていて、その度にお母さんの胸に飛び込んで泣きじゃくっていたっけ。その時によくお母さんからこの香りがしていた。どんなに辛くて泣いていても、お母さんのこの香りが鼻に香ってくる内に、いつの間にか気が落ち着いて眠っていたなぁ――。  人形から香る香りをきっかけに、私は幼少期からの記憶を回顧していた。お母さんと一緒に過ごした十数年の日々のことを。この日々の中で、私とお母さんは怒られることもあれば、喧嘩することもあったが、それでも最終的には仲直りして笑い合っていた。辛いこともあったが、それでもこの日々はとても幸せだった。お母さんの愛がいつもすぐ側にあった。お母さんの目はいつも輝いていた。  ・・・・・・あれ、変だな。目の前がぼやけてハッキリと見えないなぁ。私は目元を指でなぞってみた。あれ、私泣いてる?あれあれあれ?涙が全然止まらないよ。全然悲しくないのに、むしろ嬉しい気持ちでいっぱいなのに。何故だろうか、涙はどんどん滝のようにこぼれ落ちていく。あ、そうか、すっかり忘れていた。人は嬉しいときも泣くんだ。そう思うと、涙は余計に流れ出てくる。嗚咽も漏れ出している今、私の感情はもう誰にも制御できなくなっていた。 「お母さん!お母さん!」  机に突っ伏して涙を流す私は、ただ一言「お母さん」と叫び続けた。それは嬉しさによるものか、はたまた過去の反省によるものかはハッキリとしない。  ただ、この時感じたことが一つある。それは泣いている私の背中を、まるで優しく包み込むような温もりがあったことだ。これは私の勝手な憶測だが、それはお母さんが私を包んでくれていたのかもしれない。きっと、この人形と共に私の目の前に再び現れていたのかもしれない。  気持ちが落ち着いた私は、手元にあったマイクを握る。くるりと後ろを振り向き、式場のスタッフさんにカーテンを開けるように頼んだ。スタッフの人がカーテンを開けると、燦燦と輝く太陽の光と長崎の賑やかな街並みが窓の外に広がっていた。私は小さく一礼すると、この窓の外を見ながら声を出した。 「ありがとうお母さん。私今、とても幸せです!」  会場にいた多くの人が涙を流した。お父さんや新郎の彼もハンカチをぐっしょりと濡らすような勢いで泣いていた。この人形を作ったという男性も、優しく微笑みながら、その瞳からうっすらと涙を流していたように見えた。  しんと静まりかえった会場の中で、美しい少女の人形は優しい表情を浮かべながら静かな眠りに就いていた。その表情はどこか幸せそうだった。 「本当にありがとうございました」 「私からも、本当に良い人形をありがとうございます」  披露宴終了後、得河さん親子から私と館長は深く感謝された。得河さん曰くこの人形のおかげで、得河紫衣さんの愛を改めて感じることが出来たとのことだ。また、澪さんは紫衣さんに対して抱いていた思いの全てを曝け出して、今までの感謝の気持ちを伝えられることが出来たと笑顔で話していた。 「私もお母さんのような人になりたいと思います。お母さんみたいに幸せに生きていくことが、お母さんへの恩返しになると思うので――」  眩いほどに明るい笑顔で話す澪さん。館長曰く、その顔は生前の紫衣さんにとてもよく似ていたらしく、思わず彼女のことを思い出して泣きそうになったと言っていた。人形館の人形達を愛してくれた客だった得河紫衣さんの心は、館長の心の奥深くに今も残っているのかもしれない。  館長は涙を堪えながらも微笑んで澪さんに答えた。 「貴方ならなれます。精一杯幸せに生きてください。紫衣様もきっと側で喜ばれると思いますよ」  澪さんは満面の笑みで返事した。「はい、ありがとうございます!」  私と館長は得河さん親子と軽く挨拶を交わすと、そのままその場で別れた。披露宴後の余韻で賑わう式場を後にし、再び車に乗り込む。  その車中で、私は館長に尋ねた。 「館長にとって、紫衣さんってどんな方だったんですか?」  館長は少しの間考え込んでから、過去を懐かしむような素振りを見せつつ、落ち着いた声で私に答えた。 「紫衣さんは私にとって初めてのお客さんでありました。当時、私は人形のコンクールで入賞し、その頃の館長から一人形作家としてデビューを認められたばかり。そんな私に初めて仕事を依頼してきたのが彼女です。一人の作家として、人形を作る技術だけではなく、人形を持つ者の気持ちを思う心を持つ必要性を彼女から学んだと思います」 「へえ、そうだったんですか」 「はい、今の私があるのも彼女がいてこそだと思っていますよ」  そう語る館長の顔は楽しそうに小さな笑みを浮かべていたのに、どこか寂しそうな表情に見えた。  気がつくと車は、諏訪神社電停近くまで降りてきていた。適当な駐停車スペースを見つけると、館長は車を止めた。今日は仕事ももう終わったから帰っても大丈夫、タイムカードも調整しておくよとのことだった。私は館長の言葉に甘えて、今日の所は帰宅することにした。  車を出ようとした際、館長は今日の私の仕事ぶりを嬉々とした顔で褒めた。 「市布さん、今日は本当に良かったですよ。得河さんも喜んでいましたし、聞いていた私も感動して涙が出ました。無茶ぶりをしたとは思いましたが、今日君を連れてきて本当に良かったと思います。ありがとうございました」  館長が深く頭を下げる。そんな風に言われた私は、何だか申し訳ないやら恥ずかしいやらで、顔が真っ赤なリンゴのように赤くなっていた。  ふと、館長は何かを思い出したように「あ」と一言声を上げた。どうしたのかと私が問いかけると、館長はニコッと白い歯を見せるように笑って答えた。 「さ、次の出勤からも人形作りの勉強を頑張っていきましょうか!」 「は、は、はい~~~~」  私はどっと疲れが抜けていくような、弱々しく情けない声で館長に返事してしまった。それを聞いた館長はクスクスと小さく笑っている。  実は私は、得河さんが人形館に来た次の日から、スタッフとして接客する傍らで人形作りについて館長や他のスタッフさんに教わっているのだ。人形の作る手順、人形作りに使う材料の質、人形の肌などの塗り方、作り上げた人形の管理、人形服の作成技術、・・・・・・人形作りに関する様々な必要事項を時間をかけて、時折実際に作ってみながら学んでいる。  正直手先は然程器用でもなければ、知識を覚えることもあまり得意では無い。そのためか、作成中に失敗することも多い。が、それでも日々学んで作り続けようとするのは、友人の長与礼へ私の作った人形を、私の気持ちの形として送るという夢があるためだ。まだまだ道のりは遠いが、その夢を叶えるために一歩一歩歩んでいる最中なのである。  私はふらふらしながら車を降りた。館長が私のくたびれた背中を見ながらまだほくそ笑んでいる。 「では、また次の出勤日にお会いしましょう」  そう言うと館長は車を発進させた。薄暗くなった道にテールライトの赤い残滓を残すように、彼の車は走り去っていく。私はその車の影を見えなくなるまで見つめると、一人静かに車の後を追うように同じ道をゆっくりと歩いて自宅へと帰った。  帰り道、人通りの少ない細道の開けた所でふと何気なく空を見上げた。この日の空は綺麗な茜空。家路を急ぐ烏たちが、カァカァと鳴きながら飛んでいるのが見える。よく見るとあれは親子のようだ。親鳥と子どもの鳥が仲良く並んで飛んでいる。そのような光景を目にしながら、私は小さな声で呟いた。 「親子の愛って良いなぁ」  秋の涼しい風が、私の身体を優しく包み込むように吹き抜けていった。
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