第3章 慕の形

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 1945年、長崎。  私、有信晴馬は当時長崎市の松山町に住んでいました。この頃路面電車の整備士として働いていた父親は戦地へ出征しており、その穴を埋めるように7歳年の離れた兄が学校にも行けずに路面電車の車庫で働いておりました。また、4歳離れた姉も市内の兵器工場で勤労学徒として動員されていました。家族同士仲が良く、平和な頃は毎日のように父にも兄にも姉にも可愛がってもらえていたのですが、平和な日々が陰りを見せていくと、可愛がる余裕も無いのか、兄も姉も私とまともに遊んだり話したりすることがなくなっていきました。  また当時10歳だった私は、何とか学校へと通って授業を受けることは出来ていたものの、軍事教練の時間が長かったり、仲の良い級友が遠くの親戚の元へ疎開していく等して辛く寂しい思いをしていたものです。本当はもっと色んなことを勉強したい、友達と楽しく遊びたいと思っていたのに、それすらも自由に楽しむことが難しくなっていたのです。  それに、夜間も昼間も空襲警報が鳴る日々。頭巾を被って逃げ惑う人々を狙うように、米軍機からは機銃がまるで篠突く雨のように掃射され、家の塀や軒先に弾痕を残したり、時折逃げ遅れた人の命を平然と奪っていっておりました。いつ死ぬかも分からない恐怖に怯えながら生きる日々というのは、子供心にも強い恐怖心を植え付け、息苦しさを感じさせるものでした。  ある日、このような世情に辟易としてか、私は母親にある独り言を不満げな口ぶりでぶつけたような記憶があります。 「こんな嫌な時代、いつまで続くんだろう・・・・・・」  それを聞いた母は、握っていた包丁をその場にそっと置くと、くるりと私の方に踵を返して私の両肩を力強くぐっと両手で握りしめてきました。  当時、このような言動をしようものなら、お前はそれでもこの国の人間か等と罵詈雑言浴びせて厳しく叱責したり、大人の場合は下手をすると警察へ連行されて長時間責め立てられたり殴る蹴るの暴行を加えられることもあったようです。そのようなこともあり、私は肩を掴まれた瞬間に厳しく怒られるものだと思い身構えました。  しかし、その懸念は杞憂に終わりました。私の肩を掴んでいる母の手は、小刻みに震えていました。それに、どこかからすすり泣くような声も聞こえてきます。ふと見上げると、母は涙をぽろぽろと流していたのです。嗚咽を漏らして、声も上手く発音できないようでしたが、微かにこう言っているように聞こえました。 「ごめんね・・・・・・ごめんね・・・・・・」  母が悪くないのは当然ですし、母にそのような愚痴を零したところで何も変わりは無いというのも、当時の幼い私の頭でも理解できていました。ですので、それを知っていた上であのような言葉を発したのは、母に対する八つ当たりでしかなかったと思います。やり場のない孤独感と怒りを心に秘めたまま、その時の私はただその場で立ち尽くすばかりでした。    そんな辛い日々が続いたある春の日のこと、私と母はいつものようにお祈りを捧げに浦上天主堂へと赴きました。宗教の大切な儀礼でありますが、この頃は神に祈りを捧げることで、出征した父の無事と平穏な日々への回帰を願うためという思いもあったかと思います。キリスト教の信徒ではない地域の方も、司祭様へ心の慰安を求めて訪れている様子を見かけました。小高い丘の上に建つ赤く大きな煉瓦の教会は、この地域の人々の心の拠り所だったのです。  そのような教会の入口の辺りで、いつものように母が祈りを終えて出てくるのを柱にもたれ掛かりながら待っていると、教会へ通ずる坂道を登ってくる若い女性――姉と同世代かそれより少し上くらいの年齢の女性の姿が見えました。首にロザリオをぶら下げたモンペ姿のその女性は白めの透き通った肌をしており、後頭部辺りで結われた長い髪の毛は、烏の濡れ羽色とでも形容しましょうか美しく透き通った黒色でした。現代ならば、モデルさんや女優さんにもなれそうな美しい姿です。凛として歩くその華やかな容姿に思わず私が見とれていると、その女性は私に優しく微笑みかけてくださいました。 「ねぇ、君。ここら辺の子ども?」  私はハッとして、ドギマギしながらも首を縦に振って答えます。慌てふためく私の姿が面白かったのか、女性は私を見ながら笑っています。 「ふふふ、君面白いね。私は先日、この辺りに引っ越してきたのよ。もしかしたらここにいるとまた会えるかもしれないわね」  そう言うと、彼女は再び歩き出して教会の中へと静かに入っていきました。子供心に綺麗な人だと思いながら、揺れる彼女の黒髪を見送るように見つめていると、祈り終えた母の姿が見えてきました。 「お母さん、お帰り」  私が笑いながら手を振ると、母も微笑んで小さく手を振り返します。 「ただいま晴馬。大人しく待っていたかしら?」 「うん。ところでさっきすれ違った女の人さぁ――」 「あぁ、最近引っ越してきた阿部さんの一人娘さんね」 「知ってるの?お母さん」 「えぇ、それはもう引っ越してきたときに、人形さんみたいで可愛らしいって評判になっていたわ」 「ふ~ん」  そう軽く頷きながら、私はもう一度教会の中を覗き込もうとします。しかし彼女の姿はよく見えず悄然としたものです。この時の私はよく理解できてなかったと思いますが、この時の胸の高鳴るような感情が、所謂『恋』というものだったのかもしれません。幼かった当時の私は、気がつかないうちに彼女に一目惚れしてしまったようです。この時に感じたほんのり温かい温もりは、私の冷え込んでいた心の中を包み込んで、心中にわだかまる孤独感や痛みを打ち消していくように暖めていきました。  明くる日、また母と二人で浦上天主堂へと向かいました。  昨日と同じように教会前で母を待っていると、昨日の女性の姿が見えてきました。向こうも私のことに気がついたのか、私の方へ小さく手を振りながら、ゆっくりと歩み寄ってきます。 「こんにちは。また会いましたね」  微笑みながら話す女性の姿が、私の目には輝いて見えます。照れながら呟くように「う、うん」と答えると、女性は私をからかうような笑顔で見つめながら、私の頬に人差し指をつんと突いてきました。 「な、何するんですか!」  驚いた私が声を大にすると、彼女は驚いたように目を見開き、そしてすぐにまた笑い出しました。高らかに笑う彼女は、とても透き通った声でした。 「そのウブな態度が可愛いわね、君は」  そう言いながら、彼女はまた私の頬を2、3度ほど優しく突いてきます。 「もう、僕が子どもだからってからかわないで!」  私が怒りを露わにすると、彼女も流石に申し訳ないと思ったのか、申し訳なさそうに苦笑いしながら「ごめんごめん」と謝ってきます。私も年上の人に謝られると却って何だか気分が落ち着かないので、決まりが悪そうな顔をしながら許したものでした。  彼女はふぅと少し疲れたのか軽くため息をつくと、再び私に話しかけます。 「せっかくだから自己紹介をしましょう。私の名前は阿部真理愛(あべまりあ)。体調がいまいち芳しくなくて、東京から長崎に引っ越してきたのよ」 「えぇっと、真理愛さん・・・・・・だっけ。体調が悪いって、どこか病気なの?」 「うん。難しい病気らしくてね、長崎に良いお医者さんがいると聞いて」  そういうと彼女――真理愛さんは南の方を眺めるように向きを変えました。真理愛さんの見つめる先を私も見てみますと、そこには長崎医科大学の校舎が微かにですが見えました。どうやらあそこにお医者さんがいるらしいのです。 「病気かぁ・・・・・・僕も風邪とかよくひいてたし辛いよね」  知ったような口ぶりで話す少年の私。それが滑稽に見えたのか、私の顔を見て小さく笑う真理愛さん。 「君は本当に面白いわね。私、こんな弟欲しかったな~」  そう話しながら、彼女は徐に教会の中の方へと歩みを進めていきました。また会おうねと手を振りながら、彼女の姿は明るいようで薄暗い教会の中へと消えていきました。この時の私は照れていたのか、小さく舌打ちしながら仏頂面で彼女を見送りました。  その後も、何度も私が浦上天主堂に行くたびに真理愛さんと会っては、少しだけ話をしていました。学校の話、仲の良い家族の話、長崎の街の話、・・・・・・思いつく限り色んな話をしていたと思います。明るい話ばかりではなく、暗い話もたくさんありました。しかし、それでも楽しく落ち着く時間だったように思います。  私と話しているときの彼女は、いつも明るく優しい表情をしていまして、父母や兄姉と話しているような安心感を感じたものです。家族でも無ければ血のつながりも無い、そんな人と一緒にいるけれどとても安心する――友達というのもそういうものだと私は思いますが、この時のそれは友達という言葉とはまた違うものだったと思います。  そのような日々が続いたある日――あれは7月下旬のことでしたか。その日もまた教会で真理愛さんと会って話をしていました。他愛ない会話の中で、唐突に私は真理愛さんにこう尋ねました。 「ねぇ、真理愛さん。好きな人っているの?」  この頃、教師や周りの大人の目を盗んで付き合う子が学生間で噂になっており、私もそのような噂を同級生から耳にしたものでした。このようなこともあり、私は何気なく聞いてみたのです。どうせ普段と同じように、からかうように笑いながら「教えない」とでも言ってくるものだと思っていたら、予想外の反応を見せました。 「好きな人、ねぇ・・・・・・う~ん」  真理愛さんは決まりが悪そうに、目線を私の顔からそらしました。その時、私は初めて彼女の照れ臭そうに赤らめた顔を見ました。普段からかわれることの多かった私にはそれが面白くて、つい得意げになってしまったものです。 「もしかして、大学の先生とか?」 「馬鹿言うものじゃありません!先生は大分年の離れたおじさんよ!先生に恋はしていません!」  真っ赤に照れた顔で私を叱ろうとする真理愛さん。私は「ごめんなさい」と口にしつつも、ニマニマと笑みを浮かべて彼女を見つめました。卑しい私の顔を目にした彼女は、呆れたようにため息をつきます。 「じゃあ、またね。今日はすっかり君にやられてしまったわ」 「へへ、真理愛さんもあんな顔するんですね~」 「まあね、私だって女性なんですから」  そう言って彼女は立ち上がって、いつものように教会の中へと入ろうとしました。しかしその刹那、彼女は突然胸部を押さえ込み前のめりになって倒れたのです。  ドサッと倒れ込む音が聞こえた私が振り向いたとき、彼女は苦しそうに蹲っていました。呼吸も荒く苦しそうにしています。幼かった私には何が起こったか理解できませんでした。とりあえず、彼女の元へ駆け寄り声をかけます。 「大丈夫!?真理愛さん!」  焦って声が上ずりながらも、必死に私は彼女の名前を呼び続けます。  その様子に気がついた私の母や他の信徒さん等も駆け寄ってきます。駆け寄ってくる人並みの中に、偶々天主堂を見学しに来ていた医科大学生がいたおかげで適切な応急処置が施され、その後無事に医科大学の病棟へと運ばれていきました。その際、私と私の母も同行して医科大学の病棟へと向かいました。 「幸い、彼女の命に別状はありません。軽い発作のようです」 「ありがとうございます先生」  病室を出て行くお医者様に母と私は頭を下げると、真理愛さんが横になっているベッドの方へと視線を移しました。ベッドの上では、彼女が静かに寝息を立てて眠っています。  私がふぅと安堵のため息をつくと、間もなく彼女の父親が病室に現れました。彼は私と母の元へ近づくと、申し訳なさそうな顔で私たちを見つめます。そして、その場で深々とお辞儀をしました。 「この度は、私の娘がご迷惑をおかけしたようで、誠に申し訳ございません」 「いえいえ、こちらこそいつも息子がお世話になっているというのに・・・・・・」 「あぁ、いえ。いつも娘が家で楽しそうに話していましたよ。仲の良い子がいるんだと、嬉々とした表情で話すのです。私が音楽家として各地を転々としてきましたし早い時期に母親も亡くしましたから、娘にはいつも寂しい思いをさせてきました。だから、私はとても嬉しかったのです。ありがとう晴馬くん」  彼女の父親に感謝された私は、嬉しさと照れくささの余り顔が赤くなってしまいました。彼と私の母はそんな私を見て微笑んでいます。  私はそんな二人から視線をそらし、再び真理愛さんの方へと目を向けます。落ち着いた安らかな表情をして眠る彼女。普段私の前では明るく振る舞っていた彼女も、私の知らないところで辛く寂しい思いをしてきたのだと思うと何ともいたたまれない思いになったものでした。  さて、病室の中は静かです。チクタクと時計の針が進む音と微かに聞こえる真理愛さんの落ち着いた寝息以外は、殆ど物音がしません。私も私の母も、真理愛さんの父も彼女の様子を窺うように、眠る彼女の方を静かに見つめています。その静寂を破るように、彼女の父親がそっと呟くように語りだしました。 「娘の病気はとても難しいもので、治癒する可能性がとても低いと医者も頭を抱えます。しかし、治癒する可能性は0ではないのだからと、娘はいつも私の前では気丈に振る舞います。ですが、やはり彼女も私の見てないところで不安や恐怖に苛まれているようです」  思い悩む表情で呟く彼女の父。彼の瞳には、静かに眠る彼女の姿が映っていましたが、その彼女の顔をよく見つめてみるとどこか疲れの色が見て取れます。そのような精神的な疲労が溜まりに溜まって、今日の発作に繋がったのではないかと彼は語ったのでした。 「原因も治療法も分からない病気ですが、一つだけ出来ることがあるとしたら、それは彼女の側に寄り添うことだと思います。ですので、晴馬くんにはこれからも娘と仲良くして欲しいのです」  そういうと彼は、私に対して深く頭を下げました。その表情は必死です。その時の私は唐突な出来事だったが故に唖然としてましたが、すぐに我に返りこう返事しました。 「僕には断る理由がありません。僕にとっても真理愛さんは大切な人です」  その答えを聞いた彼は涙を流して喜びます。ありがとう、ありがとう、・・・・・・そう繰り返しながら目に涙を浮かべています。もしかしたら、彼もまた真理愛さんのことを気に病んでいる内に、色々と疲れが溜まってきていたのかもしれません。間もなく、彼の目から一筋の涙がポロリとこぼれ落ちました。  気がつくと病室の外は既に夜闇に包まれ、月や星が夜空に煌々と輝いています。 「もう家に帰ろうか。夜も遅いから」  窓の外を見た母が私にそう言うと、私の手を握って歩き出しました。私もそれに連れられるがまま、歩調を母のそれに合わせるようにゆっくりと歩き出します。  真理愛さんの父は、そのような私と私の母の姿を見つめながら、静かに一礼しました。私も母もそれに応える形で一礼すると、静かに病室を後にしました。
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