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真理愛さんが倒れてから数日後、8月6日。
いつものように浦上天主堂へと向かうと、入口の柱の所に建っている人影が見えました。その人影は私が来るのに気がつくと、微笑んで手を振っています。あれは間違いなく真理愛さんでした。
「あ、真理愛さん。もう身体の具合は大丈夫なんですか?」
「えぇ、おかげさまで。すっかり元気になったわ。とは言っても、今度また朝から検査があるんだけどね」
そう言いながら、自嘲気味に笑っている彼女。話しているとき、彼女は右手で胸の辺りを軽く摩っていました。すると、疲れたように小さなため息を一回ついて話します。
「君には迷惑をかけてしまったわね・・・・・・」
その時の彼女の目は、いつにもなく辛そうな目をしていました。私に対する申し訳なさが滲み出ていたのか、はたまたまだ少し痛みが残っていたのかもしれません。彼女の淀んだような目は、私の顔では無くどこか遠くを見つめていました。
この時、私は譫言のように小さな声で「そんなことないですよ」と呟きましたが、彼女の耳に届いていたかいないかは分かりません。彼女はただ黙って、遠くを見つめています。夏の熱い日射しの中で、私と彼女は黙ってどこかを見つめていました。額を大粒の汗が垂れ落ちていきます。蝉時雨響く浦上の街の中で、暫くの間私たちの間を沈黙が支配し続けていました。
「晴馬~、そろそろお祈りしに行くわよ~」
私たちの間にあった沈黙を破った、私の母が私を呼ぶ声。その声でハッと我に返った私は、慌てて母の元へと駆けていきます。去り際に彼女と軽く別れの挨拶をすると、彼女は力ない笑顔で首を小さく縦に振りました。
浦上天主堂からの帰り道。
いつも通り母と二人並んで歩いていると、母は突然ピタリと足を止めたのです。どうしたのと私が尋ねると、母は私の方を振り向き、神妙な顔をしてこう話したのでした。
「晴馬、9日から暫く島原の叔父さんの家に疎開することになったわ」
突拍子も無い話に私は驚きを隠せず狼狽えます。頭の中には無数の疑問符や感嘆符が浮かび上がるようです。そんな私にかまわず、母は更に話を続けます。
「でもね、お兄ちゃんやお姉ちゃんは仕事があるから行けないし、私も9日は教会に大切な用事があるから行けないの。だから、朝から島原の叔父さん叔母さんが晴馬だけまず迎えに来てくれるから付いていくようにね」
「え?でも学校は・・・・・・?」
「学校にも伝えたわ。ここのところ空襲も頻発してたから、疎開はした方が良いって学校も考えていたみたいで、許可もすぐに得られたわ」
私も関わってくる話なのに、私の知らないところで勝手に色々と話が進んでいたことに、子どもだった私も正直に言えば安心よりも恐怖の方が強かったと思います。私は唖然として言葉を失っていました。
「大丈夫よ、お母さんもすぐ島原に行くわ。お兄ちゃんお姉ちゃんは疎開が難しいらしくて、一緒に島原に行けないのが心残りなんだけれど」
私にとっては何も大丈夫ではありません。島原の叔父や叔母に対しては幼い頃から何度も会っていて仲が良かったので不満は無かったのですが、ただあまりにも急な話だったが故に、気持ちの整理が追いついていませんでした。学校の級友のこと、長崎に残ったままの兄や姉のこと、それに真理愛さんのことだって気がかりでした。気がかりなものを引き連れて、島原でどう過ごせば良いのか私には分かりませんでした。
「帰ったらすぐに持って行くものの準備をしましょう。お母さんも手伝うわ」
母は落ち着いた優しい声でそう話してくれました。が、やはり今一つ心や頭の中にかかった靄が晴れた気がしません。私は母に対して生返事をするのがやっとでした。
翌日、浦上天主堂でいつものように真理愛さんと落ち合った私は、彼女にそのことを話しました。明後日の朝には長崎を発つと話すと、彼女は寂しそうに俯いていました。少し間を開けて、彼女は徐に顔を上げると、力の無い声で呟きました。
「戦争が終わるまで、君は長崎には戻って来られないだろうねぇ・・・・・・」
それに対し、私はため息交じりに心境を吐露します。
「僕も本当は行きたくは無いんです・・・・・・」
「ん?どうして」
「えっと・・・・・・それは・・・・・・」
言葉を詰まらせた私を、真理愛さんはからかうようにクスクスと笑いながら一言小さな声で言いました。
「好きな女の子がいるんでしょ?」
私はハッとして顔を赤くします。
「え、ちょ、そ・・・・・・そんなこと、ないですよ!」
照れている私の顔が面白いのか、彼女は微笑んで私を見つめています。その時私は、この間の仕返しをされたのだと気がつきました。大人げないと思いつつも一本取られたものだと内心悔しがっていると、彼女は黄昏れるように寂しげな笑みを浮かべなが、ポツリと呟きました。
「理由はどうであれ、君と暫く会えなくなるのは寂しいな。君と話す時間が私にとっては愛おしい時間だった」
「それは僕も同じです。真理愛さんと話す時間が楽しみでした」
私がそう言い返すと、彼女は「そうか」と呟いて黙り込んでしまい、私も遠くの空を見つめながら物思いに耽っていました。
夕方の浦上天主堂は沈み行く日の光に照らされ、いつにも増して赤く輝いているように見えます。周囲の木々を僅かに風が揺らし、蝉の鳴き声も少しずつ静まり行く夏の夕暮れ。昼間と比べて和らいだとはいえ、まだまだ暑い時間帯ではありましたが、私と真理愛さんはその暑さを気に留めず、二人で並んで教会の柱の陰に黙って座っていました。
その時、カーンカーンと鐘の音が響きます。高音と低音の入り混じる透き通った宝石のような音色。夕方6時を告げる、浦上天主堂のアンゼラスの鐘が鳴り響いたのでした。
鐘の音を聞くなり、彼女は立ち上がって私に手をさしのべました。
「さて、そろそろ帰ろうか。――どうかな、偶には一緒に帰ってみるのも」
彼女は微笑んでいます。私も笑みを浮かべて首を縦に振り、立ち上がり様にその手を掴みます。絹のように柔らかく白い肌は温もりに溢れていました。
夕暮れの砂利道を、私と真理愛さんは手を繋いで帰ります。
女性と手を繋ぎながら帰ることに最初こそ気恥ずかしさも感じていたものの、いつの間にかそれを感じることは無く、むしろ一緒に歩いて帰られる充足感や安心感を強く感じていました。歩きながら、ふと彼女の顔を見てみると、どこか嬉しそうな優しい顔をしていました。彼女もきっと私と同じように感じていたのかもしれません。二人仲良く他愛ない会話をしながら、薄暮の浦上の街を歩いて行きました。
「あ、あそこが僕の家だよ」
私が指さした先には、平屋建ての小さな木造家屋。薄暗い時間帯となり電気が灯りだしていました。とはいえこの頃は、空襲の標的にされないようにと照明には覆いが被されており、戦前と比べると幾分暗かった印象があります。
「なるほど、あそこが君の家だね。ということはここでお別れかな」
「そうだね。ところで真理愛さんの家は?」
「この坂道を登った所だね」
そう言うと彼女は後ろを振り向いて坂道を指さします。あの坂道を登れば彼女の家が建っているのだと思うと、当時の初心な私は気になって仕方なかったようです。
「ねぇ、真理愛さんの家も教えてよ」
私が軽い気持ちで尋ねてみると、彼女は申し訳なさそうな顔を浮かべます。
「う~ん、もう暗いから今日は駄目」
「え~・・・・・・分かったよ、じゃあまた今度教えてね」
渋々彼女の配慮を受け入れた私は、憮然として彼女の背中を見送ります。彼女は苦笑いを見せながら、手を振って私の元から離れていきます。闇に染まるように少しずつ見えなくなっていく彼女の影。いつにも増して寂しく感じたもので、見ているのも何だか辛くなってきました。
間もなく私が踵を返して、家の方へと再び歩き出そうとした時でした。何かを思い出したように彼女が声を上げました。驚いて振り向くと、彼女が早歩きで私の所へと戻ってきます。身体が強くない彼女に無理をさせてしまったことを反省しつつ、私が彼女を迎えると彼女は笑みを浮かべながら、私の耳にそっと耳打ちしました。
「明日夜7時、浦上天主堂で会おうね」
「え!?」
私が驚くと、彼女はいつものようにハハハと明るく笑いながら、再び帰途に就いておりました。そのような彼女の様子を呆然として見送った後、私は一人暗い夕方の道を歩いて帰りました。
翌日夕方。日も沈みすっかり天主堂の周りは真っ暗です。
「晴馬一人だけだと心配だから私も行くわ」
と言って母も付いてきてくれました。二人で家から歩いているとすぐに教会の姿がボンヤリと黒い影となって見えてきます。教会の前の坂道を登っていると、私を呼ぶ声が聞こえてきました。
「うん、約束通り来たのね。待っていたわ」
「やあ、有信くん。ご無沙汰しています」
私を呼んでいたのは、真理愛さんと彼女のお父さんでした。二人とも和やかな表情で私と私の母を出迎えます。「どうぞこちらへ」と彼女らに促されるまま、私と母は扉を開けて教会の中へと入っていきます。
教会の中はいつ来ても息をのむような荘厳な雰囲気です。天窓から差し込む月明かりに照らされたステンドグラスが、まるで夜空に浮かぶ星座たちのように優しく輝いています。
広く開放的な教会堂の中をコツコツとゆっくりとした足音を響かせながら歩いていると、私と母は彼女に一番前の長いすに座って目を瞑って待つように促されました。二人で何があるのかと戸惑い顔を見合わせつつも、大人しく彼女の指示に従って座って目を閉じることにしました。その間にも、彼女と彼女の父は何やら準備を進めていたようです。
どれくらい時間が経ったでしょうか。
「もう目を開けても大丈夫ですよ」
彼女の父が発したであろう低い声を耳にし、私と母はゆっくりと目を開きます。目を開くと、真理愛さんが十字架を背にして立っていました。純白のワンピースに身を包んだ彼女が、青白く輝く月の光に照らされています。それはまるで、空から神々しい光芒と共に舞い降りた天使のような美しい姿でした。
彼女の美しさに目を奪われていると、彼女が私の方を見てうっすらと微笑みます。彼女の仕草に私の胸が思わずとくんと鳴ったその時、彼女は小さく深呼吸すると彼女の父に目配せをし、そして美しく透き通ったソプラノボイスで教会を包み込むように優しく歌い始めました。
Un bel dì,vedremo (ある晴れた日に見るでしょう)
levarsi un fil di fumo (一筋の煙が昇るのを)
sull'estremo confin del mare. (水平線の彼方に)
E poi la nave appare. (そして船はやって来ます)
・・・・・・
彼女が歌っていたのは、オペラ『蝶々夫人』のアリアでした。愛する人と離れ離れになってしまった蝶々夫人が、愛する人の帰りを信じて待ち続ける儚い想いを歌った曲です。
当時の私はこの曲のことを知る由もなく、当然イタリア語の意味すらもあまり理解出来ませんでした。ただ彼女の発する、水晶のように透き通った玲瓏な歌声は私と母の心を強く揺さぶっていたのを覚えています。彼女の発する言葉の意味は全く分からないはずなのに、不思議なことに私の瞳から自然と涙がこぼれ落ちていくのです。どれだけハンカチで拭おうともすぐにまたこぼれ落ちる私の涙。
美しい歌声に感動してなのか、それとも感覚で何を歌っているのか感じ取ったのか。幼い少年だった私の目にその時の彼女がどう映り、私の心にどう響いていたのかは今の私には生憎ハッキリとは分かりません。ただ一つだけハッキリ言えることがあるとするならば、この時の彼女は私の記憶に残っている彼女の全ての中で一番美しかったのは確かだということです。
全て歌い終えると、彼女は微笑みながら私の側に近づきました。座っていた私の背丈に合わせるように低くかがんで、頭を撫でながら彼女は言います。
「どう、私の歌声?良かった?」
私は黙って何度も首を縦に振り首肯します。それを見て安心した表情を浮かべた真理愛さんは、私の隣の席にそっと腰掛けました。何かを察した私の母は、静かに私の側を離れて真理愛さんのお父さんの側へと向かっていきます。十字架の目の前にある椅子には、今私と真理愛さんの二人だけです。
私の母が離席したのを見た真理愛さんは、ふと語り出します。
「私ね、こんな身体だけど夢があるの」
「夢・・・・・・?」
「えぇ、私も将来は母のように美しい声を響かせるような歌手になりたいの」
この時初めて、真理愛さんは早世された母親のことを話しました。亡くなる前までは歌手として活躍し、歌劇でも人気を博した方だったそうです。その人気は日本に留まらず、欧米でも彼女が出演するオペラのチケットがすぐに売りきれる程には高い評価を得ていたようです。
真理愛さんはそのような母親の背中をずっと追いかけていました。父親と一緒に彼女の歌劇を何度も聞きにいったそうですが、その中でも特にこの曲が印象に残っていると言います。
「会えないかもしれない人を会えると信じて歌う曲なんて、寂しい気もするけれど美しいものだと思うわ。今、私も亡くなった母ともっとお喋りしたい、せめて夢の中だけでも会えたらなって思ってる。そういった一途な想いって、夜空の星のように輝いて見える気がするの」
微笑を見せつつもどこか儚げな表情で話す真理愛さん。話を聞きながら、当時の私も戦地へ赴いて離れ離れになった父のことを思い出します。
いつか帰ってくると出征の日に言われて以降、何の音沙汰もない私の父親の姿。早く帰ってきてと私が声をかけると、アンニュイな顔を見せて一言「あぁ――」と呟いてから、戦地に赴く兵士達の雑踏の中に消えた父親の姿。
遠く離れた父親の帰りを信じて待ち続ける少年の私の心は、その一途な想いによって燃えて輝いていたのかもしれません。そういうことなのだろうと当時の私は考え、何となく理解出来たように彼女の話に頷きます。
「大切な人を信じる気持ちを忘れないように、この歌をもっと沢山の人に聞かせたい。私が歌手になってやりたいのはそれなのよ」
「う~ん、何となく理解出来たと思うけど・・・・・・」
「少し難しかったかな?」
「たぶん」
「ハハハ、やっぱり君は可愛いね」
そう言いながら、いつものように明朗な笑顔を見せながら私の頭を撫でる真理愛さん。私は気恥ずかしさを感じつつも、渋々撫でられ続けました。撫で終えると彼女は、疲れたようにハァとため息をつきました。
「――今日、この歌を歌ったのは君が帰ってくるのを願って待っているからだよ。暫くの間とは言え、君と離れ離れになると私が寂しくなるからね」
「僕も寂しい。だから真理愛さんの歌声を聞けて本当に良かった。有り難う」
私が笑みを浮かべてそう話すと、真理愛さんは少しばかり照れた顔をして喜んでいました。彼女曰く、自分の歌声を他人に聞かせたのは君が最初だということです。普段とはまた違った無垢な笑顔を見せる彼女の姿に、思わず私は頬を染めてしまいます。
彼女は照れながら、側に置いていた小さな革張りのトランクから何かを取り出しました。取り出したものは、それはそれは麗しいビスクドールでした。煌びやかな和服を纏った、華に舞う色鮮やかな蝶々のような可憐な美しさを持った女性の人形だったと思います。
「この人形は、私の母が海外公演を終えて日本に帰ってきた際に、記念品として作って貰った人形なんだってさ。今は私が持っているけれど、これをね、君に譲ろうと思うんだ」
私は首をかしげます。
「譲る?僕に?どうして、大切なものなんじゃないの?」
彼女は笑いながら答えました。
「だからだよ。大切なものは大切な人に持っていて欲しいんだ」
彼女は人形を再びトランクに戻すと、それを私に差し出してきます。彼女の目は真剣です。曇り無き眼で私のことを食い入るように見つめます。
私は素直に受け取ろうかと思いました。真理愛さんが私のことを大切な人だと言ってくれる、それが子供心に嬉しかったのです。しかし、私はすんでの所で思いとどまって、彼女に伸ばしていた手を引っ込めます。
彼女は呆気にとられて不思議そうに私を見つめながら言いました。
「どうしたの、君?これは君に受け取ってほしいのよ」
私は俯きながら、辿々しい口調でおそるおそる彼女に答えます。
「僕のことを、大切に思ってくれるのは、嬉しい。けど、真理愛さんの、大切なものを、受け取るのと、それとでは、話が違うと思う。それに、何故だか分からないけど、それを受け取ると、二度と会えなくなりそうな気がするんだ」
私がそう答えると、私と彼女の間には暫く静かな間が開きました。彼女の気持ちを無下にしたわけですから、彼女が不満に思うのも無理はないだろうなと思います。私は怖くて彼女の顔を見つめることが出来ませんでした。
暫くして、私の頭をポンと叩く感覚がしました。何だろうと顔を上げようとしたら、今度は頭を撫でられる感覚がします。先程よりも優しく、ゆっくりとした速さで私の丸い頭を撫でています。ゆっくりと見上げると、真理愛さんが微笑みながら私を撫でていました。
「そうよね、こんなことしたら何かずっと会えなくなりそうだものね。――うん、君の気持ちはよく分かったわ。やっぱり私が大切に持っておくことにするよ。いつか私の家に遊びにおいで。その時にまたゆっくり見せてあげる」
「はい」
「うんうん。君は実に良い子だね」
そう言いながら、彼女は人形の入ったトランクをそっと椅子の上に置いたかと思えば、「ねえ、立って」と言って唐突に私の両手をそっと引っ張って立ち上がらせます。急なことに吃驚し、彼女の温かい手に握られ思わず頬を赤く染めた私と、驚く私の顔を見てくすりと小さく笑う真理愛さん。
「な、何ですか?真理愛さん」
私が尋ねると、彼女は優しく微笑んで私の身体をギュッと抱きしめます。何が起こっているのか理解出来ていない真っ赤な顔の私をよそに、彼女は微かに震えているような声で語りかけました。
「――暫く会えなくなるのは寂しい。だけど私はいつまでも待っているわ。どうか元気でいてね」
どうやら彼女は、私のことを抱きしめながら泣いていたようです。すすり泣くような声が聞こえた他、私の服の肩には涙で濡れた跡が残っていました。この時の私は、涙を流す彼女に対してどのような言葉を返したら良いか分からず、ただ一言「うん」と呟いた後に彼女の頭をそっと撫でました。思い返せば、私と父の別れるときのやり取りの際、父もきっとこんな気持ちで私に別れを告げたのかもしれません。その父の姿を思い出した私も、思わず涙が出そうになりました。
8月8日夜の浦上天主堂。私と真理愛さんを包み込むように、窓から青白く輝く月の光が差し込みます。天が私たち二人を祝福をするかのような静謐な雰囲気に包まれたこの日の浦上は、空襲警報が鳴ることもなくとても静かな夏の夜でありました。
暫くして、私と私の母が教会を出て帰ろうとした時のこと。
私が入口の扉に手を差しのばそうとした所、入口近くの長いすの背面にもたれ掛かるように立っていた真理愛さんが、目元が少し腫れたその顔で笑みを浮かべながら、思い出したように私に一つ問いかけてきました。
「ねぇ、そういえば君には将来どんな夢があるの?」
私は少し立ち止まって考えます。この時、まだ将来の夢というのはあまり深く考えたことはありませんでした。かといって『無い』訳でも無く――悩む私は、う~んと唸りながらあれやこれやと考えます。
「ん~?特に夢は持ってなかったの?」
真理愛さんは困惑したような顔で尋ねます。
「いや、無いわけではないんです。ただ、あまりにも夢と言うにはあまりにも大雑把な気がして――」
苦笑いでしどろもどろになりながら答える私を真理愛さんは面白いと思ったのか、にんまりと脂下がった顔をして話しかけてきます。
「ふ~ん、じゃあそれを聞かせてよ」
「えぇ・・・・・・」
どうにも恥ずかしさを隠せない私は、頬を人差し指で掻き、彼女からチラチラと目線を外しながら、ボソッと呟くように答えました。
「僕は、皆が平穏に暮らせるように何か行動したい。何をどうしたらよいか今は全く思い浮かばないけど、でも・・・・・・今みたいな世界は嫌だから・・・・・・」
私はあまりの恥ずかしさに耐えきれず、思わず顔を下に向けその真っ赤な顔を両手で隠します。何だかませたことを言ったような、もしくは逆に幼稚なことを言ったような、――いずれにせよ、嘲笑されるに値することを言ってしまった気がします。心中で「言わなければ良かったかな」と後悔しつつ悄然として顔をゆっくり上げると、真理愛さんが和やかな笑みを浮かべて私を慈しむように見つめていました。
「良い夢ね。優しい君らしい綺麗な夢だと思うわ」
彼女はそう言うと、私に近づいて小指を立てた右手をさっと差し出します。
「ね、指切りしよ。私の歌手になる夢と君の夢とが絶対叶えられるように」
断る理由の無い私は首肯し、同様に小指を立てた右手をそっと差しのばします。そして互いの小指を絡め合うようにつなぎ、指切りの歌を一緒に口遊ながら繋いだその手を小さく振ります。そして歌い終わり手を離すと、私と真理愛さんは互いに顔を見合わせて小さく笑い合いました。
「ふふふ、こんな楽しい時間がいつまでも続いてくれたら良いのにね」
「本当、そうですね。――うん、頑張らなくちゃ」
「お、もう指切りの効果が現れ出したかな?」
「そんなまさか!」
「ハハハハ!」「ハハハハ!」
夜闇に包まれた薄暗い教会の中に、私と真理愛さんの明るく楽しげな笑い声が響き渡ります。暫し戦争で荒んだ世の中のことを忘れて、二人で無邪気に笑い合ったものでした。何とも自由で、何とも平和で、何とも清々しくて、――あの苦しい時代の中で久しぶりに楽しいと思える時間でした。
今から思えば彼女と何度も会ってきた中で、一番幸せだったのはこの時だったのかなと思います。齢80を越した今でも、夜の浦上天主堂を見つめる度にこの日のことを思い出すものです。
しかし、あの悪夢は足音も立てずにすぐそこまで近づいていたのです。
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