第3章 慕の形

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 翌日、1945年8月9日。朝10時半過ぎの浦上駅前。  私は島原から迎えに来た叔父と叔母と共に、間もなく列車に乗り込もうとしていました。この時の天気は雲が広がることもありましたが、青い晴れ空も広がる夏らしい天気だったと思います。蝉の鳴く声と共に人々の声や足音が飛び交う賑やかな夏の駅舎で、母が心苦しそうに私を見送ります。 「それではお母さん。先に行ってきます」 「うん、行ってらっしゃい。・・・・・・ごめんね、用事が終わったらすぐに向かうから、少しの間辛抱していてね」 「大丈夫だよ、お母さん。叔父さんも叔母さんもいるから寂しくないよ」  気丈に振る舞う私は母に手を振りながら、叔父と叔母に連れられて改札口を通り抜けます。叔父と叔母も「準備して待っているから」と母に告げて軽く一礼しました。パチンと切符に入鋏してもらいホームへ向かうと、時を同じくして私たちを乗せる列車がゆっくりと入線してきました。  列車に乗り込んだ私たちは進行方向右手のボックス席に3人で腰掛けます。ふと窓の外を見ると、改札口の辺りで母がまだ私に手を振っていました。 「用事があるなら、早く行けば良いのに・・・・・・」  恥ずかしさの余り、顔を赤くしながら無愛想なことを呟く私。叔父と叔母がまぁまぁと苦笑して私を宥めていると、高らかに汽笛をあげて列車がゆっくりと動き出しました。シュッシュッと白煙や黒煙をあげながら、速度を上げて行くにつれ、見送る母の姿も段々と小さくなっていきます。暫く待てばまた会えるというのに、それを見ていると心なしか遠く引き離され会えなくなるような、強い孤独感や不安を感じたものでした。 「それにしても、久しく見ない間にハル坊も大きくなったなぁ!」 「本当よね。前にあったのはまだこんな小さい頃だったのにねぇ~」  窓の外から視線をそらすと、叔父や叔母が私の不安を紛らわせようとしてか、明るい調子で話しかけてきます。ハル坊というのは、叔父叔母が私の呼び名として用いているものです。確か、この疎開前に最後にあったのが6歳ぐらいの頃でしたか。戦時体制への移行で多忙な日々を送り、ついには父が出征するなど、家族で島原へと向かう余裕すら無かったのですから無理も無いと思います。私はへらへらと機嫌を取るように笑いました。  それから暫くは叔父叔母の現況や私の現況など、他愛ない会話で盛り上がっていたとき、唐突に叔父が何かを思い出したように一瞬だけ目を見開いたと思えば、重くため息をつきながら神妙な顔で話し出しました。 「それにしても物騒な時代だよな。昨日なんて島鉄の列車に機銃掃射があったらしくてな、亡くなった人も出たんだとよ。俺らも今朝島鉄の列車に乗ったばかりだが、まさかなぁ・・・・・・」  これには叔母も私も顔を伏せて、黙って小さく頷くしか出来ません。  私たちが慎ましく生活しているそのすぐ後ろには、いつも戦争の黒い影が迫っていました。大村や佐世保では大規模な空襲があり多くの被害が出たと聞いていましたし、島原へと繋がっている私鉄の路線でも機銃掃射で被害が出たりと、民間人への被害も増えていたものです。 「ちょ、ちょっとあんた。今そんな話をしても困るだけでしょ!」  慌てて叔母が、何とか声を出して叔父を叱ります。叔父は変わらぬ調子で「あぁ、すまん」と一言呟くと、淀んだ目をしたまま窓の外を向きながらスパスパと煙草を吸っていました。昔会った叔父と言えば豪放磊落な性格で、いつも楽しい話や面白い話ばかりするような人でしたから、この時の彼の儚げで寂寥たる姿を見ていると、何か大切なものを喪失したかの如く空虚さを痛感したものでした。重苦しい雰囲気に耐えかねた私は、頭をかき回したり窓の外をボンヤリと眺めて気を紛らわそうとします。  そのようなことをしている内に、列車はいつの間にか長与駅へと到着していました。ダイヤ乱れで遅れて到着したらしい、長崎行きの下り列車が近くのホームで待ち合わせていました。  その対向列車の姿を見ながら、叔父が過去を懐かしむように、遠い目をして一人呟きました。 「そういえば昔会ったとき、ハル坊は一人で機関車を見ながらはしゃいでいたなぁ。懐かしいなぁ」  隣に座っている叔母は微笑んで頷きながら答えます。 「えぇ、そうでしたねぇ」 「あれ、そんなことあったっけ?」  私がキョトンとした顔で尋ねると、叔父と叔母は顔を見合わせて笑い合っていました。私にはそのような記憶は無かったので、首をかしげながら彼らを不思議そうに眺めましたが、同時に少しだけでも元気そうな姿を取り戻せたことに安堵していました。 「さてと、ハル坊。島原に着いたら何を食べたい?」 「何か好きなものとかある?叔母さん、可能な限り用意するわ!」  元気になったであろう叔父と叔母は、優しい笑みを浮かべながら私に尋ねてきました。いきなりの問いかけに戸惑いつつも、少しばかり考え込んだ後、私が答えようとした所その瞬間は訪れました。  ピカッ!  ドゴゴゴゴゴゴゴゴォーッ!!!!  突如眩いばかりの閃光に視界を奪われ、同時に耳を劈くような爆裂音が耳を塞ぐように響き渡ったかと思えば、その爆発によるものと思われる凄まじい風が私たちの乗る列車を襲ってきたのです。客車は激しく揺さぶられ、客車の窓硝子が割れ、車内に女性や子どもの悲鳴と大人の男性の怒号が轟きます。 「きゃあぁーっ!」 「何だ!?何事だ!?」  列車の中は阿鼻叫喚の様相を呈しています。何が起こっているのか、とても直視できるような状況にありません。頭を抱えて姿勢を低くするのがやっとでした。訳も分からずもみくちゃにされ、ただただ恐怖していたのです。  暫くしてそれらが収まってから見渡すと、周りの乗客達はキョロキョロと辺りを見回しながら、何度も瞬きをする等して狼狽えています。 「あ、痛っ!」  声がする方向を見ると、叔母が割れたガラス片で腕に怪我を負ったようでした。慌てて側にいた叔父が「大丈夫か」と声をかけます。幸い叔母の怪我の程度は軽く、近くの乗客も大きな怪我をしている人はいなかったようです。しかし、先程の凄まじい風は何だったのか。疑問に思いながら私は一人覚束ない足取りで客車の外に出ます。風が吹いてきた方向を一瞥した瞬間、私をはじめ周囲の人々は皆呆然としてその場に立ち尽くしました。一人の男が震える声で呟きます。 「何だ、あの巨大な雲は――」  私たちの目線の先には、青々とした夏の空に不釣り合いな程の不気味で大きな雲が浮かび上がっていました。所謂キノコ雲と呼ばれる雲です。信じられないものを見るように、人々は皆言葉を失っていきました。  その時、また別の男性がガタガタと激しく震えながら、その場に腰を抜かして座り込んでしまいます。ハッと我に返った何名かの人がその男性の元に駆け寄ります。大丈夫か、怪我は無いかと心配する声を投げかけられた男性は、俯きながら声を震わせてこう言いました。 「あっちは、長崎の方だろう。長崎には、私の、家族が、いるが、大丈夫だろうか・・・・・・」  その言葉を耳にした人々は皆、まるで金縛りに遭ったかのようにピタリと動きを止めます。すると多くの人が響めいていた長与駅は、瞬く間に沈黙が支配しました。そして、濛々と膨らむようなあの雲を見つめながら、人々は次第にこう呟き出しました。 「長崎はどうなってるんだ・・・・・・?」 「私の家族は無事か・・・・・・?」  不安や焦燥感に駆られた人々は、続々とふらふらと覚束ない足取りで線路に降り立っていったかと思えば、徐に線路の上を駆けて長崎方面へと向かい出していきます。危険を察知した駅員らが「駅に戻れ!」「危ないぞ!」と大音声で警告しますが、言うことを聞く人は殆どいませんでした。  私も長崎に残してきた家族や友人、そして真理愛さんのことが心配でたまりません。母は教会へ用事が、兄も姉も仕事をしているはずの時間帯。友人も夏休み中で自宅にいるかどこかで遊び回っているか。真理愛さんは病院に行っているであろう時間帯。もしも、あの得体の知れない爆発に巻き込まれていたら――ただただ気がかりなのです。しかし幼かった当時の私の小さな頭では、何をどうして良いのか皆目見当もつきません。非現実的な光景を目の前にして、ただ恐れ戦き狼狽えるばかりでした。不安や恐怖に苛まれる私の胸が、かつて無いほどに激しく鼓動しているように感じます。ホームの脇に崩れ落ちるように座り込み、目に涙を滲ませながら、恐ろしい雲の方を息を荒くして見つめていました。「お母さん、お兄さん、お姉さん。――真理愛さん。僕はどうしたら良いの?怖くて身体が動かないよ・・・・・・」  その時でした。 「おい!ハル坊!大丈夫か!」  後ろの方から私を呼ぶ声が聞こえます。後ろを振り向くと、叔父が焦り顔で私の元へ駆けつけるのが見えました。私は弱々しい声で返事をします。 「叔父さん・・・・・・」 「ハル坊!怪我は無いか!?」 「うん、怪我は大丈夫。それよりも――」 「あぁ、分かっている。お前も気がかりなんだろう?」 「・・・・・・」  私は黙って下を向きます。震える身体、不安と恐怖と絶望に満ちた真っ青な顔、荒い呼吸、・・・・・・恐怖で覆い尽くされたかのような姿の私。そのような私の姿を見ながら、叔父は何かを決心したように表情を引き締めて、私の肩をそっと掴みながら語りかけました。 「――俺は長崎に行く。あいつらのことが気になって仕方ねぇんだ。ハル坊はおばちゃんと一緒に駅で待っててくれ」  そう言うと、叔父はさっと立ち上がり、僅かばかりの荷物が入っているであろう図嚢を肩から提げて、一人長崎方面へと向かって歩き出しました。ハァハァと少しばかり呼吸を荒くし、武者震いで身体を震わせながら、叔父はゆっくりと線路の上を歩きます。私は必死の思いで彼を呼び止めました。 「待って叔父さん!」  叔父はゆっくりと私の方を向きます。 「どうした?ハル坊」  叔父は怪訝な表情をしながら、低い声で私に尋ねました。  その時の叔父の見たこと無い表情に、一瞬だけ胸をドキッとさせながらも、私は力強い口ぶりで叔父に告げました。 「僕も、叔父さんに付いていく!」  叔父は少しの間私を無言で見つめた後、徐に私から目をそらし、被っていた帽子で顔を隠します。隠れた叔父の表情は見えません。叔父を怒らせてしまったものと思いましたが、叔父は独り言を呟くように小さな声で話しました。 「おばちゃんに行ってきますと言って来い」  私はごくりと唾を飲み込み、叔母の待つ駅舎の方へと駆け込みました。
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