第1章 友の形

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 某年4月、私市布笑夢(いちぬのえむ)は長崎の街で大学生になった。  某大学の某学部、電車通りから少し離れた山手にあるキャンパスだが、創立は明治時代とかなり古い大学で、構内にはその当時に建てられた煉瓦造りの建物が今なお残る。キャンパス内を歩く学生は知徳兼備の様相を呈し、風格あるキャンパスの雰囲気と相まって、古より多数の優秀な学徒を輩出してきたであろう長い歴史を感じさせる。  そのような誇り高きキャンパスにある校舎の窓辺の席で、私は一人微睡んでいた。教室前方では教授が教壇に立って何やら難しい話をしている。経済学の基本はどうだ、現在の経済のあり方はどうだと声を大にして言っているが、正直に言うとよく分からない。必修科目故に履修せざるを得なかったとはいえ、これが大学教育かとその高度さをまざまざと感じるばかりだ。  難解かつ退屈な講義に飽きた私は、小さな欠伸をして机に伏せて寝ようとした。その矢先、横からノートブックで頭をポンと軽く叩かれた。 「こら、笑夢。講義中に寝ようとしないの」  優しい口調で私を叱ってきたのは、私の高校時代からの友人長与礼(ながよれい)だった。 「ちゃんと聞いてノートとってなきゃ、後で後悔するかもよ」  礼は微笑みながら、私を窘める。彼女のノートは、細かくも綺麗な字でページが埋め尽くされつつある。私は思わず感嘆の声を漏らした。そして彼女にヘコヘコとしながら自分のノートに視線を移すと、驚くほど白いノートがそこにあった。我ながら何と情けないことかと、呆れるようなため息が漏れ出る。  情けない自分に辟易とした私は、彼女の忠告に従いノートを取ることにした。初めは真面目に聞こうとしていたが、依然として教授の話は理解できず、小難しい話に頭が痛くなっていった。耳を傾けるだけで精一杯になった私は、結局ノートを取るふりをして、教授の話をBGMに頭に浮かんだ由無し事をノートに書き綴ることで気を紛らわしていた。  私が適当に暇を潰している横で、礼は相変わらずノートを取っている。流れるようにシャープペンシルが滑り、ページを文字や図で埋め尽くしていく。ただ静かに教授の話をノートにまとめているだけなのに、何だか彼女が私よりもずっと先を走っているような感覚を覚えた。    彼女、長与礼とは容姿端麗な荊山之玉たる女性だと私は思う。何事にも真面目に取り組み、また礼儀を重んじながらも誰とでも分け隔て無く接する様は絵に描いた優等生そのものだった。定期考査や模試の成績の良さも手伝って人望が厚く、彼女の周りにはいつも誰かがいて、いつも楽しそうに何かを話していた記憶がある。大袈裟な表現ではあるが、例え世界が闇に没しようと彼女の周りだけは光に照らされていそうな程の輝きを持った女性だという印象が強い。  一方で私は容姿も知能も平々凡々であると思う。いや、この178cmの身長は女性としては平凡ではないか。この長身で苦い経験をしたこともあり、コンプレックスとして捉えている節がある。人間関係も恵まれなかったわけでは無いが、元々人と話すことがあまり得意で無い性格故に、人とは多くを語ることは無かったように思う。彼女の眩しさに霞むくらい、私の世界はどこか暗く儚かった。  また、彼女には夢があった。彼女の実家はその地域じゃ知らない人はいないと言われるほど大きな農家らしく、農産物の生産に限らずそれらの加工、販売を行う企業体を運営している。そのような立派な実家の跡継ぎとして彼女は期待され、彼女もまたその期待に応えるように、実家の農業の安定及び地域の農業の発展に向けて勉学に励んでいるということだ。何とも立派な夢である。  一方で私には、目標や夢の類いがないためやりたいことが特にない。地元の街で吏員として働く実親の姿を見て、特に憧れなんて抱くこともなければ、実親からお前もなれと言われることもないので当然なる予定もない。ちなみに、この大学に来たのも「経済を学べば何とかなるだろう」という雑なイメージによるものだから何ともお粗末な話だ。  また私には飽き性な所もあるらしく、何かやりたいことがあったとしても長続きせずすぐに飽きてしまう。その上刹那主義な生き方で、その時その時の無難だと思える選択肢を適当に選び続けてきた結果、いつの間にか本当に自分がやりたいことが何なのか分からなくなっていた。  今まではそれでも特段苦労していなかった。何故なら、向かうべき道は選択肢として大人達から与えられていたからである。高校以下の学校は「規則」で学生らを厳しく律しつつ、一つの選択肢を選ばせるために「学問」を与え続けていた。学校という限られた空間の中でそれらに適応していけたなら、選択の正誤はともかくとして、深く考えずとも何とか先へ先へと歩むことは出来る。  しかし大学はどうだろうか。大学は選択肢を私たちに与えることはなく、むしろ「自分で見つけよ」と諫めているような気もする。入学試験の学部学科の選択、入学後の講義やゼミの選択等個人の力で選択せねばならない事項が増えた。大学生になってまだ日は浅い私だが、その時大学がどのような場所なのか思い知った。そうか、既にやりたいことが決まってる人間がやりたいことをするために学ぶ場所なのだと。私みたいなやりたいことのない人間には適さない場所なのだと。 「何かやりたいことがあるのって良いな――」  私は礼のことを内心羨んでいた。  講義が終わり教室を出ようとすると、礼が声をかけてきた。 「ねえ、笑夢。一緒に帰ろ?」  断る理由の無かった私は「うん」と首肯すると、礼は満面の笑みで喜んだ。礼の顔には愛らしいえくぼが浮かんでおり、思わず私も笑みがこぼれた。  2人で東門からキャンパスを出て、電車通りの方へと下っていく。時刻は夕方の6時頃。空は少しずつ日が傾きだし、若干肌寒い風が吹き抜けていた。私と礼は今にもくっつかんばかりの密接な距離で並んで歩いている。  歩きながら、私は礼にため息交じりに話しかけた。 「はぁ・・・・・・何か大学生って難しいなぁ」 「どうしたの笑夢?何かあったの?」  礼が心配そうに私の方を見るので、私は苦笑いで答えた。 「いや、大学生って自由なものだけどさ、その分何をしたいかが分からないと何も出来なくなりそうで怖いなって・・・・・・」  私の答えを聞くと、礼は少し考え込んでから私に優しく語りかける。 「何をしたいかなんて難しく考えなくても良いんじゃない?自分の好きなこととか面白そうだと思ったこととかさ」 「そんなものなの?」 「私もよく分からないけどね。私は小さい頃から父母のようになりたいと思ってたから、その夢に向けて勉強を頑張っていこうかなと思ってるの」 「ふ~ん・・・・・・」  私はとりあえず適当な相槌を打って話を区切った。小難しい話は追々考えていけば良いかと投げ遣りになっていたのかもしれない。私は話題を変えて、彼女と何気ない話で盛り上がるが、気がつくと自宅近くの交差点に立っていた。 「じゃあね、気をつけて」  私と礼は言葉を交わすと、互いの自宅へと歩き出した。礼の自宅は私の自宅から少し離れた所にある。小さくなっていく彼女の背中を、私は見えなくなるまで目で追っていた。  礼を見送ったところで、私は自宅であるアパートの一室に入る。一人暮らしなので、当然家の中には誰もいない。日が沈んだ家の中は真っ暗で、外の喧噪がかすかに聞こえる。  部屋に入るなり私は明りを灯し、鞄を適当に放り投げてベッドの上に寝転んだ。寝転ぶ私は何をするまでも無く、ただ天井を仰ぎ見て呆けているだけ。非生産的な行動で暇を潰す内に、無情にも時間が過ぎていく。そんな情けない自分の姿を思うと、何だか涙が出てきそうになる。 「私って何がしたいんだろうなぁ・・・・・・」  ぽつりと愚痴がこぼれ出ると、私以外誰もいない部屋を淀んだ空気が包んでいくような感覚がした。煌々と灯りが灯っているはずなのに、何故だか私の周りはどこか薄暗い気がする。しんと静まりかえる部屋の外から、子ども達の明るい笑い声が聞こえてくる度に空しさが増していく。そんな自分の姿にため息が漏れたが、難しい講義で疲れていたこともあるのか体を起こす余裕も無く、ベッドの上で徒爾に時間が過ぎていくのを見つめるだけであった。  暫く寝転んでいると、携帯電話の通知音が鳴ったのが聞こえてきた。徐に携帯電話を鞄から取り出すと、礼からメッセージが3件届いていた。 『笑夢。明日、大学休みだし一緒にお出かけしない?』 『さっき悩みを聞いてさ、どれだけ解決するか分からないけど、ちょっとずつ考えていけたらなって。気分転換も兼ねて2人でお出かけよ』  こんなメッセージを寄越すなんて、彼女は本当に親友思いの優しい子だ。独り身の今、親身になってくれる存在がすぐ側にいるというのは本当に安心する。しかしその一方で、私の面倒な性格に付き合わせてしまった疚しさも心の内にあった。  礼の優しさを無下にしたくなかった。彼女の優しさを裏切るような真似になると考えたからだ。けれど、恐らくこの私の面倒な話は彼女が思っているよりも、そして私が思っているよりも難しいものだと思う。今まで刹那主義のようにその都度満足できれば良いと未来を見て行動しなかった私の自業自得のような彼女を巻き込むべきではなかったという気持ちが強まるばかりであった。  悩んだ末に、それらしい適当な理由を付けて断ろうという結論に至った。携帯電話を手に取りメッセージを打ち込んでいると、礼から新しいメッセージが届いた。 『笑夢のことだから、もしかしたら適当な理由を付けて断ろうとか考えてるんじゃないかな?』 『笑夢にはそういう所があるけど、あまり良くないわよ。一人で抱え込んでても何も始まらないじゃない』  礼は私の心情を見通しているようで、思わず一人笑い声を上げてしまった。礼には敵わないなと照れ臭そうに頭をかきながら、途中まで打ち込んだメッセージを削除し最初から書き直した。 『礼は流石だね。ありがとう、相談に乗ってくれて』 『明日はどこに行くの?』  メッセージを2件送信し、礼からの返信を待つ。すぐに届いた返信に目を通すと、私は思わず「何よそれ」と笑いながらツッコミを入れた。 『な・い・しょ♡』
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