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暫く呆けて待っていると、礼が二人分の食事を持ってやって来た。
「はい、お待たせ。笑夢の分もあるわよ」
「うん、ありがとう」
トレーの上には、サンドウィッチの載った皿が2枚とコーヒーカップが2つ載っている。サンドウィッチは焼鯖サンド、玉子サンド、ハム・チーズ・レタスのサンドの3種類が彩り豊かに並んでいる。またカップからは湯気が立ち、淹れ立ての珈琲の香ばしい香りが漂ってくる。とても美味しそうだ。
いただきますと、2人手を合わせて食べる。どのサンドウィッチも中の具材とパンの相性が良く、また食感も風味もとても心地よい。サンドウィッチを食べつつ、時折珈琲を飲んで喉を潤す。鼻腔をくすぐる香りと深いコクのある味わいに心身共に癒やされるばかりだ。私が食べていると、向かいに座っている礼が美味しいねと私に笑いかけるので、私も小さく笑みを浮かべて頷いた。
暫く食べていると、礼が小さな声で呟いた。
「ねぇ、初めて会ったときのこと覚えてる?」
突拍子も無い質問に私は目を見開く。
「どうしたの急に?」
「いや、何となくその時の事を思い出しちゃってね」
初めて会ったとき、か。私は頭の中で記憶を掘り起こしてみる。そうだあの時かと思い出したとき、彼女は瞳を閉じて話を続けた。
「そうね、あれは1年生の秋の事だったわね」
「こら!市布!もっと素早く動けないのか!」
「お前が動けなきゃラリーが続かないじゃないか!」
高校1年の市布笑夢は先輩バレー部員から怒号を浴びせられていた。笑夢は申し訳なさげに平謝りするが、先輩部員達からは鋭い目つきで睨まれ、大きなため息をつかれるばかりであった。何度も頭を下げる笑夢を見た同級生部員の目つきも冷たく、同情する者はこのコートの中には誰もいなかった。
「なんで私、こんな所にいるんだろう」
自分のミスを反省する気持ちの裏で、自分の存在意義を自分の心へ問いかける日々が続いていた。
笑夢の母校は校訓に『文武両道』を掲げた進学校である。旧帝大をはじめとした全国各地の国立大学への高い進学率もさることながら、日頃の学業だけでなく部活動にも注力し、運動部文化部共に目覚ましい活躍を見せることで、その地域では有名な学校であった。
当時、笑夢の所属していたバレー部は、際だって優秀な成績を残してきた訳では無いものの、各種大会への入賞歴は少なくなく、また卒業生の中にはプロ選手になった者もいる等、その活躍ぶりは他部に引けを取らないものだった。それ故にか、高い理想や目標が毎年掲げられてはコーチや先輩部員らの指導の厳しさに拍車が掛かり、和気藹々とした部活動の雰囲気を望んで入った新入生達は早くも音を上げて、一人、また一人とコートを抜けていくような状況が続き、部員の数はやっとのことで補欠を確保できる程にまで減少。入学後から半年近く経とうとする夏の終り頃のバレーコート上に立つのは、バレーに本気で打ち込もうと情熱を燃やすバレーボール経験者ばかりとなっていた。
笑夢自身はバレーをやりたくて、この部活動に籍を置いたわけでは無い。かといって特にやりたいことがあったわけでも無かったため、放課後の教室で一人、部活動紹介のパンフレットを眺めて逡巡していた。
そこに、バレー部に入ったであろう同じ教室の女子生徒が先輩バレー部員を引き連れて現れたかと思えば、その先輩は笑夢の体をなめ回すように見るなりこう告げた。
「うんうん、君の体は実にバレー向きだネ。君は今日からバレー部に入ると良い!いや、入ってくれ!」
語気強めで発せられるあまりにも突然な話に、当然笑夢は困惑し狼狽えた。
「勝手に決められては困ります。自分の部活は自分で決めます」
苦笑いしながらも、笑夢は自分の意思を伝えようとした。しかし、先輩部員はそのような反応にも慣れてるのか、全く物怖じしなかった。むしろフッと鼻で笑い返せるほどの余裕があった。
少し間を置いて、先輩部員は凄むような口ぶりで言葉を投げかける。
「あなた、自分の立場分かってるノ?」
笑夢は背筋の凍るような思いをした。ふと周りを見渡すと、他の先輩と思われる上級生2名が教室の入口に立ちふさがっているのが見えた。先輩部員は更に言葉を投げつける。
「上級生の懇願に反逆するなんてサ、とんだ無礼者ね。上級生舐めてる?」
「い・・・・・・いえ、そんなことは・・・・・・」
声を震わせながらも笑夢は反論を続けようとするが、笑夢のか弱い声はもう先輩部員の耳には届いてないようだった。
「上級生がわざわざ下級生の部屋に来て、一下級生なんかに頭下げてるんだから、ちゃんとそれに応えてもらわないとネ、困るわけよ。わかる?」
笑夢は先輩部員の顔を直視できなくなり、黙って顔を伏せる。冷や汗を滝のように流す笑夢の表情をのぞき込まんがばかりに、先輩部員は笑夢の頭に顔を近づけては不敵な笑みを浮かべて呟いた。
「決まりネ。入部届にはバレー部って書いておいてあげたから、後は自分で名前を書いて提出しておいてネ。もし提出しなかったら後が怖いわよ」
先輩部員はサッと顔を離すと、踵を返して他の先輩部員や1年部員を引き連れて体育館へと向かっていった。彼女らの姿が見えなくなった所で、笑夢は声を押し殺して泣いた。
「こんな体になりたくて、なったわけでは、ないのになぁ――」
びゅうと強い風が校舎に吹きつけ、ガタガタと窓が揺れていた。ふと空を見上げると、どんよりとした灰色の雲が空を覆っていた。
体格が良いという理由で強制的に入部させられた笑夢だが、彼女自身バレーの経験は全くと言って良いほど無い。強いて枚挙するならば、小中学校の体育の授業で少しばかりやった程度である。また、運動自体もどちらかと言えば不得手であり、要領もどちらかと言えばあまりよろしくない。そんな彼女が、俊敏な動きが求められるスポーツの世界に付いていくことは難しかった。
体格に反し期待通りの技量を得られなかったのか、先輩部員らが向ける視線は日に日に冷たくなってきている気がする。最初の内はまだ許されている感覚もあったが、3年生の引退が近づくにつれ、次第に許容出来る程の余裕はなくなってきたらしい。毎日のように周りから怒号を浴びる日々が続き、笑夢の心はもう折れかけていた。
当然、何度もやめようと思ってはいた。しかし、両親に余計な心配をかけさせるわけにはいかないと慮る気持ちや、何よりあの時の先輩部員の表情や声が脳裏を過ぎるが故に、退部の決断を決め倦ねるばかりであった。
そのような日々が続いたある秋の日のこと、笑夢は一人で体育館のバレーコートを掃除していた。先輩部員や同級生らから、後片付けや掃除を任されるのはいつものことであり、辟易としつつも黙って受け入れざるを得なかった。
だだっ広い静かな空間の中に響く体育館シューズの擦れる音。外から他部活の生徒が明るい声で談笑しているのが聞こえてくる度に自分の惨めさを痛感するばかりだ。
はぁ・・・・・・とため息をついて座っていると、後ろから誰かが近づいてくる気配がした。体育館の床が軽くきしむ音も聞こえる。振り返ってみると、学生服を着た女子学生が立って心配そうな表情でこちらを見ていた。
「ここで何をしているの?」
女子学生は笑夢に尋ねた。笑夢は一息ついてから、突慳貪な態度で答える。
「見たら分かるでしょ、掃除よ掃除。邪魔しないで」
「もう下校時刻よ。早く終わらせないと施錠できないわよ」
「はぁ、分かってるって。さっさと終わらせたら良いんでしょ?」
笑夢は苛立ちながらサッと立ち上がり、近くの壁に立てかけていたモップを手にとって掃除を始めようとする。不愉快そうな顔で掃除を再開した笑夢を見た彼女は、小さくため息をついて一言言った。
「私も手伝うわ。早く終わらせて帰りましょ」
笑夢は慌ててやめるように呼びかける。私は一人で掃除しろと指示を受けてるんだと強く反発した。しかし、彼女はその声に応じず、黙って掃除用具入れからモップを取りだした。何度も何度も「大丈夫だから」「そこで待ってて」と苛立ちを露わにしながら刺々しく忠告しても、彼女は笑夢を無視して掃除を続けていた。その掴み所の無い態度に笑夢はついに堪忍袋の緒が切れた。
「なんで貴方もやろうとするの?私だけで出来るからほっといてよって言ってるじゃん!」
強い口調で怒鳴ると、彼女の手がぴたりと止まった。これで帰ってくれるかと笑夢が思っていると、彼女はズカズカと力強い足取りで笑夢に近づいたかと思えば笑夢の顔をジッと睨み付けた。驚いた笑夢は若干ひるみ、後ろに体を仰け反らせた。まるで蛇に睨まれた蛙である。
女子学生は睨み付けるのをやめると、一呼吸置いて、静かに落ち着いた口調で私に話しかけた。今からしたら、その時の声色はどこか母性的な優しさも帯びていたように思う。
「何となく、貴方のことが放っておけないからです。貴方の姿、どこか寂しそうに見えたんですよ。まるで誰かに助けを求めてるかのような姿でした」
笑夢は心の中で認めつつも、決してそれを表に出したくなかった。私の勝手なトラブルに赤の他人である彼女まで巻き込みたくないという心理が笑夢の中で働いていたため、多少動じながらも強気の姿勢で否定しようとした。
「は、はぁ!?意味わからないわよ!一人で掃除してるだけでしょ?私が好きでやってることなんだから!」
しかし、彼女は落ち着いていた。
「汚れた体操服と手足に見える傷や痣・・・・・・。それに今、貴方自身涙を流しているのに気がつきませんか?」
その言葉を聞いた途端、笑夢は慌てて自分の目元を触れてみた。本当だ、目元に一筋の涙の線が出来ている。しかもぽたりぽたり、一粒、また一粒と大粒の涙がその線の上をなぞりながら落ちていくのがハッキリと分かった。
しかし笑夢は何故涙が出てくるのかが理解できず、あふれ出ている涙を止めることは出来ない。涙を制御できないでいる内、笑夢はその場で膝から崩れ落ちて嗚咽を漏らした。溜まっていた鬱憤が一気に放出されたような開放感と、それによる安堵が笑夢の心中で合わさり、笑夢の感情を昂ぶらせたのだっだ。
その様子を眺めていた女子学生は、そっと笑夢の背中を包み込むように座り込んだかと思えば、耳元でひそひそと母性の溢れる声色で囁いた。
「貴方の心は正直ですね。今日はもう疲れましたし帰りましょうか。宜しければ相談にも乗りますよ」
笑夢は小さく首を縦に振った。それを見て女子学生も安堵し微笑む。泣き崩れる笑夢の背中を、女子学生はただ静かに優しく摩る。そんな体育館の2人の背中を、灰色の空から差し込む一筋の光芒が照らしていた。
暫くして、笑夢が落ち着きを取り戻したので2人で掃除道具を片付けていると、女子学生が思い出したように声を上げた。笑夢が首をかしげると、女子学生は口角の上がった表情を笑夢の方を向けた。
「そういえば、まだ名前を言ってなかったわね。私は長与礼。貴方と同じ1年生よ。よろしくね」
その時の礼の笑顔は、笑夢の目にとても眩く輝いて見えた。
「あのとき礼が来てくれなかったら、私たちの今はないわね。本当に感謝してるわ。ありがとうね、礼」
自分で言いながら思わず目に涙が浮かびそうになる私。
「ちょ、ちょ、ちょっと。恥ずかしいじゃん。照れ臭いよ、笑夢」
ばつの悪い顔をして私から顔を背ける礼を横目に、私は粛々とした口ぶりで話を続ける。
「あの後、すぐに部長に相談して退部できたけれど・・・・・・でも、私の心の傷は完全にまだ癒えてない気がするわ。多分ずっとこのままかもね」
「ん?それって――」
「私はね、この高身長の体のことを『嘲笑の対象』とか『誰かの都合の良い道具』だとしか思えないの。元々特に強く意識はしてなかったけれど、あれ以来私自身この体のことが嫌になってしまったわ」
私が話を終えると、笑夢は何も言わずただ俯くばかりだった。
ザアッと突風が木々を軽く揺らす。私と礼の間は沈黙に包まれ、互いに目を合わせようともしない気まずい時間が過ぎていく。ため息をつきながら、コーヒーを匙でかき回して一口飲む私。礼も無言でサンドウィッチに手を伸ばし、美味しいと小声で呟きながら食べていた。彼女の楽しい気分に水を差してしまったことに対して、故意でないにしろ私は忸怩たる思いでいっぱいだった。
小一時間が経ち、昼食を食べ終えると礼は私に昨日の相談について問いかけた。少しでも雰囲気を変えようと、彼女なりに気を遣ったのだろうと思う。
「そういえば昨日のことだけどさ、笑夢は何か興味のあることとか無いの?」
「う~ん、興味のあることかぁ・・・・・・」
私は言葉を詰まらせる。別に全くない訳では無いけれど、ただそれをやりたいかと言われると――いまいちどれもしっくりこない。眉間にしわを寄せ、頬杖を突きながら頭に浮かべようとするも、頭の中には何も出てこない。私がうんうんと唸って悩んでいると、人形館の玄関から先刻の女性が疑問の表情で出てきた。
「お客様、どうかされましたか」
礼が事情を話すと、女性はにこりと笑みを浮かべて笑夢に近寄る。
「ふふ、なら貴方の大切な人が喜ぶことをやるのはどうでしょうか」
「大切な人・・・・・・ですか?」
笑夢は首をかしげる。
「そうです。家族でも御友人でも、大切な人が必ず一人はいるものです。大切な人がいつまでも明るくいられるように、その人が喜ぶようなことをやっていくのも選択肢として考えられませんか?」
なるほど、そういう考え方もあったかと私は繰り返し頷く。礼も「それ、良いですね!」と賛意を示す。私たちの様子を見て胸をなで下ろした女性は、食器を片付けますね、と一言告げ、それらを館の奥の方へと持って行った。小さくなっていく女性の背中を見ながら、礼は私に小声で呟くように話しかけた。
「大切な人かぁ。・・・・・・笑夢の大切な人って誰?」
唐突な質問に驚く私。とりあえず無難な回答をしてみる。
「え、私?私は――家族かな?礼は?」
「私も家族――いや、家族と同じくらい大切だと思う人が一人いるわ」
ほのかに照れた顔で視線をそらしながら、なんとも意味深長な答えを出してくる礼。家族と同じくらい大切な人ねぇ・・・・・・と、何となく彼女の言いたいことを察した私は、彼女から見えない角度でにたりと笑った。
「ありがとうございました。またお越し下さいませ」
女性の声に見送られつつ、私たちは女性へ軽く一礼して人形館を後にする。美しい人形達も魅力的だが、何よりここは不思議と居心地が良く、とても落ち着く空間だったように思う。雑談で盛り上がる内に、いつの間にか私の腕時計の針は16時を指していた。
少し歩いて電車通りに出て、電停に辿り着く。待つ旅客は私たち二人だけのようだ。電車が来るまでの間、またあそこに行きたいね等と二人で余韻に浸っていると、突然礼が思い出したように呟いた。
「そういえば、丁度一ヶ月後は笑夢の誕生日だったね」
あぁ、そういえばと自分でもハッとした。今日は4月19日。私の誕生日である5月19日まで残り一月だと、礼に言われて気づかされた。入学準備やら何やらで忙しない日々を過ごす内に、自分の誕生日が少しずつ近づいていることにすら気がついてなかったようだ。
礼はニコニコと白い歯を見せながら、明るい声で私に誓った。
「1ヶ月後、笑夢にとっておきのプレゼントを渡すから楽しみにしててね!」
別にプレゼントが欲しいとは思っては無いけれども・・・・・・。少々戸惑いつつも、彼女の言葉に「ありがとう。楽しみにしとくね」と私は好意を示すと、彼女は嬉しそうに首を大きく縦に振り鼻歌を口ずさみだした。彼女の歌を聴きながら待っていると、帰りの電車がやって来た。礼もそれに気づき歌うのを止めると、私の方を向いて一言「帰りましょうか」と告げて、私と一緒に乗り込んだ。
電停発車後、ゴトゴトと揺れる感覚を全身に感じ、唸るモーター音を耳にしている内に、いつの間にか礼は眠りに落ち、私の肩を枕にしていた。小さな子どものように幸せそうな寝顔を私に見せながら眠る礼を見ていると、思わず小さな笑みがこぼれ出てしまう。普段はどこか大人びていて、しっかりしている彼女のちょっぴり意外な可愛らしい一面。それを慈しむような眼差しで私は彼女を見つめていると、電車は自宅最寄りの電停に到着しようとしていた。
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