第2章 愛の形

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第2章 愛の形

 5月下旬。東山手人形館。 「今日からここで働くことになりました、市布笑夢です。よろしくお願いします!」  人形館の2階にある事務室では、若い女性の明朗な声が響く。今日からこの人形館のスタッフとして働き出す、市布笑夢の挨拶の声だ。少々緊張しているのか、少しだけ裏返った声が何とも初々しく愛らしい。  彼女は『気持ちを形にして届ける仕事をしたい』という夢のため、この人形館で働くことを決めた。親友である長与礼からの告白を受け、彼女の気持ちに対する自分の気持ちを形にして答えたいというのが今の彼女の目標である。自分のことを心から愛してくれる親友のため、その親友と同じように心中に思いを秘め続ける人のため、彼女は今ここに立っている。  私が挨拶し終えると、周りに立っていた館長や他のスタッフらが和やかな表情で拍手して歓迎してくれた。私は安堵の表情を浮かべて、ペコペコと何度も頭を下げて感謝の意を表する。私が頭を上げると、館長である緑朗さんが掌を打ち合わせて仕切り直す。 「では、せっかくですしここで人形館のスタッフを紹介しましょう。まず、左から――」  館長は落ち着いた口調で、スタッフ一人一人の名前や仕事を紹介していく。私も彼の紹介に合せて、スタッフの方へ一人一人会釈をする。私と目を合わせて礼儀正しく一礼する人、ニコニコと微笑みながら両手を小さく振る人、決まりの悪そうな顔をしながら小さく頭を下げる人、――十人十色な反応に少し驚いたが、皆さん私のことを歓迎していると言って下さり、何だか緊張が少し解れたような気がする。  スタッフの紹介を終えると、館長は仕事に戻るように呼びかけた。スタッフが持ち場に戻る中、私は館長に「そのままここで待っていて」と言われたので、掃き出し窓の側に佇んで外を眺めることにした。  外は今日も燦々と太陽が輝き、心地よい風が吹いている。石畳を仲睦まじく歩いているのか、小さな子どもを連れた家族連れの声が聞こえてくる。なんとも平和で、なんとも長閑な長崎の街。この平穏さに心を落ち着かせていると、後ろから私を呼ぶ声が聞こえてきた。 「市布さん、お待たせしました。案内したいところがあるので付いてきて下さい」  私は館長に言われるがままその背中に付いていく。古い洋館らしく、私や館長が歩く度に床が小さくミシミシと音を立てる。少し薄暗い廊下を進んでいると、色の剥げた真鍮の丸いドアノブが付いた扉の前で館長は立ち止まった。 「ここは、当館の人形の保管庫になります。お客様に渡す人形の他、展示室の人形もここに保管しています。人形を取り出すとき以外は鍵を閉めてますので、ここに用があるときは私に一声かけて下さい」  そう言うと、館長は手に持っていた鍵の束から、金色に輝く古そうな鍵を一つ取り出し、それを鍵穴に差し込んで回す。ガチャリ、キィ。年季を感じる古めかしい音と共に木の扉が開いた。  扉の先は光が全く通っておらず暗かった。館長は開いた扉の脇にあるスイッチを押して電気を点ける。明るく照らし出された部屋の中は奥の方まで棚が並ぶ無機質なもので、棚の中では人形や人形用の革張りのトランクが整然と並べられていた。  館長は部屋の中を見渡しながらさっと入っていく。私も慌てて彼に付いていくと、彼は『注文品Ⅰ』と書かれた棚の前で立ち止まり、棚の中をジロジロと凝視していた。私が側に来て間もなく彼は探し物を見つけたようで、棚の中から人形が入っているであろうトランクを一つ、慎重に取り出していた。 「その人形は?」  私が尋ねると、彼は表情を緩めて答えた。 「もうすぐいらっしゃる予定のお客様の()ですね。もう時間なので、そろそろ呼ばれるかと――」  館長が途中まで言いかけたところで、保管庫の入口の方から館長を呼ぶ声が聞こえてきた。どうやらそのお客様が来たようで、館長は「すぐ行きます」と軽く返事をすると、先ほど取り出したトランクを手にとった。その立ち上がりざま、館長は何か思いついたような顔をして私の方を向いた。 「そうだ、今日は私と一緒に応接室でお客様と話をしに行きましょう」  館長にそう告げられ、私は慌てて「無理」だと断ろうとしたが、彼は大丈夫だと言うばかりで聞く耳を持たない。結局、彼と保管庫を後にし応接室で待つお客様の元へと向かうこととなったが、仕事における礼節に関して私は不勉強である。下手してお客様を怒らせてしまえば・・・・・・そのような不安が脳裏を過ぎる内、緊張から段々と体の動きがどこかぎこちなくなっていくのを感じた。  トントンと軽く応接室の扉をノックし入ると、ソファにちょこんと腰掛ける初老の男性の姿が目に入った。その表情は引き締まっているというより、どこか少し険しく見える。一方で男性も私と館長の姿が見えると、その場に立ち上がり深々と頭を下げた。 「本日は急な来訪にもご対応いただき、心から感謝致します」  男性が謝意を表すると、館長も深く頭を下げて謝意を見せる。私も館長の見よう見まねで深々とお辞儀をする。 「こちらこそ、本日はお越しいただき有り難うございます。では、どうぞご着席下さい」  館長にそう促された男性は、軽く頭を下げて再びソファに腰掛ける。館長も後に続くように腰をかけようとしたので、私も同じようにそっと向かいのソファに腰掛けようとした。その時、私は固まっていた体を急に動かしたからなのか何かに躓いて転び、その衝撃でソファに思いっきり音を立てて腰掛けてしまった。  「痛てて・・・・・・」と腰を軽くさすりながら体を起こしていると、男性も館長も呆気にとられているのが見えた。ハッとした私の顔が赤くなっていく。恥ずかしさと後悔の余り、顔を沈めていると男性のクククと笑う声が聞こえてきた。私が顔を上げると、先ほどまで険しさを感じた男性の表情が破顔しているのが目に入った。  私が見つめているのが見えたのか、ハッとした男性は慌てて私を宥める。 「失礼しました。何分、私はこういう雰囲気の場所にあまり慣れてなくて緊張してたものですから、どんな表情をしたら良いか分からなかったもので――」  男性は照れた表情で何度もペコペコと軽く頭を下げる。私も思わず申し訳ない申し訳ないと何度も頭を下げながら、机上に置いているトランクの様子を一応確認した。どうやら無事らしく、私はホッと胸をなで下ろした。そんな私の耳元に館長が苦笑いでそっと囁いた。 「今のは偶々運が良かったけど、次からは気をつけてね」  窘められた私は小さくはいと返事し、申し訳なさから体が縮こまっていくような感覚を感じた。顔も少し赤くなっていたかもしれない。 「えぇ、改めまして。私が館長の湊緑朗です。こちらは新人の市布笑夢です」  館長は自分の名前と共に私の名前も紹介すると、胸ポケットから名刺を取り出して男性へ差し出す。男性も恭しくそれを受け取り、渋みのある落ち着いた低声で私と館長へ話しかける。 「私は、得河二郎(えがわじろう)と申します。改めて、本日は有り難うございます。市布さん・・・・・・でしたか、お怪我は大丈夫ですか?」  唐突に心配されたもので吃驚した私は、慌てて大丈夫です!と声を裏返らせながら返答してしまった。得河さんはそんな私の姿を見て、優しく微笑んだ。 「いや、私の妻も明るい人柄でね。何だか市布さんを見てると、若い頃の妻を思い出すんだ」  私は照れ笑いながら小さく頭を何度も下げる。一方、その横で館長はボソッと何か呟いたかと思えばどこか物思いに沈んだ顔をしていた。得河さんも何だか寂しげな顔をしているような気がする。  どこか重い空気になりかけた所で、館長は一つ大きく咳払いをし、得河さんへと問いかける。 「得河さんが本日お見えになったということは――」  館長が話しかけたところで、得河さんは少し食い気味に答える。 「えぇ、実は今度私の娘が結婚するんですよ。それで今日は、妻が頼んでいた人形の方を受け取りに来たのです」 「やはり、そうでしたか。お嬢様の結婚、誠におめでとうございます」  館長がその場で深く礼をする。私も「おめでとうございます!」と一言つけて、館長に続いて深く礼をした。得河さんは照れ臭そうにしながら、頭を小さく何度も下げている。 「えぇっと、それで妻が注文していた人形は?」  落ち着いた得河さんは館長に問う。 「はい、こちらが得河様の御注文の人形になります」  そう答えると館長は、机の上に置いていたトランクの蓋を開ける。  開けた瞬間、ふわりと微かに薫る柔らかくて甘い香り・・・・・・スミレの香りのようだ。トランクの中で静かに眠っている人形の少女は、スミレの香りのする香水をつけているのだ。  また少女は、透き通るような純白のドレス衣装に身を包んでいた。白いウェディンググローブに包まれた両手には、色とりどりの薔薇のブーケが握られている。トランクの中の少女は結婚の時を迎えているのであろう。まぶたを閉じて微笑む彼女の表情から、この時を心から喜んでいることが窺える。眺めている私も、何だか胸の内から温かいものがこみ上げてくる感覚がする。見ているだけで気持ちが安らぎ、幸福感に包まれていく・・・・・・彼女にはそんな力があるのかもしれない。  そのような彼女のことを、得河さんはどこか寂しそうな表情で見つめていた。人形の出来に不満があったのだろうかと私はつい心配になり、か細い声ではあるが彼に尋ねてみることにした。 「人形に・・・・・・何か問題でもありましたか・・・・・・?」  私の問いかけに驚いたのか、得河さんは「ん?」と素っ頓狂な声を上げる。 「あ、いえ表情が沈んでいたような・・・・・・暗い表情に見えてしまったもので」  私がそう答えると、得河さんは寂しげに笑いながら人形をそっとトランクに戻して答えた。その顔には、うっすらと涙の跡が見える。 「娘が結婚する寂しさもあるし、何より私の妻のことを思い出してしまってね。・・・・・・少しばかり感傷に浸っていたんだ」  そう語ると、得河さんは窓の外の方を静かに見つめた。窓の外にはいつもと変わらない、静かな人形館の庭が少しばかり見える。館の下の石畳を行く子ども達の快活な笑い声も聞こえてくる。それらにただ身を委ねようとせんばかりに、彼は静かに瞳を閉じて思い耽っているように見えた。そんな得河さんの様子を、私はただ何も言わずに見つめるほか出来なかった。  しばらくし、彼は瞳を開けて私たちの方へ向き直る。小さく一礼し謝意を示すと、徐に彼は何かひらめいたように私へ提案した。 「そうだ。せっかくですし、私の家族の話をしましょう。少しばかり長くなるかもしれないが大丈夫かい?」  「良いのですか?」と館長は不安げな顔で首をかしげた。館長の心配とは裏腹に、得河さんは微笑を浮かべて首肯する。 「えぇ、新人さんにもこの人形のことについて話しておかないとと思いまして」 「・・・・・・わかりました。それならば」  館長は少し考え込んだ後、得河さんの提案を受け入れた。  それを見た得河さんは軽く咳払いをすると、表情を引き締めてぽつりぽつりと語り出した。 「これは何年も前の話になりますが――」
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