一 絶望からの転落。

3/4
前へ
/538ページ
次へ
「おじさん、何してるの?」  不意に後ろから肩を叩かれた時、私は32階建てタワーマンションのエントランス付近でうろうろしていました。オートロック式のエントランスで、建物内に入ることができなかったのです。でも、高さは充分だったし、商業ビルやオフィスビルでは屋上へ出ることが難しいことを考えると、私が人生を断ち切るのはこのビル以外考えられませんでした。 「おじさん。ちょっとお話聞かせてもらえますか?」  肩を叩いた男は若い警察官でした。職務質問というわけです。  彼は、声をかけられても振り向こうとしない私の前に回りこんでくると、油断のない眼で私を上から下まで一通り眺め、少し苦笑気味に嘆息しました。 「ずいぶんひどい感じになっちゃってますけど、何かありましたか?」  確かに、その時の私の顔はひどいものでした。口の周りは嘔吐物のカスがこびりついていたし、右の目元から頬にかけて、吐きかけられた唾が流れていたし、眼はうつろで表情もなかったのです。目端の利きそうなこの若い警官は、このタワーマンションへ侵入しようとしている風の私の目的が、窃盗の類ではない事を見抜いたようでした。 「ちょっと交番で、熱いコーヒーでも飲みながら落ち着いて話聞かせて下さいよ。まぁたいしてうまいコーヒーではないですけど」  若い警官はそう言うと、私の背中をそっと押して、歩き始めました。 「申し訳ないですねー、おじさん。ご足労願っちゃって。立ち話もね、アレですしね。一応仕事なんで、そこらで一杯やりながらってのもね。  仕事じゃなきゃ僕んちが近いんですけどねぇ」  一言も返さない私にそんな言葉をかけながら、彼は路地に面した喫茶店の入り口まで私を連れてくると、 「あ、おじさん、ちょっと待っててくださいね」 そう言って、喫茶店の中に入っていきました。
/538ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加