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彼はすぐに店を出てきました。手には湯気の立つおしぼりが2つ。
「さ、おじさん、まず顔拭きましょう。さっぱりしましょうよ、ね?」
私は促されるままおしぼりを受け取ると、顔に押し当てました。
思わず声が出るほど熱いおしぼり。私は慌てておしぼりを広げ、少し振ってからぐいっと顔を拭いました。吐きかけられた唾や嘔吐した跡を拭くと、若い警官はもう一つのおしぼりを差し出してきました。
「おじさんの声、やっと聞けましたね。さ、これ」
すっかり汚れてしまったおしぼりと新しいおしぼりを交換し、丹念に顔を拭っていると、不意に眼から涙があふれてきました。おしぼりで眼を押さえ、身体の奥から感情がうごめき、湧き上がってくるのを感じたその時、地の底から響いてくるような凄まじい音とともに、大地がうねり、私は投げ出されるように地面に倒れこみました。
立っていることすら出来ない上下動。やっとのことで少し身体を起こすと、あの若い警官が地面にはいつくばったまま私のほうへ手を伸ばし、何かを叫んでいました。しかし、轟音が全てをかき消してしまい、何も聞こえません。私は彼のほうへ身体を向け、近づこうとしました。なぜか、彼が何を叫んでいるのかが気になったのです。敵と他人だけになってしまったこの世の中で、最後に、あたたかいつながりを持ってくれた人だからなのかもしれません。
地面のゆれが激しくなって地割れのひびが走り、私はただ地面にしがみついていました。
指がひびにかかり、それを支点に彼のほうへ身体を近づけようとした時、崩れ落ちてきたコンクリートの巨塊が、一瞬にして彼を私の視界から消し去りました。顔に飛び散ってくる熱くどろっとした液体。
そして次の瞬間、私を支えていた大地が崩れ去り、私の身体は無限の底へ飲み込まれていきました。
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