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女に誑しこまれ、出しに使われ、散々貢いだ末に捨てられた山下は、絶望感と虚無感と寂寥感にどっぷり浸かりながら青木ヶ原の原生林を進んで行った。針葉樹を中心に鬱蒼と茂る木漏れ日の少ない薄暗く苔むした湿っぽい樹海の深みに嵌れば嵌まる程、彼の心は暗澹として来た。ところが、突如として前方に暗澹を切り開くような白く光る物が木々の合間から見えて来た。それは表面がモルタルだかコンクリートだか分からない真っ白で真っ四角な小さい建物だった。
で、好奇心が勃然と湧いた山下は、こんな所にこんな建物がある筈がないがと意外の感に打たれ不思議の感に打たれながら近づいて行くと、ライフコンサルティング&ドラッグストアと銘打った看板が紫檀で出来ていると思しき入口ドアの上に掲げてあるのが分かった。
全く奇妙な所に奇妙な建物そして奇妙な看板もあったものだと山下は思い、俺の為に待ち構えていたかのようでもあるという気がしていると、ドアが自動的に開いて中で机に向かって腰かけている男に、ようこそいらっしゃいましたと妙に響く明るい声で言われた。彼はビジネススーツに身を包んでいて若々しく溌剌とした感じで、これもこんな所にこんな男がいる筈がないがと思わせるに十分だった。だから山下はまたも意外の感に打たれ不思議の感に打たれるも何故だか抵抗なく促されるが儘、中へ入ってしまうと、背後のドアが自動的に閉まった。
「どうぞ、お座りください」
天井には照明が点いていて中は明るいが、窓はないので完全に外界から閉ざされた感じがした山下は、それでも促されるが儘、男の向かいの席に座った自分に対しても意外の感に打たれ不思議の感に打たれた。
「看板を見られましたか?」
「はい」
「ではお分かりでしょう。私はコンサルタント&ドラギストです。人生における悩みの相談に乗り問題点を薬で解決して差し上げます。悩み事がおありなら何なりと仰ってください」
そう言われて山下は素直に吐露した。
「あの、僕は彼女だと信じていた女に騙されて人間不信に陥って・・・」
「ああ、分かります。例えば優しそうな笑顔を差し向けられ、ついうっとりしている内に欺かれる。そういうこともあったのでは?」
「ええ、言われてみれば・・・」
「と言うことは美人だった?」
「ええ、美人でした」
「そうでしょう。美人は魔物ですからねえ。どうせ、あなたと付き合う陰でやんごとなき人とお付き合いをし、それを偽っていたんでしょう。そう、美人は嘘をつくのも巧妙でしてねえ。そうでしょう」
「ええ、今にして思えば、僕は愚かにも鼻先思案で担がれていました。完全に利用されてたんです」
「そうして捨てられた訳ですか」
「はい」
「しかしですねえ、捨てる神あれば拾う神ありです。ここにですねえ、嘘と誠を見分けられ、欺瞞や虚偽に騙されなくなる薬がありますから希望を持ってください」と言って男は背後の棚に置いてあった薬瓶を取り上げ、中から一粒取り出した。「これを服用なされば、二度と騙されません。そして自分に相応しいパートナーを見つけ出せ、幸せに生きて行かれることでしょう。欲しいですか?」
「それが本当なら」
「本当ですよ。信じないんですか?」男の異様に迫力がある目力に山下は気圧されて、い、いえと答えざるを得なくなった。
「なら欲しいでしょう」
「え、ええ」と山下は猶も気圧されて答えた。
「では一千万払ってください」
「えっ!」
「ある訳ないですよねえ。あなたは有り金のほとんどを女に使われてしまったんですから」
ESPを備えているのだろうかと山下が驚嘆していると、男は言った。
「図星のようですね。では、お金はいいですから私に魂を売ってください」
「えっ?!」
「天寿を全うしてからでいいんです。死後の世界なんてありはしませんから死後を心配する必要はありませんし、どうせ一度の人生ですから余生をお楽しみにならないと」
山下は恐れながらも男をじっと見てから、そんなことを言うあなたは?と問いかけると、男が即座に悪魔ですと答えたので、もしやと思ったことが当たってびっくり仰天したが、それ以外には有り得ないと諒として身震いしながら言った。
「あの、売った場合、僕の魂をどうする積もりですか?」
「別の体に入れます。つまり、あなたは生まれ変わるんですよ」
「えっ、何にですか?」
「それは分かりませんが、さっきも言った通り死後の世界はありませんから、どうぞご安心ください」
「それも本当なんですか?」
「ええ、悪魔に二言はありません。保証します」
その重みのある声に誠意に似たものを感じた山下は、このまま死ぬよりは悪魔を信じ、悪魔に魂を売った方が良いと思えたので意を決して言った。
「魂を売ります」
「そう来なくてはいけません。では、お渡ししましょう」と悪魔は言うと、薬を山下に与えた。
山下が掌に乗った丸薬を見つめていると、悪魔は机に置いてあったポットのお湯をコップに注いで山下に渡した。「さあ、お飲みになってください」
山下は迷いなくお湯で薬を飲んだ。すると、これで契約は取り交わされましたと悪魔が言うや否や、そこにあった物という物が残らず悪魔諸共跡形もなく消えてしまい、山下はどすんと草叢に尻もちをついた。で、今まで悪魔と対していたのは現実で幻でなかったと確信した彼は、帰り道、行きとは違って森林浴を楽しみ、富士山や湖がある風景を堪能しながら遊歩道を歩いた。
それからというもの山下は悪魔の言う通り嘘と誠を見分けられるようになって美人ではないものの正直な女と結ばれたが、欠点をずけずけ言われることが間々ある決して好ましくない夫婦生活を送り、また、この世が嘘だらけと分かって全く生きることに嫌気が差す毎日となった。そして死後、屍から悪魔に抜き取られた魂は、地獄へ送られてしまったのだった。あのまま自殺していれば、天国へ行けたものを悪魔にも都合良く騙された訳だ。
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