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見積もりを直接持って来い、とか言っておきながら、結局断るのかよ。大手はいい気なもんだな……。
ビルの隙間から見える空は小さいながらも眩しい程に晴れ渡っていて、余計に俺を苛立たせた。
大勢のサラリーマン達が行き交う交差点では、青色の信号が点滅していた。後ろから来た奴らが慌てて走って行くが、俺は横断歩道の手前でゆっくりと足を止める。
わざわざ部長に文句を言われる為に急いで社に帰っだところで意味が無いだろう。
せかせかと動き回る奴らの後ろ姿に俺は嘲りの視線を投げつけてやる。
ふと、働きねずみの群れみたいな奴らの向こう側に黒い小柄な影がある事に気が付いた。
黒い影は通りの向こう側で大人しく信号待ちをしている。
黒い尖り帽に黒いブーツ、黒いマントを羽織り、更には黒い杖までついている姿は、黒づくめのサラリーマンがひしめき合うオフィス街の中にあっても随分と目立って見えた。
大人の背丈よりも小さなその姿は成長途中というよりも、年の為に折れ曲がり縮んだものの様だった。
けれどそれの異様さは、外見からくるものだけでは無い様に思える。通りのこちら側からでも見て取れる何か醜悪な空気がそれの周りにだけ漂っていた。見ているだけで引きずりこまれそうな負の引力がそこにはあった。
それでも慌ただしく先ばかり見続けているねずみ達は気に留める様子も無く歩き去って行く。ここは渋谷駅に近い事もあって、多少おかしな格好をしていても皆慣れたものなのだろうか。
それとも、俺にしか見えていない……。
なんて事ある訳無いよな……。
俺は自分の目をぐしぐしと擦ってみる。
いつの間にか信号は青に変わっていた。俺は後ろから来たやつらに背中を押される様にして横断歩道を渡り始めた。
せかせかと通り過ぎて行く人達の中で黒い影はゆっくりとこちらに近づいて来る。
恐ろしく尖った鉤鼻に切り裂かれた様な大きな口、深く刻まれた皺が顔全体を覆っているその顔は、まるで子供の頃に見た絵本の中の魔女の様だった。けれど皺だらけの黒い影の顔は怨みを募らせる女の様でもあり、欲深い男の顔にも見えるのだった。
目を合わせてはいけない。
そう思いながらも俺はそれから目を逸らす事ができないでいた。垂れ下がる様な瞼の奥からは鈍い光を放つ小さな瞳がこちらをじっと見つめている。
早く通り過ぎてしまおう。
そう思い足を早めると、すれ違いざまその大きな口が僅かに開かれた。そして突如として現れた真っ赤な裂け目は俺にしか聞き取れない様な声で小さく囁いた。
「……ありがとう」
それは地の底から微かに響いてくる振動の様だった。
背筋の辺りにぞわりと冷たいものが走るのがわかった。
俺の心の中を見透かしているかの様に黒い影はほんの少しだけ笑みを浮かべた様に見えた。
プァーッ。
クラクションの音にはっと我に返ると、俺は慌てて歩道まで走って行った。
何だったんだ今のは……。
俺はガードレールに手をついて息を整えた。
俺はあんな魔女みたいな奴になんかお礼を言われる筋合いは無いぞ。誰か人違いか?
誰か、悪魔にでも魂を売った奴……。
俺は慌てて後ろを振り返る。
黒い影は人混みの中に紛れてしまったのか、見えなくなってしまっていた。
「まさかな……」
俺は一人呟くと歩き出した。
オフィスに戻って営業部の廊下の前を歩いていると、営業一課の方から佐々木さんの熊の様にのっそりとした姿がこちらに向かって来るのが目に入った。飾り気の無い紺色のスーツとオフホワイトのボウタイブラウスに身を包んだ彼女は、俺と目が合うと僅かに視線を逸らせた。
佐々木さんの豊満というよりかは、ブヨブヨと脂肪をたっぷりと蓄えた肉の塊の様な裸体が脳裏に浮かぶ。
俺も反射的に視線を外す。
安っぽい柔軟剤の香りが鼻をくすぐった。
「金曜日の事は忘れて下さい……」
そう言った彼女の黒縁メガネの奥にある単の瞼は真っ直ぐ前を向いていて、それ以上の他意は無さそうに見えた。
俺はほっと胸を撫で下ろした。
金曜日は営業一課の井上君の送別会だった。座敷を貸し切りにして盛大に行われた送別会の後、二次会をどこでやろうか皆で相談している途中で何故だか俺は営業部の奴らとはぐれてしまったのだ。そのまま帰るにはまだ早い。仕方なく辺りを物色していると、先に帰った筈の佐々木さんが目の前を歩いていた。普段だったら地味なアラフォー独身女の佐々木さんになんか先ずは声などかけない。営業部一の美人と言われている二課の井上さんとか、今年新卒で入ったばかりの初々しい小野宮さんだったら間違いなく声をかけるんだろうけど……。それでも何を血迷ったのか俺達はその後二人で近くにあった小洒落たバーに立ち寄って、身を寄せ合いながら小さなグラスを傾けていた。ビールをひたすら飲んだ後ではそんな繊細な味などわかる訳無いのだが、俺はカタカナの長ったらしい名前のカクテルを何杯か続けて飲んだ。その後の事は良く覚えていない。まあ、大人同士の酔った勢いって奴だ。
デスクに戻ると俺は思いっきり伸びをした。
部長のお小言なんかは右耳から左耳へ最短距離で流れて消えていった。
けれど俺は、去年購入したばかりの東京郊外の3LDKのマンションに向かう快速電車に乗る頃になると、再び不安になり始めた。
佐々木さんは見た目からも、金曜日に実際に交わった体からも男の気配は全く感じられなかった。そんな女が久々の男を「大人の関係」と簡単に済ませてくれるものだろうか。今後も関係を求められるか、それともそれをネタに女房にバラすと脅されるか、セクハラで訴えられるかのどれかだと思っていたんだが……。
ふと隣りに視線を向けると若い女の子の白いうなじが目に入った。広く襟の開いた首筋は佐々木さんのブヨブヨの脂肪よりもずっと艶めいて見えた。
ガタリと小さく揺れると電車は静かに止まった。目の前に座っていたサラリーマン風の男が慌てて駅に降りていく。俺は人の隙間にするりと体を滑り込ませると、男の体で暖まった座席に腰を下ろした。
前から見ると白いうなじの女子は、クリクリとした大きな目が魅力的で、艶やかなふっくらとした唇がやけに色っぽい、俺好みの女だった事に気がついた。席を譲ってやれば良かったかなと下心が疼いたが、それはそれだ。これから俺は後30分も電車に揺られていかなければならないのだ。
俺が固い座席に深く身を沈め直すと、サラリーマン風の男と入れ替わりに、真っ白な髪を後ろで一つにまとめた小柄な婆さんが乗ってきた。
電車が動き出すと小柄な婆さんの体はグラグラと揺れた。必死に金属製の柱に掴まっている腕にはエコバッグの様なナイロン製の安っぽいバッグがかけられていて、婆さんの体が揺れる度それが俺の足に当たった。
俺は今まで年寄りに席を譲った事なんて無い。
こっちはちゃんと順番待ちしていたのだ。後から来たくせに年寄りだからって理由だけでいつでも座れると思ったら大間違いだ。
俺は婆さんの顔を見た。
婆さんはシワだらけではあるものの、小さな骨格にそれぞれのパーツもコンパクトにまとまった上品な顔立ちをしていた。
俺は何故だか昼間の魔女の様な老人を思い出した。
今になってどこかで見た事がある様な気がしてきたのだ。
俺は酒場のどこかであの魔女と会ったのだろうか? そして酔っ払ってあの魔女に何かを売り渡したのか? 何かと引き換えに……。
佐々木さんの後腐れの無い態度を思い出す……。
あんなアラフォー女の為に俺は何を売り渡したんだ?
婆さんを見上げる。
婆さんのシワのある顔が、あの魔女の様な老人の顔に見えてきた。
「さあ、その何かを早く渡しなさい」
婆さんは地獄の底から這い出して来たみたいな声でそう言っている様に見えた。小さな瞳は全ての事を見通しているかの様に鈍い光を湛えていた。
俺は慌てて立ち上がる。
俺が魔女から受け取ったものは何だかわからなかったが、そんなものはとっとと返してしまいたかった。これ以上あんな奴とは関わり合いになりたくなんかなかった。
「ど、どうぞ!」
俺が一人分空いた座席を指し示すと、婆さんは一瞬びっくりした様な顔をしてから小さく微笑んだ。
「すみませんねぇ」
いつの間にか婆さんは元の上品な顔に戻っていた。
俺は婆さんから逃げる様にして扉の方へ移動する。
大きく息を吐いてから俺は扉にもたれかかった。ガラスに映っているのは、どこにでもいる様なつまらない顔をした中年男だ。そしてその向こうに広がっているのはいつも通りの退屈な街並みだった。
そういえば次の駅には女房の好きなケーキ屋があった筈……。急にケーキなんて買って帰ったら、かえって疑われるだろうか……。
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