12人が本棚に入れています
本棚に追加
/4ページ
3
プシューと音を立てて新宿行きの電車が到着した。
僕は慌てて開いた扉に飛び込んで、大きく息をついた。
でも息が上がっているのは階段を駆け上がって来たからってだけじゃ無い。
枯れ枝と茶色い地面が目立つ外の景色がゆっくりと後ろに流れているのを眺めながら、僕は今も指先に残るザラザラとした黄色い合皮の感触を思い出していた。
今日は謙介達と渋谷で遊ぶ約束をしている。先週も行ったじゃないって母さんは怒ってたけど、母さんは全然わかって無いんだ。高校生には高校生の付き合いってものがある。ここで謙介の誘いを断ったら、クラスの女子が振り向く様なイケメンな訳でも、特に勉強ができる訳でも無い僕なんか、あっという間に下位に落とされてしまうんだ。そもそもが私立の附属高校になんか入れた母さんが悪いんじゃないのか? 周りは金持ちの奴らばっかりだってわかりきった事じゃないか。それなのに高校生になっても千円しかお小遣いを値上げしてくれなかったんだ。
僕は母さんへの不満を心の中で並べ連ねる事で自分がしてしまった事への言い訳にしようとしていた……。
ああ、まただ。
もういい加減慣れたと思っていたら、また別の出口に出てしまった。田舎者の僕にとっては渋谷の駅は迷路の様だ。一度変な所へ出てしまうとなかなか元の所へ戻れない。
謙介達に「ちょっと遅れる」ってメッセージを入れると、僕はスマホの地図アプリを見ながら必死になって待ち合わせ場所を探した。けれど、焦ると余計に変な通路を通ってしまい、かえってわからなくなってしまう。多分謙介達はそんなには待ってくれない。遊び慣れている彼らは「今どこどこにいる」なんてメッセージを入れて移動していってしまうんだ。けれどいつも謙介達の後ろをついて行くだけだった僕は、一人で目的の店になんか行けない。
スマホを片手にキョロキョロしていた僕の肩に後ろから来た若い男の肩が軽く触れる。
「うわぁ」
ちょっとした衝撃で手にしていたスマホが吹っ飛んでいく。若い男は気づかずにそのまま歩き去っていった。
僕は慌てて舗装された路面に転がるスマホを拾い上げる。
良かった。ひとまずスマホの画面は無事な様だった。
けれど丁度渡ろうとしていた通りの信号は赤になってしまっていた。
都心の信号は長いんだ……。
僕はイライラしながらも、青になったら直ぐに歩き出せる様に最前列に位置どりをする。
通りの向かい側の信号を睨みつける様にしていると、視界の隅に黒い塊があるのに気がついた。
赤色に灯る信号機のすぐ下に佇んでいるのは、先の尖った帽子にマント、シャツ、ブーツ、更には手にしている杖さえも全部真っ黒な老人だった。
さすが渋谷だな。老人までもが変な格好をしている。
僕がぼんやりとそんな事を思いながら眺めていると、老人もその小さな目を僕に向けてきたのがわかった。
視線を切らなければ……。
信号が変わり人の波に押される様に歩き出した僕は、何故だか老人と見つめ合う形になりながら段々とお互いの距離を縮めていく。近づいていくと、老人の深いシワまでも手にとる様に見えてくる。その皮膚はザラザラとしていて、黄色い合皮製の財布の表面に似ている様に思えてきた。
財布のザラザラとした感触が僕の指先に蘇ってくる……。
母さんは金運がアップするからといって毎年お正月になると新しい黄色い財布を購入する。新しく買った物は母さんの使い古した鞄にしまわれ、去年まで使っていた物は、いつも予備の財布として寝室の引き出しの中にしまわれる。予備の財布の中には僕や父さんに渡すお小遣いや、ちょっとした支払いに使う予備のお金がしまわれる。そして、母さんはどんぶり勘定でお金の管理が雑な事も僕は良く知っていた。そんなだからお金が貯まらないんじゃないのかな、って僕は思っていたけれど、それは僕にとって好都合だったんだ。
僕の家から渋谷に出て来るには交通費だけで、往復千円近くかかってしまう。それが毎週ともなると、月五千円のお小遣いなんてあっという間だ。お年玉だってもう底をついた。この間から家の近くのスーパーでバイトを始めたんだけど、給料が振り込まれるのは来月になってからだ。
だから僕は母さんがテレビに夢中になっている隙に黄色い財布に手をかけた。いっぺんに取ったらさすがにバレてしまうだろうから、千円札を新しい財布と予備の財布から一枚づつ……。
僕がほんの一時間くらい前の事を思い出していると、目前まで近づいてきた老人が僕に向かってニヤリと不気味な笑顔を見せた。
「……ありがとう」
その声に僕はビクリと体を震わせた。
老人の声は低くしわがれた声だったけれど、何故だか母さんの声に似ている気がしたからだ。
たるみ切った皮膚の奥で虚に光る瞳は、母さんがパートから疲れ切って帰ってきた時のものにそっくりだった。晩飯の材料の入った大きなレジ袋を僕が持ってあげた時、母さんは瞳に鈍い光をたたえたまま「ありがとう」と言ったのを思い出した。
老人は不気味な笑顔を浮かべたまま通りの向こう側へと消えていく。
信号を渡り終えると、謙介達が手を振っているのがごった返す人波の向こう側に見えてきた。
僕は手を振り返す。
「ごめん。ちょっと用事思い出したから帰るね……」
ぽかんとしている謙介達に背を向けると僕は再び駅に向かって走っていった。
最初のコメントを投稿しよう!