右頬にもう一度

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右頬にもう一度

「……どれも俺の仕事じゃねえ」  職員室に戻った俺は自席に貼られていた見覚えのない付箋を睨んでいた。  その付箋曰く、『職員会議用の資料と卒業式のレジェメ作成。それから印刷二十部ずつ』『いじめアンケートの集計を今日中に』『裏庭が荒れている。清掃を』  これを書いた犯人――学年主任・山崎の席を睨み付けるが彼の姿はない。 「あー富士くんそれ」 「はい?」  身体を半分ねじって後ろをみると石塚深歩(みほ)先生が立っていた。 「――これがどうかしました?」 「それ山崎からでしょ」 「石塚先生もやられた経験が?」 「うん。一回だけあったけど」 「けど?」  石塚先生がニイ、といやらしく顔を歪める。 「山崎の胸ぐら掴んで吸ってた煙草を半分に割って、それぞれ鼻の穴に突っ込んでやったらもうなにもされなくなったのよ」 「…………」  石塚深歩先生――隣のクラスの担任。三十代前半で長い亜麻色の髪を一つくくりにして、よくも悪くもハキハキ系。主な解決方法は暴力。俺が新人教師として赴任してきた三年前からなにかと世話を焼いて教えてくれる。 「言いたいことは言わないと。きちんと伝えるのって人によってはかなり勇気いるけどね。ま、私の場合は拳で訴えるけど……あっ」  赤ペンを指で回そうとして落とす。器用でないのにそういうことをやるからだ。 「言う勇気……ねえ」 「だから聞く方も真剣にならなくちゃ」  両目を瞑った。きっとウインクのつもりだ。  ――言う勇気。聞く方も真剣に。  ふと、佐々木の寂しげな表情が浮かんだ。 「ん、どしたの、ぼうっとして。なにかあった?」 「あ、いや。そういうわけじゃ……ありますね」 「なになに」 「さっきですね、佐々木が相談があるって言って来たんですよ」 「佐々木って綾ちゃん? 窓ガラスの」 「その佐々木です」 「へえ。ドラマみたいな生徒と二人三脚の青春って、現実にもあったのねえ。私、気になってたのよあの子。受験も終わったのに、毎日つまらなさそうにひとりで(・・・・・・・・・・・・・・)千本ノックみたいなことやって。なーんかストレス抱えちゃってるのかなあってね」 「……ひとりで千本ノック?」 「知らなかった?」  そもそもノックって捕る人がいるから成り立つんじゃ。それにノックで教室まで打ったのか。 「それで? その相談は解決したの?」 「……いやまだ聞いてないんです」 「へ? なんで?」 「仕事がたくさん残ってたんで週明けにしてくれって言ってしまって……」  自分の言葉に胸が漬物石でも置かれたかのようにずしりとする。佐々木は勇気を出して俺に相談してきてくれたのだろう。生徒の悩みより大切な仕事なんてあるわけがないのに。  とそのとき。  目から火が出たような感覚がして、遅れてばきんという音がした。それからさっきと同じ――右頬が急激に痛み出した。目を開けてようやく、ああ俺は石塚先生にビンタされたのだと気がついた。 「……強烈ですね」 「意外かもしれないけど空手やってたから」 「全然意外じゃないですよ」  右耳が全く機能しない。モノラルで会話する。 「殴った理由、わからなかったらもう一発いくけどどうする?」 「……お願いします」  ばきん、と右頬にもう一発。 「左は勘弁してあげる」 「はは……優しいですね」 「まず第一に」と石塚先生は静かにいった。「生徒のことをもっとよく見なさい。綾ちゃんの髪がちょっと明るくなったの気がついてた? スカート丈が短くなったのは? スマホを変えたのは?」 「……知りませんでした」 「そして生徒がSOSを出してきたらまず聞くこと。どんなにささいなことでもね。すぐ思い詰めちゃう子もいることを理解しなさい。命を絶つ子だっているんだから」  あいつに限ってそんなと声が出かかって、それはよく聞く台詞だと思い直す。 「最後に、富士くんがこれからなにすればいいかわかるよね?」  俺は頷いた。背もたれにかけていた春物のコートを掴む。 「よし。行ってこい! 綾ちゃんちの住所はわかるね」 「はい!」  とそのとき、電話が鳴った。外線の音だ。この時間に鳴ることは滅多にない。石塚先生と俺は顔を見合わせる。そして俺がとった。 「はい、北中の富士です」  「……あ、富士先生ですか。夜分遅くにすみません」  女性の声。少し上滑りしている。 「はあ。どなたでしょう?」 「あ、すみません。三年二組の佐々木綾の母親ですが」 「……お世話になっております」  佐々木の母親。  嫌な予感が束になって押し寄せる。 「ご無沙汰しております先生。それであの……」 「はい」 「娘が……綾が帰って来ないんです」
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