朝靄のようなひっかかり

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朝靄のようなひっかかり

 俺と佐々木はソフト部の部室に移動していた。俺は部室の中央に構えている飲料メーカーのロゴが入っている赤いベンチに座っていて、佐々木は隅のロッカーに背中を預けて立っている。佐々木の母親には俺の携帯から適当につくった事情を話した。  佐々木は落としてしまったピアスのあとを――右耳を指でなぞる。それからぽつぽつと話し始めた。 「うちのいく高校はさ、ソフト部がないの」 「……そういや、そうだな」 「なにその反応。富士くん担任なのにひどい」 「……すまん」  いままで生徒のことを真剣に見ていなかったことに改めて気がつく。 「ま、第一志望だから文句言うのもおかしい話なんだけどね」  たしかにそれは自分で選択した高校だ。いや――自分で選択した? そうとは限らない。 「親御さんの意向か?」 「ちがう。悩んだけど将来のことも考えて志望大学への進学率が高い高校を自分で選んだの」  大学進学まで見据えて高校を選ぶ生徒は極端に少ない。 「――でもさ、富士くん。それでもやっぱり卒業が近づくと、これでよかったのかな、ほかに道はあったんじゃないかなって思うんだ。……なんで希望通りなのに不安なんだろうね。……えへへ…………なんて言うんだろうねこういうの。わからないや」  くせっ毛を指でくるくるとしながら佐々木は無理にはにかんだ。  ソフト部で活躍してきて志望校にも受かって順風満帆に見える。けれどその実、朝靄のようなひっかかりが胸にあることにだれも気がついてくれない。 「ごめん、佐々木」  俺は立ち上がり深く頭を下げた。 「え? あれ、なんで富士くんが謝るの!? ちょっと顔を上げてよ」  佐々木がむりやり俺の上体を起こした。 「気がつかなかったから。相談も聞かなかった」 「……それはちょっと不満だったけどね」佐々木はわざと頬を膨らませる。「なんかきょうはさ……その……心がきゅっとする感覚が強くなって。このまま帰るのもなんか……だったから、あの歩道橋からぼうっと流れる車を眺めてたの。最近あそこにはよく行くからね。なんとなく車のヘッドライトがあちこちに行き交うのを見ていると心が鎮まるっていうか……まあそんな感じ」  佐々木はひとりで不安と戦っていたのだ。さらに胸がずきりとする。 「ねえ富士くん――富士くんはこういうのあった?」  佐々木は眉をハの字にして困ったような表情をした。その質問に、俺は思い返す。 「教師になるとき、そんな感じだったよ」 「富士くんが先生になるとき?」 「教師になるのは俺の希望通りだったし周りは公務員なんて安泰でいいなあんて言ってたけど」 「うん」  佐々木はいつになく真剣な表情。 「不安だったんだよな。ちゃんと授業できるかとか、生徒に嫌われないかとか、中学生は大切な時期だからな。俺がだめだと生徒もだめになるくらいに思ってたんだよ」 「それで……?」 「杞憂だったな。案ずるより産むが易しというか……生徒のほうが随分しっかりしてる。みんなしっかり育ってくれた。新米教師から三年間お前たちを受け持って……楽しかったよ」  不安が大きい分終わってみれば楽しかった、ということは総じて多いと思う。不安と楽しさは表裏一体なのだ。 「……そっか……うちも楽しくやれるかな」 「佐々木の場合はわからん」 「なにそれ! 不安にさせないでよ!」 「俺と佐々木は違うだろってこと。……でもきっと大丈夫」 「なんでそんなこと言えるの?」 「前を向いて選んでいるからだ。後ろを振り返ることもあるみたいだけど、振り返ったっていいんだよ。振り返れるほど楽しかったってことなんだから」 「振り返れるほど……。うん、そうだね。たしかに、楽しかった」  佐々木はそばにあるバットを優しく撫でた。 「窓ガラスもたくさん割ったしな」 「もう。相談聞いてくれなかったくせに。いじわる!」 「それは俺が悪かった。お詫びになんでもしてやる。ラーメンでも食うか?」 「あそこのラーメン美味しくないよ?」 「タクシーの運ちゃんが言ってたことは本当だったのか」 「? ……あ、」と佐々木がぽんと手を槌にして打った。「うち、最後にホームラン、打ちたいな」
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