放課後の音

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放課後の音

 夕暮れの教室は、いろんな音が聞こえる。  例えば部活のかけ声。時計の針がチクタク進む音。そしてボールペンがなめらかに滑る音。  俺は書いていた業務日誌を教卓の隅においやって窓の方をみた。オレンジと黒がじゃれ合うような三月の夕暮れは妙に綺麗で、そのマーブル模様はお気に入りのマグに淹れたコーヒーをいつもより美味しく感じさせた。 「優雅だ…………」  ビジネス系ドキュメンタリーの主人公になった気分。カフェインに強くない俺はすぐに悦に入ることができたりする。 「さあてもう一仕事、片付けますかね」  んーよっと、と無抵抗アピールのように両手を挙げて伸びをした瞬間だった。 「――ん?」  耳に違和感。  校庭のほうをみると、目の前を飛行機が横切ったような轟音とともに窓が爆発(・・)した。 「がっ!」  同時に、右の頬に隕石でもぶつかったような衝撃が走る。そして教卓から転げ落ちた――痛い、頬が洒落にならないくらい痛い。だが幸いなことに割れた窓の破片が降りかかることはなかった。 「……なんなんだ?」  なんとか立ち上がり状況を検分する。窓が一枚、現代アート真っ青に割れている。そして夕日を乱反射するガラス破片のなかに白球がひとつ転がっていた。 「ソフトボール……久しぶりだな」  とつい口にしてから窓の外をみると猛ダッシュしてくる影があった。だんだんとその影が明瞭になっていき、制服に赤色リボン、くせっ毛ショートカットのシルエットが浮かび上がってくる――それはうちのクラスの佐々木綾だった。 「すみません! すみません! ボール当たりませんでしたか!? ――って、なんだ富士くんか」  息をほとんど切らしていない佐々木の猫目がほっとしたほうに和らいだ。それから人が出入りする用の窓をスライドさせて教室に入ってくる。 「くんじゃなくて先生だ。それに顔面に当たったんですけど」 「あ、ごめん。富士くん」佐々木は片手を挙げて謝罪する。 「…………。制服でソフトボールやってたのか?」  佐々木はとっくに部活を引退し志望の高校に合格している。本来窓ガラスを割ったり騒ぎを起こしたらまずい身分だ。 「うちの勝手でしょ。あ、富士くん。前髪が乱れてるよ、ほらこの辺」 「なに」  俺はジャケットの内ポケットから手鏡を取り出して整える。 「悦に入らなければ富士くんていい人なんだけどね……ま、当たったのが富士くんでよかったよ」 「よくねーよ。これで何枚目(・・・)だ?」 「今年はまだ一枚目」 「通算は?」 「七十六枚目。知ってて訊いてるでしょ」  と、わざとらしくくちびるを尖らせる。 「なんど肩代わりしたかわからんからな」 「あはは……その節はどうも」  佐々木が現役のころ、新聞部の三面記事のお決まりは『ソフト部・部長の佐々木綾。驚異の二枚抜き! ただしホームランで窓ガラスを!』だった。よく対策しないまま放置しているもんだ。七十六枚と言えば月に三枚くらい割っていたことになる。 「これ、片付けなきゃね」  佐々木は教室の後ろの隅にある掃除用ロッカーから箒とちり取りを掴む。 「それ寄越せ」 「え? 富士くんがお掃除してくれるの? なにそれ優しい惚れちゃいそう。――でもだめ。うちがやらないと」と箒をぎゅっと抱きしめた。妙なところで責任感が人十倍くらい強い。 「佐々木がやると更に仕事が増えそうだから俺がやるんだ」 「ひどい言い方! だから富士くんは独身なんだ」 「独身の前に二十五歳にして童貞だ」 「もっとひどかった!?」  ひいている佐々木から掃除道具を奪うと俺は屈んで箒を前後に運動させ、がしゃがしゃとガラスを集め始める。佐々木は落ちかけた夕日を背中に居心地悪そうにしていた。俺はふと見えた佐々木の脛が擦り傷だらけなのに気がついた。 「最近よくソフトやってたのか?」 「うん、受験終わったし。身体うごかしたくなってね」 「おじさんみたいなことを言うな」 「それにもう卒業だし」  言いながら佐々木の右耳あたりでキラリとなにかが瞬いた。ピアスか……たしかにもう卒業だ、あまり口うるさいことは言うまい。  集めた分のガラスをビニール袋に入れる。ガラス窓本体のほうはいったん放置。 「富士くんはもう帰り?」 「もうちょい仕事だな」  放課後の闖入者はむすっとする。 「一緒に帰ろうよ。国道沿いのラーメン屋さんがリニューアルオープンしたんだよ」 「大人にはやることがたくさんあるの」 「だから富士くんは――」 「独身で結構」 「……もう」  窓の外の空には金星が薄く浮かんでいた。パチン、と俺は蛍光灯のスイッチをオンにする。 「ほら、もう暗くなるから早く帰りなさい」 「……」  黙る佐々木。指先を腹の前でもてあそびながらなにか言いたそうに上目で俺をみる。様子がいつもと違うのは火を見るよりも明らかだ。 「……どした?」 「あーいや……うん。……あのさ、富士くん……話、聞いてくれない、かな」  言いながら茶碗を割ってしまった子供みたいにばつが悪そうにはにかむ。生徒からの相談は聞いてやりたいがいまは具合が悪い。まだ職員室に仕事を残しているのだ。それに再来週には卒業式も控えている。こいつらを無事に卒業させるためにもいろいろと準備するものがある。 「……悪い。あしたじゃだめか?」 「土曜日だよ?」 「あ、そうか。じゃあ……週明けで」 「えっと、きょうはだめ?」 「すまん……」 「そっか」佐々木は寂しそうな表情をしてから顔を伏せて、でもその一瞬あとに顔を上げて笑顔でいう。「来週、約束だよ?」 「……おう、悪いな」 「許してはないよ。べーっだ!」  と佐々木は来たときと同じ窓からぴょこんとジャンプして一歩外に出る。それから深呼吸をする速度でゆっくりと振り返って、 「じゃあ富士くん。ばいばい」  と校庭に駈け出していった。その背中はぐんぐん小さくなって次第に薄暮に紛れて見えなくなった。
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