みそたまり

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みそたまり

「どうすればいい?彼女の味覚戻すの…」 僕は大学の同級生だった加賀谷に電話で泣きついていた。 「香川、お前本気なんだな?彼女のこと」 「本気だ!彼女に味覚が・・・ニオイが元に戻るんだったら…俺の味覚が消えたっていい!」 「わがった、だったら秋田まで早ぐ来い、秋田は発酵食品の宝庫だ!江戸時代から味噌や醤油、しょっつる、がっこ、…とにかく味の濃いの見つけて、その摘香ちゃんにたがいで帰れ!」 「味の濃いの…よし明後日朝一番で秋田行くから…加賀谷…頼む」 「よし、待ってらぞ!きっと秋田の美味ぇもんが味覚を戻してくれるがら心配するな!」 加賀谷の自信に満ちた言葉が心強かった。 僕は3月23日新幹線こまち1号に乗って大曲へ向かう。東京の緊急事態宣言は解除になったとはいえ、連日300人以上の新規感染者で新幹線も3分の1に満たない乗客が沈黙したまま車窓をぼんやり眺めていた。 会社を1か月休職している間に、絶対に摘香の味覚を元に戻す!今はそのことしか考えられなかった。 医者が匙を投げた原因不明の味覚、臭覚障害を僕のような…普通を絵に描いたような一般人が治せるのか?まだ雪の残るみちのくの山々を遠くに見ながら、少し弱気になっていた。 「絶対治すんだ…治ったら…」 瞼を閉じると彼女の割烹着姿と笑顔が浮かんでくる。 余っていた白飯を握って、ごま塩を振っただけのおにぎりと、冷蔵庫に残っていたたくわんを無造作にラップに包んだものをバッグから取り出して、大きな口で食らいついた。 「塩っぱい…」 この塩っぱさが彼女には感じない?それがどういった苦痛なのか?その時まだ僕は…分からずにいた。 大曲駅に着いてロータリーを見渡すとタクシーが3台とシルバーのバンが1台停まっていた。 「香川!」 190センチはある大男が窮屈そうなバンから降りてきて、近くにいたお婆さんが固まってこちらを見ていた。 大きな身体に秘めた優しさは学生時代から何も変わっていなかった。 「香川!久しぶり!げんきそうでねぇがぁ」 加賀谷は地元の農協で働いている兼業農家の長男で、僕のために食材探しにつき合ってくれる。 「加賀谷も元気そうだね!また少し大きくなってね?」 「そんたごどある訳ねぁべ!まずはおいにその摘香って子の写真見せれ」 「写真なんて…持ってない…よ」 ふたりはシルバーのバンに乗って横手方面に向かった。 「ふたりは付ぎ合ってらんでねぁのが?」 「いや…僕が…ただ一方的に」 「一方的にってそれで秋田まで来だのが?休みまで取って?」 「約束したんだ…俺が治すんだって」 「そんたえ女だば治ったらおいにも会わせろ」 「わかった‥ありがと」 加賀谷の運転する車はどんどんスピードを上げて横手から湯沢に向かって行った。 東京では桜が見頃を迎えようとしているのに…屋根から落ちた少し黒ずんだ残雪がこの地方の冬の厳しさを物語っていた。 国道13号線を走って行くと山形新庄の方向へ進んでいることに気づく、まだ白い雪を被った山が徐々に近くなってくる。 バンはゆっくりと側道に入ってスピードを落としていった。 「もう少しで着ぐから・・・」 住宅街の細い道を抜けると屋根から落ちた真っ白な残雪の奥に漆黒の建物が現れた。 「うぅ~ん、着いたぞ・・・ここが石孫だ」 加賀谷は大きな背伸びをして言った。 建屋の正面に立つと有形文化財の漆黒の母屋と『石孫本店』醤油味噌醸造の文字が目に入る。 「ごめん下さい、恐る恐るその漆黒の建屋に入る」 なんだか蔵の神様がいるような・・・神聖で尊い空気と、なんとも言えない味噌蔵の香しい・・・懐かしい匂いがして、僕は自然に手を合わせていた。 「はい~いらっしゃいませ」 「少し見させてもらっていいですか?」 「はい、どうぞごゆっくりみでいってください、何がお探しですか?」 「はい・・・ここはだいぶ古いんですか?」 「はい、創業安政2年 1855年だがら165年前から当時とほぼ同じ手作りの仕込み方法で味噌と醤油を作ってます。 材料もすべで秋田のもんなんですよ」その女性はゆっくりした口調で丁寧に説明してくれた。 「あのぉ・・・味が、味が感じられなくなって」 「お客さんが?」 「いや・・・僕じゃなくて、だからその人の味覚がまた戻る・・・戻すものを」 僕は自分でも何を言ってるのか・・・突拍子もないことをお願いしていることはわかっていた。 「んだが、治るがわがんねぁげどこれなんかどうがしら」 そう言って淡い琥珀色の液体が入った一本の瓶を持ってきた。 「みそたまりっていいます・・・みそだまりは味噌製造過程がら生まれるもので、原材料は味噌ど同じ、米ど大豆ど塩だけで長期熟成の味噌がらのみ摂るごどのでぎる味噌の旨味成分濃縮されだ貴重なエキスです。 澄んだ淡ぇ琥珀色の秘密は、圧力掛げで絞るごどはせず、絞り袋がら滴り落ぢだものだげ製品にしてるから・・・」 「キレイですね…これならきっと…これお願いします」 僕はみそたまりとこの蔵の味噌を使った南蛮味噌を彼女のために買った。 「その方早ぐ味覚取り戻すとえね・・・そのふとが治ったら今度はふたりでぎでください」 「はい、ありがとうございます」 車に戻ると加賀谷が煙草を吸って待っていた。 「そいだば角館の安藤醸造にも行ってみるが・・・」 「頼む・・・」 「香川、おめ本気なんだな、そのふとのごど・・・」 そう言って車のスピードを上げた。
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