摘香と鯖の煮付け

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摘香と鯖の煮付け

僕が今の会社に入った7年前は、リーマンショック後の就職難で、希望する会社は全て不採用。 何とか就職して社会の一員みたいな…のにならなければと思っていた最中、下町の小さな医療機器会社に何とか就職できた。 毎日油まみれになって働いて楽しみといったら、魚料理がとびきり美味い定食屋 山本の暖簾をくぐことくらいだった。 「おばちゃ…あれ?おばちゃんは?」 「いらっしゃいませ…」 いつも注文を取るおばちゃんの姿はなく、真新しい割烹着姿の女性がテーブルの前に立っていた。 「えぇ〜と…鯖の煮付け定食…ご飯大盛りで…」 「はい、鯖の煮付けご飯大盛りですね!」 「香川くん!悪いな〜うちの腰やっちゃってしばらく手伝ってもらう事にしたんだ…姪の摘香」 オヤジさんが厨房から顔を出して言った。 「つみか…」 「よろしくお願いします」 彼女は元気よく挨拶して僕を見て微笑んだ。 「つみかってどんな字なんですか?」 「え?はい…香りを摘むって書いてつみかです!」 なぜか、少し悲しそうにそう言った彼女からは、どこか心地良い香りがふんわり漂っているみたいだった。 彼女の髪はお団子のように後で結ばれていて、真っ白な割烹着の裾からは真っ赤なスカートがのぞいていた。 「おまちどうさま〜鯖の煮付けご飯大盛りです!」 「ありがと」 いつもと同じはずの鯖の煮付けは、今日は一段と美味しくて、そして僕の心はいつしか彼女を追っていた。 「ごちそうさまでした」 僕は箸を置いて、温かいほうじ茶を飲み干した。 「わぁー」 「え?なに!」 「香川さんってお魚キレイに食べるんですね!」 鯖の煮付けの骨が皿の脇に並べてあるのを見て嬉しそうに言った。 「あっ、小さい頃おばあちゃんに魚の食べ方鍛えられたからね」 「そうなんですね〜ステキです」 そう言ってお膳を下げて行った。 「ステキ…」 鯖の煮付けの皿を見てステキと言った彼女をますます…好きになっていった。 仕事で失敗をして先輩に怒られた日も、お昼には彼女の笑顔と美味しい鯖の煮付けがあったらまた頑張れた。 込み上げてくる想いを今日もワカメと豆腐の味噌汁で流し込んで店を出る。 「ごちそうさまでした」 「香川さん!明日もお待ちしています!」 「はい…」 彼女の笑顔とその言葉は、君だけのものじゃないんだよ…そう言われてるような気がした。 深呼吸をすると肺が痛くなるような寒い日の午後、僕は手元にスマートフォンがないのに気づく。 「あれっ?どこ?」 図面やカタログで散らかったデスクの上を手探りで探してもスマートフォンは見つからず席を立った。 「朝は…持って出たよな…それで…」 今日のこれまでを思い出す…「山本?」 「すみません、ちょっとスマホ忘れたみたいで…取りに行ってきます」 「なにやってんだよ!早く取ってこいよ、図面今週中には上げないとな」 「はい、すみません…すぐ」 僕はコートも着ずに会社を出て小走りで定食屋山本に急いだ。 「店開いてんのかな?」 店の前に着くと暖簾は既に片付けられて、人の気配はしなかった。 「すみません…ごめんください」 返事のない店の引き戸に手をかけると、ゆっくりと静かに戸は開いた。 「あっ」 僕は小さな声を上げて中をのぞき込んだ。 その時、薄暗い店内のカウンターで白いなにかが動いた。 「あのぉ〜」 「えっ、あぁ…すみません」 「あっ」 その白いなにかは割烹着を着た摘香だった。 「泣いてる…」 彼女は確かに泣いていた、お昼の笑顔などない…悲しみを隠すようにひっそりと。 「すみません…香川さん?どうしたんですか?」 「摘香さんこそ、なんで?なんで泣いてるんですか?」 僕はスマートフォンのことなど忘れて彼女に問いかけていた。 「見られちゃった…」 彼女は割烹着の袖で涙をぬぐって振り向いた。 「僕…僕じゃ何も出来ないかも知れないけど…何が君を苦しめてるのか?教えてほしい!」 僕はただ彼女を泣かせている何かと戦わなければ、そして救わねばと…ただそれだけを思って叫んでいた。 彼女の瞳から涙が止めどなくこぼれ落ちてその瞬間僕は彼女を抱きしめていた。 「私…私…香りが…匂いがわからなくなって…」 「ニオイって?」 「私、調香師なんです」 「調香師って…あの香水とかの?」 「はい…やっと夢が叶ったのに」 「でも…なんで?いつから?」 「半年くらい前に…病院も何軒も、でも原因わからくて」 「それで…ここで?」 「はい、毎日鬱ぎ込んでた私を見かねたおじさんが…味覚障害もあるのに定食屋さんって可笑しいでしょ」 彼女は悲しそうに笑って僕から離れた。 「ごめんなさい、忘れ物ですよねスマホ…ケースが珍しい柄だったからすぐに香川さんのだって、すぐに気づけば良かったんだけど」 「もしかして…僕が来るの待ってて」 「はい…聞いてほしくて…この事」 「僕が治す!僕がきっと、絶対治す!」 僕はとっさにそう言って彼女を見つめた。 「ありがとうございます…でも」 「味覚が戻ればきっとニオイだって…」 「そうかも知れないけど…」 「僕が君の…摘香さんの味覚が戻るものを探してくるから…だから泣かないで、僕を信じて!」 僕は、込み上げてくる想いを彼女に伝えたことに驚いていた。 「わかりました、私…信じてみます香川さんのこと…」 「うん、ありがとう」 僕は、そう言ってスマートフォンを受け取った。 「香川、お前どこまでスマートフォン取りに行ってたんだよ!」 「先輩、すみません…僕この図面仕上げたら休暇取ります!」 「あぁ…いいよ仕上げたらな!」 「1ヶ月…」 「1ヶ月って?えぇ!お前冗談だろ?」 「本気です…」 「すみません…ダメなら…」 「どしたぁ〜」 事務所の奥から部長の小林さんが騒ぎを聞いて出てきた。 「小林部長、香川が1か月の休暇って…」 「あぁ?香川…それは…人生かけてんのか?」 「はい、人生かけて…ます!」 「そっか…何やんのかわかんねぇけど…行ってこい!あとの事は、任せとけ!」 「小林部長?何いってんですか?」 「いいじゃねぇか…羨ましいよ、人生かけられるのなんてそうはねぇぞ…がんばれよ!香川」 「ありがとうございます、ありがとうございます!」 僕は初めてこの会社に入って良かったと思った。 そして僕は彼女の味覚を取り戻す「おみやげレター」を出す旅に出た。
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