第二章 森と追跡者と師匠が出した課題「お前ちょっと小利口すぎるぞ」

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 ハクスリーは周囲に人の気配がないことを確かめた。よし、ブラッグは近くにいない。  ハクスリーは目にも留まらぬ速度でナイフを(はな)った。ヒュッと風を切ったそれは、アレクシスの後方にある岩に当たってキンッ! と鋭い音を立てた。アレクシスはハッとして岩をふり返る。ハクスリーは草むらから飛び出し、アレクシスに襲いかかった。  アレクシスが気がつき、ふり向いた時にはもうハクスリーの右手が無防備な首にかかっていた。声を封じてしまえば悲鳴も上げられず、魔法も使えない。そのまま首を絞めようと右手に力をこめながら、ハクスリーは呪文を唱える。左手に毒魔法を宿らせ、この少年の口をふさぐのだ。  すると、ターゲットが意外な反撃を見せた。手に持っていたオレンジをハクスリーの目に向かって投げつけたのだ。(きょ)をつかれたハクスリーはわずかに右手の力を緩めてしまい、アレクシスは左腕でその手を()ねのけると、立ち上がって戒めから逃れた。 「クソッ!」  ハクスリーは目を押さえながら、別の呪文を唱えた。作戦変更だ。 「冥精(めいせい)ランパス、我の呼び声に応えよ。冥府の城塞(じょうさい)にて罪人を閉じこめし永劫(えいごう)の炎よ、環状の鎖となりて敵を捕らえよ」  地面の上を細い炎が走り、アレクシスの周りをぐるりと囲った。そして炎は上方に向かって螺旋(らせん)状に伸びていき、鳥(かご)のようにアレクシスを閉じこめた。その細い格子(こうし)は真っ赤に燃え盛り、少しでも触れればただでは済まないことを物語っている。  炎の牢のなかから、アレクシスはハクスリーを見た。その緊迫した表情を見つめ返しながら、ハクスリーはあらためて毒魔法の呪文を唱える。 (悪く思うな、小僧――)  放たれた毒魔法は、黒い(きり)状になってアレクシスに襲いかかった。その毒霧は炎の牢のなかをいっぱいに満たし、格子の外まで覆いつくした。逃げ場はない。霧の持続時間はニ十分以上――息を止め続けることはできないだろう。そしてわずかでも吸いこめばすぐに麻痺が生じ、やがて神経細胞を死滅させる。 (よし、今の魔法を感知して、すぐにブラッグが戻ってくるだろう。そしたら奴と交渉して――)  ハクスリーが意識をよそへ向けた時、不意に毒霧のなかから腕が伸びてきた。 「なっ……!」  その腕はハクスリーの胸倉をつかむと強い力で引きつけ、互いの体を入れ替えるように炎の格子に叩きつけた。 「ぐぁっ……!」  背中が焼ける。たまらず精霊に(散れ!)と念じ、炎の牢は崩れるように消えた。しかし、胸倉をつかんだこの腕は緩まない。ハクスリーは腰のベルトに差したナイフを引き抜き、相手の脇腹を狙って斬りつけた。が、刀身が届く前に手首に猛烈な手刀(しゅとう)を食らい、ナイフはあらぬ方向へ吹っ飛んだ。そして相手は間髪(かんはつ)を容れずにハクスリーのショルダーナイフを引き抜くと、ぴたりと喉もとに突きつけた。首の薄皮一枚へだてた冷たい(やいば)の感触に、息を呑む。  ハクスリーは信じられない思いで自分を戒める相手を見上げた。百九十近い長身――黒髪に黒目、青白い肌に酷薄そうな顔形――。まだ十代とおぼしきその若者は、まるで死刑執行人のような様相でこちらを見下ろしている。 (なぜだ……なぜ牢から抜け出せた。それに、どうして毒が効かない)  毒魔法は未だ発動中だ。術者であるハクスリーが毒に侵されることはないとはいえ、毒の霧のなかに立ちながら、普通に息をしている目の前の男に畏怖を(いだ)いていた。  アレクシスは、冷たい声で言った。 「毒魔法か。解毒剤はどこにある?」  ハクスリーは混乱した。なぜ、毒が効いていないのに、そんなことを聞く? 「答えろ」  アレクシスはナイフを強く押しつけた。ハクスリーの首から血が滲む。自分の武器で敵に痛めつけられるなど屈辱だったが、それ以上に恐怖が勝っていた。この男は間違いなく本気だ。人を傷つけることに、なんのためらいも感じられない。  ハクスリーは冷や汗をかきながら言った。 「……洞穴(どうけつ)だ。ここから北西へ三十キロほど行った洞穴(ほらあな)のなかへ、十メートルほど入った水たまりの奥の岩の後ろに隠してきた。本当だ」  アレクシスは黙ってハクスリーを見た。  信じただろうか? ハクスリーが冷淡な顔から感情を読みとろうとするなか、ふとアレクシスの瞳の色が変わった。黒曜石(オブシディアン)のような黒から、紫水晶(アメシスト)のような紫色へ。そして右目の下に、すうっと泣きボクロが浮かぶ。 「ダニエル・ブラッ……!!」  ハクスリーは、最後まで言えなかった。首に当てられたナイフが一閃(いっせん)し、頸動(けいどう)脈を切断する。鮮血が噴き出すよりも早く、アレクシスは地面を蹴って軽々と後ろに飛び退()いた。ハクスリーは首を押さえ、驚愕(きょうがく)の表情で膝をつく。わずかに遅れて、アレクシス――いや、少女の姿に戻ったダニエルが、トン、と着地をした。一滴の返り血も浴びていない。ハクスリーはそれを信じられない面持ちで凝視していたが、やがてその場に崩れ落ちるように倒れた。
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