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ハクスリーは周囲に人の気配がないことを確かめた。よし、ブラッグは近くにいない。
ハクスリーは目にも留まらぬ速度でナイフを放った。ヒュッと風を切ったそれは、アレクシスの後方にある岩に当たってキンッ! と鋭い音を立てた。アレクシスはハッとして岩をふり返る。ハクスリーは草むらから飛び出し、アレクシスに襲いかかった。
アレクシスが気がつき、ふり向いた時にはもうハクスリーの右手が無防備な首にかかっていた。声を封じてしまえば悲鳴も上げられず、魔法も使えない。そのまま首を絞めようと右手に力をこめながら、ハクスリーは呪文を唱える。左手に毒魔法を宿らせ、この少年の口をふさぐのだ。
すると、ターゲットが意外な反撃を見せた。手に持っていたオレンジをハクスリーの目に向かって投げつけたのだ。虚をつかれたハクスリーはわずかに右手の力を緩めてしまい、アレクシスは左腕でその手を撥ねのけると、立ち上がって戒めから逃れた。
「クソッ!」
ハクスリーは目を押さえながら、別の呪文を唱えた。作戦変更だ。
「冥精ランパス、我の呼び声に応えよ。冥府の城塞にて罪人を閉じこめし永劫の炎よ、環状の鎖となりて敵を捕らえよ」
地面の上を細い炎が走り、アレクシスの周りをぐるりと囲った。そして炎は上方に向かって螺旋状に伸びていき、鳥籠のようにアレクシスを閉じこめた。その細い格子は真っ赤に燃え盛り、少しでも触れればただでは済まないことを物語っている。
炎の牢のなかから、アレクシスはハクスリーを見た。その緊迫した表情を見つめ返しながら、ハクスリーはあらためて毒魔法の呪文を唱える。
(悪く思うな、小僧――)
放たれた毒魔法は、黒い霧状になってアレクシスに襲いかかった。その毒霧は炎の牢のなかをいっぱいに満たし、格子の外まで覆いつくした。逃げ場はない。霧の持続時間はニ十分以上――息を止め続けることはできないだろう。そしてわずかでも吸いこめばすぐに麻痺が生じ、やがて神経細胞を死滅させる。
(よし、今の魔法を感知して、すぐにブラッグが戻ってくるだろう。そしたら奴と交渉して――)
ハクスリーが意識をよそへ向けた時、不意に毒霧のなかから腕が伸びてきた。
「なっ……!」
その腕はハクスリーの胸倉をつかむと強い力で引きつけ、互いの体を入れ替えるように炎の格子に叩きつけた。
「ぐぁっ……!」
背中が焼ける。たまらず精霊に(散れ!)と念じ、炎の牢は崩れるように消えた。しかし、胸倉をつかんだこの腕は緩まない。ハクスリーは腰のベルトに差したナイフを引き抜き、相手の脇腹を狙って斬りつけた。が、刀身が届く前に手首に猛烈な手刀を食らい、ナイフはあらぬ方向へ吹っ飛んだ。そして相手は間髪を容れずにハクスリーのショルダーナイフを引き抜くと、ぴたりと喉もとに突きつけた。首の薄皮一枚へだてた冷たい刃の感触に、息を呑む。
ハクスリーは信じられない思いで自分を戒める相手を見上げた。百九十近い長身――黒髪に黒目、青白い肌に酷薄そうな顔形――。まだ十代とおぼしきその若者は、まるで死刑執行人のような様相でこちらを見下ろしている。
(なぜだ……なぜ牢から抜け出せた。それに、どうして毒が効かない)
毒魔法は未だ発動中だ。術者であるハクスリーが毒に侵されることはないとはいえ、毒の霧のなかに立ちながら、普通に息をしている目の前の男に畏怖を抱いていた。
アレクシスは、冷たい声で言った。
「毒魔法か。解毒剤はどこにある?」
ハクスリーは混乱した。なぜ、毒が効いていないのに、そんなことを聞く?
「答えろ」
アレクシスはナイフを強く押しつけた。ハクスリーの首から血が滲む。自分の武器で敵に痛めつけられるなど屈辱だったが、それ以上に恐怖が勝っていた。この男は間違いなく本気だ。人を傷つけることに、なんのためらいも感じられない。
ハクスリーは冷や汗をかきながら言った。
「……洞穴だ。ここから北西へ三十キロほど行った洞穴のなかへ、十メートルほど入った水たまりの奥の岩の後ろに隠してきた。本当だ」
アレクシスは黙ってハクスリーを見た。
信じただろうか? ハクスリーが冷淡な顔から感情を読みとろうとするなか、ふとアレクシスの瞳の色が変わった。黒曜石のような黒から、紫水晶のような紫色へ。そして右目の下に、すうっと泣きボクロが浮かぶ。
「ダニエル・ブラッ……!!」
ハクスリーは、最後まで言えなかった。首に当てられたナイフが一閃し、頸動脈を切断する。鮮血が噴き出すよりも早く、アレクシスは地面を蹴って軽々と後ろに飛び退いた。ハクスリーは首を押さえ、驚愕の表情で膝をつく。わずかに遅れて、アレクシス――いや、少女の姿に戻ったダニエルが、トン、と着地をした。一滴の返り血も浴びていない。ハクスリーはそれを信じられない面持ちで凝視していたが、やがてその場に崩れ落ちるように倒れた。
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