第二章 森と追跡者と師匠が出した課題「お前ちょっと小利口すぎるぞ」

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 ダニエルはゆっくりとハクスリーに近づくと、彼が虚空を見つめたまま絶命するのを静かに見届けた。右手に持ったままだったハクスリーのナイフを彼のショルダーホルスターに戻す。立ち上がり、あたりにただよう毒の霧をじっと見つめた。  たちまち、黒い霧が消えていく。解毒でも浄化でもなく――毒魔法が発動する前の、静かな森の空気にただ戻るように。  わずか三秒ほどですべての毒を消し終わり、ダニエルはひとつ、小さく息をついた。  ――いつでも、人の命を奪った後味は悪いものだ。  川のふちに立って、水面(みなも)を眺めた。黒髪の凛とした容貌(ようぼう)の少女がこちらを見つめ返している。 『――ダン。決して、心を失うな』  ダニエルはこの姿をした、懐かしい人の言葉を反芻(はんすう)した。 『私たちは罪深い。それを忘れたことはない。だから私は、自分がどんな死に方をしようとかまわない。けれどダン、私が死んでも、お前は誰かを憎んで修羅のようにはならないでくれ。この仕事を続けても、自分を見失うな。私は優しいお前が好きだから』  ダニエルは水の鏡像に向かって、心のなかで返事をした。 (ああ、忘れてないよ、アイリーン)  ダニエルは(ふところ)から魔法紙をとり出すと、紙に向かって言った。 『南東部の森でひとり片づけた。奴らが使う毒魔法の解毒剤が入手できそうだ。場所は死体から北西へ三十キロの洞穴(どうけつ)、入り口から十メートルの水たまりの奥の岩。どちらも回収を頼む。しばらくは追っ手から身を隠し、南下するつもりだ。連れはそちらに保護してもらいたい。悪いが誰か迎えを寄こしてくれ。よろしく頼む』  紙を鳥の形に折ると、すぐさま本物の鳥になって飛んでいく。  ダニエルは仕事ではいつもこの通信手段をとっていた。飛行中の手紙は本物の鳥になっているので、魔法使いに見つかって横奪される心配はないし、猟師や猛禽(もうきん)類に狙われても攻撃回避能力が備わっているので安全性も高い。リアルタイムで相互通信できる魔法は、便利だが妨害・傍受(ぼうじゅ)されやすいし――そもそも、ダニエルは相手からの通信を受けることはできるが、自分からは連絡がとれない。通信魔法に力を割けるほど、魔力を持っていないのだ。その点魔法紙を使えば、紙自体に魔法がかかっているので使用者の魔力を消費せずに済むという利点がある。  ダニエルは川べりに転がったままになっていたオレンジを拾い、上流に向かって歩き出した。追っ手が罠にかかるまで一時間も要してしまったが、あの少年は大人しく待っているだろうか。  ダニエルがもといた場所まで戻ってみると、アレクシスは一時間前と同じところに座っていた。ダニエルに気がつくと、ぱっと嬉しそうな笑みを見せる。 「ブラッグさん、見てください! 完全ではありませんが、この方法なら消せますよ!」  どうやら、ずっとオレンジの消し方を考えていたらしい。時間の経過にも気づかないほど熱中していたのか。  アレクシスは右手のひらにオレンジを載せ、ダニエルに差し出すように腕を伸ばした。 「太陽精(ヘリアデス)」  アレクシスの呼び声に精霊が応える。スーッとオレンジが透明になり、まるで窓ガラスのように向こう側の景色が見えた。 「どうですかっ?」  アレクシスはキラキラした目で見上げてくる。冷血漢のような顔立ちにそぐわず、なんとも素直で純真な表情だ。犬みたいな奴だ、と思いながら、そういえば自分にもこんな頃があったな、なんて思い出す。  ダニエルは内心苦笑いをしつつ、表面では皮肉っぽく唇の端をつり上げてみせた。 「光の屈折を利用した透明化か。残念、はずれだ。見えなくさせるんじゃなくて、本当に消すんだよ」  アレクシスはがっくりと肩を落とした。 (感情の起伏の激しい奴だなあ)  まあ、よほどの自信作だったのだろう。確かに、そこらの学生が思いついてすぐに実践(じっせん)できるような魔法じゃない。この少年は魔力が多いだけじゃなく、サラ・マレットが言うとおり、頭がいい上に努力家だ。 「まあ、発想は悪くない。そのやり方の延長線に答えがあるようなもんだ。だが、お前ちょっと小利口すぎるぞ。早食いで消すくらいの真似はしてみせろよ」  ダニエルは自分のオレンジの皮に爪を立て、手のなかでくるりと回転させた。爪の先に一瞬だけ針より細く鋭い魔力をこめたので、きれいに亀裂が入って皮がむける。みずみずしい果実にかぶりついた。うむ、さすがオベリア郡の特産、うまい。 「なんですかそれ。そんなの魔法じゃないじゃないですか」  あきれ顔のアレクシスに、ダニエルはにやりと笑った。 「だからお前は正解にたどり着けないんだよ、堅物優等生」  アレクシスはたちまちムッとした顔になって、「アレクシスです!」と言った。  ダニエルは口もとが緩むのを感じた。  ――おかしいな。たった今、人をひとり殺してきたばかりだというのに、こんなやりとりが心から楽しいと思える自分が奇妙だ。 「ほら、もう出発するぞ。夜までに町の宿屋までたどり着けなかったら、この森で野宿だ。まあ、ここなら食う物に困らないだろうけどな。さっきもうまそうなウサギを見つけたぞ。夕飯の時にはウサギの皮の()ぎ方を教えてやるよ」 「早く森を抜けましょう!!」  アレクシスは叫ぶように言って猛然と立ち上がった。ダニエルはせせら笑う。 「なんだ、動物を(さば)くのが怖いのか? お坊ちゃん」 「俺はウサギが好きなんですよ! 今日中に宿に着けばいいんでしょう!? 早く行きましょう!」  青ざめた顔で急かすアレクシスにダニエルは思わず破顔すると、長い黒髪をひるがえして緑のなかを駆け出した。
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