第三章 昔の話、師匠が愛した人の話「人の詮索とは感心しないな?」

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 アレクシスはくたくただった。  暗くなる前に森を抜けようと、懸命にダニエルを追いかけて走り――ダニエルは少女の姿のくせに化け物並みの体力で、ちっとも疲れを見せないし――ようやく街道に出て集落にたどり着いた時には、もう夜の八時近くだった。 (これから宿を探すんだろうか……)  泊まれるところを見つけたとしても、今からでは食事を出してもらえるかもわからない。お昼以降は良心の呵責(かしゃく)に耐えながらオレンジを一個食べただけなので、腹はぺこぺこだ。夕飯抜きでは眠れそうにない。 「ほら、しっかり歩け。その先の道に宿屋があるから」  不意に背後から聞こえた耳慣れない低い声に驚いて、アレクシスは飛び上がった。 「えっ……あっ、ブラッグさん!?」  ふり向くと、そこには見知らぬ男性が立っていた。身長はアレクシスより低いが、百八十以上はあるだろう。白いシャツと革のベストを着ている。くるくるとカールしたブルネットの髪、あごにはわずかに無精ひげ、そしてたれ目がちな紫色の目の下には泣きボクロがあった。 「……本当に男性だったんですね」  学校の卒業アルバムに写っていた少年が成長したら、まさにこんな感じだろう。三十九歳という年齢よりも若々しく見えるが、おそらく魔法でサバを読んでいるのではなく、日々の鍛錬(たんれん)によるものだ。引き締まった姿態に少しかげりを帯びた南部系の甘いマスク、間違いなく女性にモテそうな外見だ。 (……なんでこの人、わざわざ女の子の格好をしているんだろう)  謎である。  ダニエルはひょいと片眉を上げた。 「がっかりしたか?」  ――いえ、むしろホッとしました。  アレクシスは本心を口には出さず、「どうして男の姿に戻ったんですか?」と訊ねた。  ダニエルはにやりとする。 「なじみの女に会うのに、女の姿で行くわけないだろ?」 (……うわぁ)  アレクシスは女性が苦手だが、それにともなって恋愛や性的(セクシュアル)なことも苦手だ。  ……いや、逆か? 性的なことにトラウマがあるから女性も苦手になったのであって……って、順番は別にどっちでもいい。とにかく、ダニエルにそういう相手がいてもなんの不思議もないし、アレクシスがどうこう言うことでもないのだが、できる限りそういう話は聞きたくない。  ……というか、どんな宿なのか不安になってきたぞ。 「……あの、これから泊まるところって、普通の宿屋なんですよね?」  恐る恐る聞くと、ダニエルはますますニヤニヤとした。 「お前は()()()()()()宿()()には泊まったことがないのか? じゃあ、楽しみだな」  アレクシスは鞄をとり落としそうになった。冗談じゃない。 「まったくもって楽しくないです! なに考えてるんですか! 俺は学生ですよ! 勉強のためにあなたのところへ来たんですよ!」  あたりが暗いせいで、蒼白な顔色が見えないのは幸いだったかもしれない。いや、この先のことを考えれば幸いもなにもあったものじゃない。 「道の真んなかで騒ぐなよ」  ダニエルは面白がる態度を隠そうともせず、アレクシスの脇をすり抜けて軽快に先を歩いた。その背中を追いかけながら必死に言う。 「考え直してください! 俺はそんなところには絶っ対に泊まりませんからね!」 「そんなところとはなんだ。知りもしないことを断ずるのは早計だぞ。なにごとも社会勉強だと思え」 「もっともらしい理屈を言わないでください! 大人なら青少年に対して分別のある行動をとってくださいよ!」  横に並んで言い募るアレクシスに、なぜかダニエルは涙を拭う真似をした。 「なんてありがたいお言葉なんだ。そんな真面目で真っ当な学生君に、先輩はぜひとも新しい世界を教えてやりたいと思うよ」 「ふざけないでください―――っ!!」  わめくアレクシスに、ふとダニエルは思いついたように言った。 「それか、お前あれか。故郷に許婚(いいなずけ)がいるとかか」 「えっ……」  アレクシスは不意を突かれて動揺した。  ――許婚。  いる……というか、いた、と言ったほうがいいのか。  あの婚約はもう無効なのだろうと勝手に思っていたが、よく考えたら正式に破棄されたわけではない。いや、どちらにしろ結婚なんてしたくはないのだが……そもそも、自分は彼女――ブリジットの気持ちをきちんと確かめたことはなかった。 「そうか。その子には黙っていてやるから、心配するな」  思わず考えこんでしまうと、ぽん、と肩を叩かれた。はっと我に返る。 「そういう問題じゃありません!」 「そら、もう着いたぞ」 「わ―――――っ!! ちょっと待ってくださいっ!!」  なぜか目を(そむ)けてダニエルの後ろに隠れようとするアレクシスだったが、ふとその宿の店がまえに気がついて「ん?」となった。  素朴な木造の建物には年季の入った看板がかかっていて、吊るされたランタンがそこに書かれた文字を照らしていた。「大衆酒場・金の花穂(かすい)亭」とある。 「普通のお店じゃないですか……」  脱力するアレクシスにかまわず、ダニエルは機嫌よく扉を開けて騒がしい店内に入っていった。
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