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アレクシスはくたくただった。
暗くなる前に森を抜けようと、懸命にダニエルを追いかけて走り――ダニエルは少女の姿のくせに化け物並みの体力で、ちっとも疲れを見せないし――ようやく街道に出て集落にたどり着いた時には、もう夜の八時近くだった。
(これから宿を探すんだろうか……)
泊まれるところを見つけたとしても、今からでは食事を出してもらえるかもわからない。お昼以降は良心の呵責に耐えながらオレンジを一個食べただけなので、腹はぺこぺこだ。夕飯抜きでは眠れそうにない。
「ほら、しっかり歩け。その先の道に宿屋があるから」
不意に背後から聞こえた耳慣れない低い声に驚いて、アレクシスは飛び上がった。
「えっ……あっ、ブラッグさん!?」
ふり向くと、そこには見知らぬ男性が立っていた。身長はアレクシスより低いが、百八十以上はあるだろう。白いシャツと革のベストを着ている。くるくるとカールしたブルネットの髪、あごにはわずかに無精ひげ、そしてたれ目がちな紫色の目の下には泣きボクロがあった。
「……本当に男性だったんですね」
学校の卒業アルバムに写っていた少年が成長したら、まさにこんな感じだろう。三十九歳という年齢よりも若々しく見えるが、おそらく魔法でサバを読んでいるのではなく、日々の鍛錬によるものだ。引き締まった姿態に少しかげりを帯びた南部系の甘いマスク、間違いなく女性にモテそうな外見だ。
(……なんでこの人、わざわざ女の子の格好をしているんだろう)
謎である。
ダニエルはひょいと片眉を上げた。
「がっかりしたか?」
――いえ、むしろホッとしました。
アレクシスは本心を口には出さず、「どうして男の姿に戻ったんですか?」と訊ねた。
ダニエルはにやりとする。
「なじみの女に会うのに、女の姿で行くわけないだろ?」
(……うわぁ)
アレクシスは女性が苦手だが、それにともなって恋愛や性的なことも苦手だ。
……いや、逆か? 性的なことにトラウマがあるから女性も苦手になったのであって……って、順番は別にどっちでもいい。とにかく、ダニエルにそういう相手がいてもなんの不思議もないし、アレクシスがどうこう言うことでもないのだが、できる限りそういう話は聞きたくない。
……というか、どんな宿なのか不安になってきたぞ。
「……あの、これから泊まるところって、普通の宿屋なんですよね?」
恐る恐る聞くと、ダニエルはますますニヤニヤとした。
「お前は普通じゃない宿屋には泊まったことがないのか? じゃあ、楽しみだな」
アレクシスは鞄をとり落としそうになった。冗談じゃない。
「まったくもって楽しくないです! なに考えてるんですか! 俺は学生ですよ! 勉強のためにあなたのところへ来たんですよ!」
あたりが暗いせいで、蒼白な顔色が見えないのは幸いだったかもしれない。いや、この先のことを考えれば幸いもなにもあったものじゃない。
「道の真んなかで騒ぐなよ」
ダニエルは面白がる態度を隠そうともせず、アレクシスの脇をすり抜けて軽快に先を歩いた。その背中を追いかけながら必死に言う。
「考え直してください! 俺はそんなところには絶っ対に泊まりませんからね!」
「そんなところとはなんだ。知りもしないことを断ずるのは早計だぞ。なにごとも社会勉強だと思え」
「もっともらしい理屈を言わないでください! 大人なら青少年に対して分別のある行動をとってくださいよ!」
横に並んで言い募るアレクシスに、なぜかダニエルは涙を拭う真似をした。
「なんてありがたいお言葉なんだ。そんな真面目で真っ当な学生君に、先輩はぜひとも新しい世界を教えてやりたいと思うよ」
「ふざけないでください―――っ!!」
わめくアレクシスに、ふとダニエルは思いついたように言った。
「それか、お前あれか。故郷に許婚がいるとかか」
「えっ……」
アレクシスは不意を突かれて動揺した。
――許婚。
いる……というか、いた、と言ったほうがいいのか。
あの婚約はもう無効なのだろうと勝手に思っていたが、よく考えたら正式に破棄されたわけではない。いや、どちらにしろ結婚なんてしたくはないのだが……そもそも、自分は彼女――ブリジットの気持ちをきちんと確かめたことはなかった。
「そうか。その子には黙っていてやるから、心配するな」
思わず考えこんでしまうと、ぽん、と肩を叩かれた。はっと我に返る。
「そういう問題じゃありません!」
「そら、もう着いたぞ」
「わ―――――っ!! ちょっと待ってくださいっ!!」
なぜか目を背けてダニエルの後ろに隠れようとするアレクシスだったが、ふとその宿の店がまえに気がついて「ん?」となった。
素朴な木造の建物には年季の入った看板がかかっていて、吊るされたランタンがそこに書かれた文字を照らしていた。「大衆酒場・金の花穂亭」とある。
「普通のお店じゃないですか……」
脱力するアレクシスにかまわず、ダニエルは機嫌よく扉を開けて騒がしい店内に入っていった。
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