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夢のような日々だった。幾千もの春も、幾百の逢瀬も、そのあとの静かな毎日も。
僕が恋をしていた桜の木は朽ち果てた。
僕のことを気にかけてくれたあやかしは、ある日獣に食われて死んでしまった。
彼のことを愛していた木は、その後を追うように立ち枯れた。
僕は、ひとりになった。
丘には別の木が植えられ、立ち枯れた木が生えていた一帯には同種の若木が新しく生え始めていた。
その頃になってようやく、僕はいろいろな者の言葉がわかるようになった。
獣の言葉。人の言葉。虫の言葉。植物の言葉。数十年経つごとに、僕に届く声はどんどん増えていった。呼び止められれば話もするし、何か争い事があればわざとつついたり気まぐれで仲裁したりもする。けれど、もう誰かに恋をすることはなかったし、互いに友と呼べるような関係を築くこともしてこなかった。
ある日、互いの言葉が聞こえていないのにもかかわらず愛し合っているあやかしと獣に出会った。そのあやかしは人型をしていて、どこか旧友に似ていた。だからだろうか。そのふたりのことが放っておけず、気づいたら世話を焼くようになっていた。
旧友に似ていたのは見た目だけで、あるときそのあやかしはとても丁寧な口調で切り出した。
「蝶の御方。貴方はさまざまな者の言葉を解しているようですね」
「うん、そうだね。僕はきみの言葉もわかるし、そっちの子の言葉もわかっているよ」
「……ひとつ、お聞きしたいのですが」
「うん、なんだい?」
「ワタクシは、あとどの程度で獣の言葉を解するようになるのでしょうか」
「なるほど。きみは、その子と話がしてみたいんだね」
生真面目なあやかしは力強く頷いた。
「僕を仲介するんじゃだめなの?」
「……意思の疎通はそれで問題ないと思います」
「うんうん。そうだね」
「ですが、ワタクシは――」
そこで一度あやかしは口を閉じ、足下に座っていた獣を抱き上げて、こう言った。
「自分の言葉でこの心を伝えられたら、どれだけ素晴らしいだろうと。そう、思ってしまうのです」
まっすぐな視線と言葉。
ずっと昔、僕も今の彼と似た心を持っていたことを思い出した。
昔の旧友に会ったような心地だったのに、今は、昔の自分を見ているような気持ちになっていた。
「そうだね。きみが獣の言葉を解するようになるのは、ずっと先になるだろう」
そう言うとあやかしは気落ちしたように目を伏せた。
僕は「でもね」と続けた。
「僕はきみたちに、読み書きを教えようと思うんだ。幸い、君たちには瞳がある。文字の読み書きができるようになれば、きっと自分の思いを相手に伝えることだってできるはずだからね」
読み書き、という言葉がいまいちわからなかったのか、あやかしと獣はきょとんとした顔でこちらを見ていた。僕は風を吹かせて辺りの落ち葉を払い、枝を浮かせて地面に桜の花と木を書いて見せた。その隣に「さくら」「サクラ」「桜」と書いていく。
「これは全部同じものを指している。わかるかい?」
「蝶の御方。申し訳ない。この子は桜を見たことがありませんので……」
あやかしがそう言い、彼に抱かれた獣は「見たことない」と吠えた。
「そうかい。じゃあ、今から見に行こうか。ここに書いたのとは違うけど丘の上にきれいな枝垂れ桜があるんだ」
ふたりは頷いて僕の後ろをついてきた。
それは、何度目かもわからない、春の日のこと。
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