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 数年前の話だ。私は百二十年ぶりに出会うことができた「白線」と名付けた花と言葉を交わしていた。 「あの蝶は、花の声を聞く耳も、花の言葉を紡ぐ舌も持っていない」  白線は、薄桃色の花弁をこぼす大木と、そのてっぺんで踊るように飛んでいる蝶を見て言った。 「だから、木々に咲く花と、地に咲く花の違いもわからない。なぜ、オマエは教えてやらない。友なのだろう?」 「友ではないね。どちらかといえば、見ていて楽しい道化だよ。あれは狂っているんだ」 「楽しい? なら、どうして、そんな顔をしている?」 「私は君の前ではいつでも笑顔のつもりなんだけれど……」 「なら、この百二十年でずいぶん下手になったようだな」  そう告げられ、私は口を閉じる。貼り付けた笑顔も捨て、ただ蝶と花弁の踊りを見ていた。  なにも知らず、なにも考えず、ただただ幸せそうにしている、あの愚かなあやかしを見ていた。 「かわいそうに」 「……それは、蝶が? それともあの木がか?」  私は風が吹いたのをいいことに、聞こえないふりをした。  白線は散り際に「おまえも十分、狂っている」と言った。 「けれどワタシは、オマエのように長く生きる者に愛されて、幸せだと思っているよ」  嬉しいことを言ってくれる。だから、素直に認めることができる。そうだ、私も、狂っている。  言葉を交わすことができるのは、花が咲いているときだけ。数十年、長いと百年以上、白線と話をするためだけに生きている。ここ一帯に広がる白線の根と、そこから伸びる節のある幾千もの木々を守り続けている。大小、強弱、善悪関係なく、白線の脅威になりうる存在は、ことごとくはねのける。それ以外はなにもせず、白線が咲くのをただ待っているのだ。 「ワタシに『また会おう』と言ってくれるのは、オマエだけだ」  白線は、その言葉をご所望のようだった。だから私はその通りに、一言一句違わずに「また会おう」と伝えた。白い花が風に吹かれてちぎれた。  とたんに、声は聞こえなくなった。  遠くから、薄桃の花びらが風に吹かれて流れてくる。  狂っているのは、蝶だけではない。あの美しい大木も、同様に狂っている。  互いの声も聞こえていないのに、あのふたつの存在は、千年前から両者とも一方的に相手を愛している。  互いの何を、どこを愛しているのか、端から見ているだけの私には、まったく理解することができない。  正直、蝶の話を聞いていても、よくわからない。  ただ毎年ああも楽しそうにされては、たまらなくなるのだ。  私は百年も待たなくてはならないのに、と。  あいつらのそれは、私の知る愛とは全く異なる形をしている。  成就しているのか、成立しているのか、崩壊しているのか、破綻しているのかも、わからない。  ああ、なんて忌々しい。なんて、羨ましく、痛ましい。  あのふたつは、ほんとうに、楽しそうに、狂っている。
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