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第九章
目覚めて最初に見たものはまっ白な天井だった。
そのあまりの白さに、自分に視界が戻ってきていることに気付かなかったほどだった。ただのだだっ広い空間という幻覚を見ているか、ワンチャン死んだまであるなこれ、とか思っていると徐々に視覚可能範囲が広がっていく。なんだ、死んだわけじゃないのか。この辺りで「俺が俺である」という意識、いわば自我が取り戻され、なんでここにいるのかを朧げに思い出す。それから周りに誰かいるらしいということがわかり、顔まで見えるが誰だかわからない。徐々に手足の感覚が戻ってきて、身体中に管が通されていて身動きが取れないことがわかる。そして最後に聴覚が戻ってきて──
「──!!!」
鼓膜が張り裂けそうな絶叫。瞬時にそこにいるのが誰か思い出す。朧げな記憶が過去と未来を行き来して、幼い頃の記憶までフラッシュバックする。
まだ小学生の姿の俺は公園で遊んでいて調子に乗り、ジャングルジムの一番上まで来てしまった挙句間抜けにも降りられなくなってベソをかいている。
そして誰かが、世界で一番頼もしい誰かが、手を伸ばしながら俺を迎えにくる。
「和哉!!!」
姉ちゃんだ。小学生の頃の焼けた肌の姉ちゃんと今の必死そうな姉ちゃんの姿が眼球の中で混ざる。そして旦那さんが一緒にいる。管だらけでベッドに寝かされている俺の側には、心配そうな姉夫婦の姿があった。
意識が戻ったことが確認されるとすぐさま医者と看護師が飛んできて何やら検査を行っている。よくわからない機械の数々をたらい回しにされた後、ひとまず俺は病室に戻された。体にはまた管が刺されたものの呼吸器は外され、喋れるようになる。姉夫婦は俺と共に病室に戻ってきて、ひと段落とばかりに近くにあった椅子に腰掛ける。旦那さんは妊婦である姉ちゃんを庇うように手を添えていた。クマみたいにずんぐりとしているが優しそうな人だ。
姉ちゃんの視線が突然ぼんやり二人を眺めている俺の方に向けられる。思い切り俺を睨みつけるとそのまま手を振り上げる。そして俺の脳内には鈍い音が響く。
「痛え!?」
姉ちゃんのお得意のゲンコツを10年ぶりぐらいに食らった。待て、なぜだ。入院している人間に対する仕打ちか?
頭を押さえながら顔を上げると、姉ちゃんは拳を握り締めてわなわなと震えている。その目には涙が溜まっていた。
「馬鹿和哉、自分勝手なことして。死んだらどうするの!?」
旦那さんは姉ちゃんの背中をさすって宥めている。それでも怒りは収まらないようだった。
「お父さんもお母さんも泣いてたんだよ! 和哉にはわからないかもしれないけど、みんなあんたのこと心配してるんだよ! どうして平気でそれを踏みにじるようなことするの!? もう子供じゃないんだよ!」
殴られた時には何を責められているのかわからなかったが、ここまで聞いて理解した。俺が律くんを助けに無茶をしたことを咎めているのだ。命懸けで誰かを助けることは美徳ではあるが、俺のような素人が行って共倒れになったらただの間抜けだ。予期せぬタイミングで葬式を出すかもしれなかった親族の身にもなれ、と。多分、姉ちゃんが言っているのはそういうことだろう。
「ごめん。でも俺、死んでないし」
「そういうことじゃないんだよ! 何もわかってないよ、和哉は」
再び拳骨が飛んできそうになったところを旦那さんが制する。俺の方を向いて小さく首を振った。おそらくそれほど俺は見当違いなことを言った。
旦那さんの手を握ったまま姉ちゃんは静かに泣き始める。「なんでいつもそうなの」といいながら肩を震わせているようだった。理由はわからないが、俺が泣かせてしまったのは事実だ。まだガスで灼けた痛みのある胸がさらに痛む。泣きながら、姉ちゃんは続けた。
「あのね、和哉。精神的に参ってたあんたが、誰かを助けたいと思えるようになったのは本当に良かったよ。だけどね、今度は自分が好きだと思う人たちだけじゃなくて、自分のことを好きでいてくれる人を大切にするんだよ」
弱々しく、諭すような口調だった。頭痛とともにまた視界がブレて、小学生の頃の姉ちゃんの姿が重なる。普段泣かない姉ちゃんが、両親の大喧嘩を止められなくて泣いていた時の姿だ。あの時も俺には、なぜ姉ちゃんが泣いているのかわからなかった。
この人は家族のために真摯になって、自分のことのように痛みを感じる人なのだ。自分のことばかりで身勝手な俺とは違う。
旦那さんは静かに姉ちゃんの肩を抱いている。なにか答えなければいけないことはわかったのに、俺は何も言えなかった。
姉夫婦が果物を置いて帰ってしばらくして、警察が病室にわらわらとやってきた。おそらくえらいのであろうおっさんとそこまで偉くないであろう若者の二人から俺に律くんの自殺未遂の事情を聞きにきたのだと説明を受ける。そこで初めて律くんが無事生きていることを知って、俺はほっと胸を撫で下ろした。無事とは言っても回復の見込みが強いというだけで、まだ目を覚ましたわけではないらしいのだが。
事情聴取の時刻をメモする警察官たちの会話を聞いて、自分が一週間も眠っていたことをようやく知った。俺が面食らっているとおっさんの方が呆れたような口調で話し始める。
「お兄さんねえ、死んでてもおかしくなかったんですよ。内臓もボロボロだし、何より吸ったガスが多かったもんでねえ。本当、そのでかいタッパに救われましたね。上背があったから身体中にガスが巡らなくて済んだんですから。親御さんに感謝するんですね」
かなり刺々しい物言いでそういい終えた後、「で、なんでこんな馬鹿なことしたんです」と続けられた。さっきから怒られてばっかりだ。警察からしたら、迷惑な手法で自殺なんか試みた律くんもそれに乗り込んだ俺も平等に仕事を増やす馬鹿者なのだろう。命知らずなのはどっちも変わらない。というか、普通に逃げていれば入院しないで済んだ分だけ俺の方がはた迷惑な野郎だ。褒められたくて賭けた命ではないが、今の俺は冷静に考えてみると『自己満足で死にかけたアホな成人男性』でしかない。迷惑がられるのも当たり前だ。
警察の方も俺について大方その認識をしているようで、律くんが目貼りしていたものをわざわざ解放したことによって警察がどれだけ苦労したかというのを散々聞かされた。未遂現場は当然立ち入り禁止、近隣住民にも一時避難勧告が出たのだという。「正義感が強いのは良いことですけどね、後先考えてもらわないと困るんですよ」とおっさん警察官はふてぶてしく言い放った。律くんを抱きかかえていたときに満ち足りた気分に酔っていたことを思い出し、穴があったら入りたくなった。
それから腹の傷についてもしつこく追及された。「一緒に車に乗ってた女の子にやられたんじゃないの、どうなの」と繰り返し聞かれたが、もうこれ以上このおっさんに馬鹿にされたくなかったのでシラを切り続けた。ニシナは警察の到着時激しく取り乱していたので一度署で保護され、親御さんに引き渡されたらしい。警察の引導に関しては全てムヤがやったのかと思うと、ああ見えて結構冴えた奴なんだなと呑気に感心した。ニシナは今は親御さんの許可のもと律くんの病室に居座り目覚めるのをずっと待っているという。警察としてはカウンセリングを受けさせて精神的な治療をしたいらしいのだが、どうせ無駄だろう。あの時のニシナが囚われていたのは狂気じゃなくて愛だ。意識が混濁しているからかそんな酔狂なフレーズが浮かんでくる。
事情聴取、もとい説教にいい加減飽きてきたので俺は腹部の傷を抑えてわざとらしく痛がり、「喋っていたら傷が開いたのかもしれません」と言って警察を追い払った。出て行く間際におっさんが振り返り、「もう懲りてくださいよ」と呟く。言われなくてももう懲りた。それでも、律くんを助けに入らなければ良かったとは全く思わなかった。
入院生活はしばらく続き、退屈な毎日の合間合間に様々な人がやってきた。姉夫婦はほとんど毎日やってきて、怒りながらも甲斐甲斐しく世話をしてくれた。ぷりぷりしている姉ちゃんに対して旦那さんはいつも穏やかに微笑んでいて対象的だった。夫婦というのはこうやって、お互いを補い合うようにできているんだろうか。
俺が目を覚ましてから一日後、広田さんとひばりちゃんがやってきた。俺の姿を見るなりひばりちゃんは病室に駆け込んできて深々と頭を下げる。
「あんなにひどいことを言って、すみませんでした」
その後ろでは広田さんも頭を下げている。いきなりのことに俺は驚いてしまった。
「え、なんのこと」
「私、あの時取り乱して……、和哉さんが私を思って『来るな』と言ってくださったことに対して、最低だなんて。それに私があんなことを言ったから、和哉さんはこんな無茶を……」
「違う、違うよ。俺の言い方だって悪かったし」
ひばりちゃんは思い詰めたような顔をしていた。自分の言葉が人を死の淵に突き落としたのかと、本気で悩んでいたようだった。確かにひばりちゃんに最低だと言われたのは堪えたが、それを理由にやけくそになったわけではない。ただ、ちょっと前の自分が死ぬならありそうな動機で笑ってしまった。
「市子、……いや、市子先生、ウツだったんですね。もしかして俺のパワハラのせいじゃ」
広田さんは改まった口調で俺を覗き込む。その表情があまりにもさっきの深刻そうなひばりちゃんに似ていて、親子の縁の深さを思い知る。広田さんは工場の作業着ではなくラフなシャツ姿で、そうしていると工場の中で見るより一回り小さく見えた。今の彼は俺を理不尽に怒鳴りつける鬼教官ではなく不安そうなただの中年だ。ひばりちゃんに語りかけたように一言「違いますよ」とだけ否定して安心してもらうことにした。
二人は菓子折りと花を持ってきてくれたようで、花瓶がないことに気が付くと広田さんは慌てて車まで取りに戻った。俺はひばりちゃんと病室に二人きりになったので、こっそり質問を投げかけた。
「律くんの病室には行ったの?」
ひばりちゃんは小さく首を振る。
「もう絶対会わせないって、お父さん、カンカンなので。私としても、会ってどう接したらいいかわからないし」
俺は頷いて小さくそっか、と呟いた。中学生の多感な時期にとって、死とは遠巻きに見れば甘美な響きのようで、実際身近に現れてみると強すぎる刺激に過ぎないのだ。それが自分の好きな人となれば尚更だろう。ひばりちゃんは下唇を少し噛みながら俯いている。もどかしい思いが胸中を渦巻いていることは想像に難くない。
「あの、和哉さん」
ひばりちゃんの小さな声が病室に反響する。
「律さんを助けてくれて、ありがとうございました」
病室に入ってきた時よりもさらに深々と、ひばりちゃんは頭を下げる。よく見えなかったが、伏せられた瞳から輝くものが零れていったのがわかった。
「ただの自己満足だよ、警察にも怒られちゃったし」
謙遜ではなく事実として俺は呟く。俺は俺のやったことを反省しなくてはならない。だが、ひばりちゃんからの心からの感謝を受け取って、やはり俺のしたことは全てが誤りではなかったのではないかと思い直す。その日は勝手に報われたような気持ちで眠りについたこと覚えている。
☆
意識を取り戻してから一週間も経つと、もうすっかり回復したのではないかと思えるほど意識がはっきりし、気道の痛みもなくなってきた。腹の刺し傷だけはまだ完全に治ってはいないがそれを除けばむしろ入院前より体調がいいような気がする。
ただ、姉ちゃんを前にした時に見た、時空が混濁するような幻覚だけが付き纏った。私服で来たはずの広田さんが作業服に見えたり、姉夫婦が大学生時代の姿に見えたりと様々だ。見たことがないものや全く見当違いの他人などの姿がその人に被るわけでもなく、会話に支障が出ることはないが、自分だけが奇妙な視界を持っているというのは不気味だった。一応医者にも話したが、せん妄と処理され精神薬を出された。俺これ効かないのに。
せん妄の原因として退屈があるかもしれないと指摘を受けたので、姉ちゃんにDVDプレイヤーを持ってきてもらって映画を見ることにした。もともと数少ない趣味の一つに洋画鑑賞があったので、DVDまで持っている特にお気に入りの映画を何度も見返して暇を潰している。だが10種類くらいを永遠にループするのは流石に飽きてきた。そろそろ新しいものを観たい。「The mask」なんか全部の歌を歌えそうになるくらい観た。
どれも飽きた映画の中からどれがマシかを選んでいると、ドアをノックする音がする。入ってきたのはムヤだった。
「律さん、起きました」
笑顔でそう告げると、俺の傍の椅子に腰掛ける。俺は思わず飛び起きた。
「そっか、よかった」
「はい、よかったです。二週間ぶりにほのちゃんが笑ってくれました」
ムヤは俺の方に向くと、少し複雑そうな顔をしてからまた笑顔を作った。何か言いたげなのはわかるので、俺の方から話を切り出してやる。
「悪かったな、お前にまで無茶させて。それに嫌われ役に加担させちまった」
するとムヤは片眉を下げて困ったように笑う。
「いや、あなたは僕に花を持たせてくれたんでしょう。そのくらいわかりますよ。僕の読解力も見縊られたものだ」
「まあな、センター国語50点以下だからな」
俺たちは大して面白くもないのに少し笑って、黙った。お互いがお互いに気を遣っている変な空気が流れる。またしょうもない冗談を言おうとしている気配を察したのか、ムヤが先に口を開いた。
「派手に振られましたね、あなた」
そう来るか。初めて会って時に比べて丸くなったかと思ったら、ちっともなってないようだ。頭痛がして、視界の中のムヤの顔にお面が被さる。瞬きをするとそれは消えた。
「俺だけじゃないじゃん」
ムヤは黙っているようだった。違う、黙っているのではない。泣きそうなのを堪えているのだ。ばつが悪くなりフォローを入れようと口を開くと、ムヤに制される。
「でも幸せならOK、ですから」
親指を立てた手を突き出して見せると、クチャクチャになった顔で笑ってみせた。声の震えを押し殺して続ける。
「いやまあ、諦めてませんけど。10代から付き合っているカップルの成婚率なんてたかが知れていますし、あのイケメン浮気しそうですし、やっぱ精神的に成熟している人間の方がほのちゃんにとってもいいと思いますし」
取り繕うように捲し立てているムヤの言葉を遮り、俺は一言だけ投げかけた。
「泣いていいんだぞ、別に」
するとムヤは怒ったような顔をして椅子から立ち上がる。その間も言葉を途切れさせることはなかった。
「いや、だから、なぜ泣くのかわかりませんね。諦めてませんし、勝算は十二分にありますし。あなたが諦めたからって僕が諦めなきゃいけない道理はありませんし。というかあなたも一回刺されたくらいで諦めてるんじゃないですよ、情けない。では僕はまたほのちゃんの様子を見てくるので、これで」
と、なんかごちゃごちゃ言いながら立ち去ってしまった。しかし扉が閉まってしばらくした後に咆哮みたいな泣き声が聞こえてきた。まあそりゃ、悔しいだろうよ。『律くんが死んだら死ぬ』とまで言われてしまったらもう取り付く島もない。俺はあの時にニシナを行かせなかったことで気持ちを清算できたが、ムヤはまだだと思う。あの様子では完全には諦めていないようだ。
それでもムヤは律くんが目覚めたことをちゃんと喜べていた。それならお前は大丈夫だ。自分の失恋を棚に上げながら、遠くから聞こえる青い泣き声をぼんやりと聞いていた。
☆
次の日、俺の病室には大量の荷物が運び込まれた。
牧くんと葉山さんは二人してダンボールを抱えて現れた。愛すべき檜塾の皆様はなんと、俺を心配してそれぞれ差し入れをしてくれたのだ。別に難病なわけでもないのに色紙まで用意してある。ありがたくはあるが流石にちょっと恥ずかしい。
差し入れも個性豊かで、一応患者だというのにワンカートンのタバコが入っていたり、明らかに不要だったのであろう使い古したルービックキューブが入っていたりした。余談だが、おそらく日野さんが入れてくれたのであろう司馬遼太郎の文庫セットはかなり嬉しかった。
外は土砂降りだったらしく、二人とも両手が塞がって傘をさせなかったのですっかりずぶ濡れだった。荷物を運び終わると、牧くんはいきなり俺の真横に歩み寄りしゃがみ込んだ。
「ちょっとあのマジ、俺、どんだけ心配して、その、和哉さんダメだってぇ……」
もう文字列として成立していない何かを口走りながら、骨折した時同様泣き始めた。相変わらずよく泣くやつだ。しかし今度は前回と異なり、もう話すことすら出来なくなり、しかも声を上げもせず肩を震わせて静かに泣いていた。葉山さんは雨露をタオルで拭きながらそれをただ黙って見ている。何か事情を知っているような様子だった。
「ごめんね、牧くん。そんなに心配しなくて大丈夫なのに」
牧くんは何も答えなかった。俺は入院してからこの日までに多くの泣き顔を見てきた。その中で流れた涙の中には、俺のための涙が含まれている。ニシナが泣くのが嫌でこんな行動に出たのに、そのせいで泣いている人がいる。
この時、俺は初めて、もはや俺の人生は自分だけのものではないことに気付いた。いや、違う。気付くのが遅かっただけで、最初から俺の人生は自分だけのものではないのだ。ある時それは耐え難い不自由として俺の精神を蝕んだが、今は違う。
自分を縛る冷たい鎖だと感じていたものは、視界が反転した今になって、体全てを包み込む温かな巣のように姿を変えて、こんな有様になった俺を迎え入れた。茶番に過ぎないとお思っていた人間同士の営みから生まれ出る、「優しさ」とか「思いやり」とか言われるそれの実態をようやく理解することができたのだと思う。
こんなに多くの人を傷つけるまで、全く理解できなかったというのに。
気付けば牧くんは泣き疲れてベッドに凭れて眠ってしまっていた。葉山さんもそれに気付いたらしく、座っていた椅子を俺の方に寄せて話し始める。
「牧くんがかつて不登校になってしまった理由、知っていますか」
俺は黙って首を振る。葉山さんは表情ひとつ変えずに続けた。
「中学校の頃の親友が突然、交通事故で亡くなったからです。それ以来、人の傷や痛みに誰よりも敏感らしいですよ。もちろん、生き死ににも」
詰問するような視線。眼鏡の奥から葉山さんはただじっと俺を見ている。表情が希薄で何を考えているかはいつも通りわからないが、今この瞬間俺を責めているのは明白だった。俺は目線を逸らして押し黙る。
「牧くんが今日ここにきたのは、あなたが心配でろくに眠れなかったからです。だから安心して寝てしまったんでしょうね。」
「そうだったんですね」
葉山さんはやはり表情ひとつ変えず牧くんから俺に視線を移した。
「反省しましたか」
あまりに鋭い一言だった。彼女も怒っているのだろうか。俺は力なく頷いてみせ、葉山さんはそれを見届けた。
「そうですか。なら、話題を移しましょう」
外ではさらに雨が強くなったようだ。窓に雨が叩きつける。葉山さんに怒られると思っていた俺は戸惑いながらも耳を傾け続けた。
「今言ったのは牧くんがここにきた理由です。では、私がここにきた理由は、なぜだと思いますか」
あまりに真剣な声色に、こちらも答えを探ることで応える。なぜ彼女が今ここにいるのか、俺にはさっぱりわからなかった。強いていうなら、牧くんの送迎を葉山さんがしているというのは聞いていたので、牧くんにお願いされて車を出したからだろうか。それともこれも事務員の仕事の範疇なのだろうか。
「教えてあげます」
こちらの答えが纏まる前に、葉山さんは口を開いた。
「あなたが好きだからです」
突如、部屋の中が閃光に包まれる。病室の俺たちは輪郭だけになり、程なくして遠くからけたたましい雷鳴が聞こえた。
大間抜けにあんぐり口を開いている俺をよそに、葉山さんは顔色ひとつ変えなかった。
「事情はひばりちゃんから聞いています。私、そういう勘が鋭いんですけど、市子先生は多分好きな人を庇ってこんなことになったんですよね。そうやって真実の愛とかを信じているから生きづらいんですよ、あなたみたいな人って」
言葉の端々がぐさぐさと刺さる。やっぱり怒っているのだろうか。困惑している俺の顔を見て、葉山さんはようやくちょっと頬を緩ませた。
「それで我慢や自己犠牲をして、自分だけ愛を証明した気になって、案外誰にも相手にされなくて傷ついていくんです。いじらしいですね、市子さん」
この人はいったい、なんでそんなところまでわかるんだろう。自分が目を背けたかった部分まで言い当てられ、ただ黙っているしかなくなってしまう。だがその「なんで」の部分を、葉山さんはさっき打ち明けてくれている。きっとそれが答えなのだろう。
「だからあなたは、もっとズルくなるべきなんです。もっと生きやすく過ごしていくために。人間なんて、ズルいものですから。」
葉山さんは立ち上がり、こちらに近付いた。
「例えば、目の前に都合のいい女がいるなら、仮に何も思っていなかったとしても手を出してしまうようなズルさが、あなたには必要です」
葉山さんはそこで、ようやく俺に笑いかける。俺が今まで見てきたことのない類の、とても妖艶な笑みだった。
俺は葉山さんに手を伸ばす。確かに、そういったズルさは俺にはないものだ。俺は今まで潔癖すぎたのかもしれない。指先が濡れた肩に触れ、再び雷が鳴る。
「俺はそういうふうには生きられませんよ。だから俺なんです」
そっと彼女の肩を押し戻し、椅子に座らせる。葉山さんはまたもとの無表情に戻った。
「あなたはそういうと思ってました。だから好きです」
真顔でもそんなことを言われると、流石に居心地が悪くなってしまう。俺はつい口を滑らせた。
「でもきっと、あなたも俺がまともになったらいなくなりますよ」
葉山さんは俺から少しも目線を逸らさず、質問の意味を探っている。くだらない戯言を恥じていると彼女は答えた。
「そういうことはまともになってから心配してください。少なくとも、今私があなたを好きなことは真実ですから」
思ってもいない答えだった。未来のことなど、誰もわからないのだ。あるのは今だけ。今を蔑ろにして未来を不安がるのは、そもそも間違っているのだ。
葉山さんは軽く牧くんの肩を叩いて起きるよう促す。目を覚ました牧くんはパンパンになった目で俺に笑いかけ、「早く元気になってまた飲みましょう」といつも通りの口調で言った。さっきまでの出来事が嘘だったかのように、無表情の葉山さんはテキパキと帰り支度を済ませていた。
病室を出て行くとき、葉山さんは最後に振り返って一言だけ置き去った。
「よく頑張りましたね、市子さん」
ああ、この人は、本当に人のことを─俺のことを、見ているのだ。
病室の扉が閉まった音を皮切りに、俺は大人になってから初めて泣いた。
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