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第二章
塾に就職してから一ヶ月がすぎた。主な仕事は簡単な事務作業と電話応対、それから授業。そんなに生徒の多い塾でもないので集団授業といっても2、3人をまとめてみるもので、ほぼ個別授業と変わらなかった。
学年によっては生徒が一人しかおらず実質個別授業になっている。生徒たちの態度もあまり良くはなく授業をサボったり脱走したりとめちゃくちゃだが、そういう部分を矯正するのは塾長の仕事であって俺は淡々と授業をしていればよかった。
そうは言っても生徒たちに質問を振ったり問題を解かせたりは流石にしなくてはならないので段々と顔と名前、それから必要な配慮がわかってくる。
例えば中学二年生の大西くんは、親からのプレッシャーに耐えかねて不良になった子なので人と比べたり競わせたりということは極端に嫌う。だから彼のペースでやらせてあげないといけない。一人一人にこんな調子の事情があるのでそこそこやりづらくはあるが、画一化された授業をやる予備校なんかよりは学校らしくて嬉しかった。
もちろん彼らを更生させる気は俺にはない。そんなことを出来るほど立派な人間であるなどと思い違いはしていない。形だけでも教師になったんだからもうこれ以上は望まない。子供たちに深入りしようとも思わない。俺の中身は相変わらずこの調子だから反抗期真っ只中の生徒たちに八つ当たりで罵倒されようが傷つくプライドもないので困らない。へらへら笑って受け流す。
おそらく塾長が求めていた人物像はこういう事なんじゃないだろうか。サンドバッグ兼講師。適材適所とはこの事だろう。
環境が変わったところで人は簡単に変わらないもので、胸の傷も不眠も希死念慮も相変わらずだった。日雇いライン工だった時よりは前進したんだろうけれどもまだまだ人様に顔向けできるレベルの人間ではない。
今更何も期待されていない気がして予備校講師になったことを実家に伝えようという気も起こらない。何もしないよりは頑張ったのかもしれないが、褒められていいレベルだとは思えない。世の中にはもっと頑張っている人が沢山いるのだ。俺はどうせまともにはなれない。
予備校を出て、裏口の自販機の前のベンチに腰掛ける。まだ一月だというのに妙な熱りを感じる。緊張の糸が切れたのかそこで何かのトリガーが外れた音がした。心臓が早鐘を打つ。呼吸が苦しい。視界がぐらつく。昨日飲んだ薬が切れたのか、どうしようもない焦燥感が襲いかかる。
まともにはなれない。その通りだ。その事実がいつまでも脳にこびりついている。俺を見つめる白い眼の数々。律くんの黄色い瞳。塾長の皺々の目元。みんな俺の内面を見透かしている。
取り繕って誤魔化している、俺の怠慢で無能な内面にとっくに気がついている。社会のレールから外れたのは仕事を続けられなかったせい。仕事を続けられなかったのは根性がなかったせい。全て元を辿れば自分のせいなのに被害者ぶっている。そんな自分を誰もが見透かしている感覚に陥る。
身体中が痒い。胸の傷が疼いて痒くてたまらない。ピリピリと皮膚の下で何かが蠢いている。薬の離脱症状が出ているときは、必ず身体中の皮膚を毟り取りたくなる。爪を立てて腕を掻きむしる音が嫌に耳に反響する。
息がつかえる。喉に何かがせりあげる。俺を見透かす目はまだある。母親の目、父親の目。受験に落ちた時、大学を辞めた時、仕事を辞めた時。一つずつ俺を諦めていったあの目。期待をするな、なんて思えなかった。期待通りになりたかった、当たり前じゃないか。思い出すために罪悪感が募る。不甲斐なさ。無力感。やめてくれ。誰ももうこれ以上俺を見るな。
その時、特別冷たい視線が俺を突き刺した。冷や汗がだらだらと滴る。誰だ。まだ誰が俺を見ている。腕を掻く力を一層強める。見るな。見るな。見るな。
「……変なの」
頭上から声がする。込み上げるうだうだとした熱気を振り払う涼やかな声だ。見上げると、制服を着た女の子がこちらを見ていた。今日は日が出ていて熱いだろうに、冬服を着崩さずきっちりと着て几帳面に整えられた重い前髪とお下げ髪が印象的だった。前髪がかかっていて目元がよく見えないが、おそらくさっき俺を突き刺した視線はこの子のものなのだろう。
そこで俺は現実に直面した。今日受け持つ生徒は一番厄介な子なのだ。その子が今ここにいる。
広田ひばり。生徒が一人しかいない中学一年生クラス唯一の生徒にして一言も喋らない。くしゃみの音すら聞いたことがない。そして俺は今初めてその子の声を聞いた。一見優等生然としており、実際頭が悪い訳では無い。しかし現在は家出を繰り返し、学校にもきちんと通えておらず成績は下がり続けているという。
塾にも無断で休むことは多いにもかかわらず来る時には必ず10分前に着席している。真面目なのか不真面目なのかよく分からないが、一筋縄では行かなさそうなことだけは確かだ。
広田ひばりはつまらなそうな顔でこちらを見ている。俺は顔を上げなにか言おうとして言葉を探していると目が合った。その瞬間、彼女は俺に興味を失ったかのように踵を返し塾に向かっていってしまった。このあと授業で指摘されたらどうしようなどと考えながら俺も建物内に戻った。
結局のところ、授業が始まっても広田ひばりはこちらに何か言ってくることはなかった。むしろ俺の存在などないかのような様子で授業を聞いて、テキストを立てて手元を隠して机に齧り付いていた。おそらく別のことをしているのだろう。
一つ変わったことといえば、机に齧り付いている合間合間にこちらを覗き込んで来るということだ。今までは俺への興味は皆無だったのに。
変なやつとして興味を持ったのだろうか。授業中もさっきの名残で腕が少しむず痒かったのをなんとか耐えた。一方で彼女は西日の照りつける教室の中でも制服の袖を捲ったりすることはなかった。
授業が終わり事務作業を終え家に帰る。最近は日中から俺が仕事をしているせいでニシナがうちに来ることは少なくなった。元々日中しか来ることはなく夜はやることがあるという。おそらく律くんの家に泊まっているのだろう。とはいえ相変わらず休みの日に俺の家にやってきては昼飯を食って帰って行く。つい先日はクリスマスの昼間にやってきて律くんと食べる手作りケーキの試食を頼まれた。
ニシナが何か置き忘れている時以外は自宅の冷蔵庫は大体空っぽだから、コンビニに寄ってカップラーメンを買った。いつもなら弁当を選ぶのだが、今日はいろんな種類のおかずを食べることを考えるだけで疲れ果ててしまうくらい疲れていた。離脱症状のせいもあるがそれは自業自得だから仕方ない。
問題は広田ひばりのことだ。取り乱しかけていた俺を突き刺したあの目。俺はあの目がどうも苦手だ。それにどこかで見たことがある気がする。ずっと前から俺を覗き込んでいたような。あの目が頭から離れなかったらまた眠れなくなる気がする。
明日は休みだし、さっさと寝てしまいたい。以上のような理由により相変わらずストロング缶も購入することにした。
家に帰り、カップラーメンにお湯を注いでいると、突然スマホが鳴った。しかも着信だ。ここ半年くらい大家さんからしか連絡がない。あと最近は塾長から。こんな時間に一体何の用だと画面を覗きこむと、そのどちらでもなく知らない番号からだった。
誰だろう。詐欺の電話か? それとも、まさかニシナだろうか。電話番号を教えてはいないが、もしかするとどこかで覗き見たのかもしれない。いや、ないな。だったらラインで電話してくるはずだ。しばらく迷ったあと恐る恐る電話を取った。
「はい、もしもし」
『あ、和哉ー?もしもし、私。実紀だけど』
実紀……? あ、姉ちゃんか。守谷実紀、旧姓市子実紀。中学、高校、大学と全て公立に通い、弁護士になり医者と結婚し、現在妊娠中の二歳上の姉だ。弟である俺とは似ても似つかない美人で、ものすごい努力家。同じ親から生まれてなぜこうも違うのだとよく言われたものだ。自分でもそう思うが性格のせいだろう。
姉ちゃんが妬ましいとか思ったことは一度もない。最後に会ったのは結婚式の時だけど親とほとんど絶縁している俺を気にかけて毎年年賀状をくれていたから近況はなんとなくわかる。
「どうしたの」
『どうしたもこうしたもないよ! 和哉、再就職したんでしょ? おめでとう! なんで言ってくれないの、水臭いなあ』
「……え、何で知ってるの」
『妊婦って安静にしてなきゃいけないでしょ? めっちゃ暇なんだ〜。だから思い立って和哉の名前で検索してみたの。インスタとかFBとか見つかるかなって。そしたら塾のサイトがヒットしてさ! 先生になれたんじゃん。おめでとう! 写真の顔色悪すぎるけどね!』
なるほど。確かに講師紹介のページが作られた。ガッツポーズで写真を撮られてそれと一言コメントが一緒に載せられている。『一緒に頑張りましょう』というコメントとはかけ離れた引き攣った笑顔の俺を姉ちゃんは見たわけだ。
「おめでとうって……。別に大したことないよ。先生っていっても教職免許取ったわけじゃないし」
『それだって立派な先生だよ。和哉はほんとネガティブだな〜。ちゃんと誇り持って。塾講師界の金八先生とか目指しなよ』
目指さないよ。教師から逃げて形だけそれっぽくなっただけなんだ。惨めになるから褒めないでくれ。
『お父さんとお母さんも喜ぶんじゃない?和哉のことだからどうせ言ってないんだろうけど、あの二人、普通に心配してるからさ。たまには連絡してあげな。』
電話越し黙りこくっている俺を宥めるように、姉ちゃんは「難しいかもしれないけどね。」と付け加える。その通りだ。難しい。俺はまだ姉ちゃんのように大人にはなれない。
『あ、あとさー。赤ちゃん生まれたら抱っこしに来てね。名前も今考え中なんだ。和哉もいい人いるならこっそり姉ちゃんに教えてね。顔色と姿勢直せば何とかなるって。気張っていこう! 生徒には手出すなよ!』
「ありがとう。」
『生徒とは仲良くやれてるの? 確か中学生の担当だったよね。思春期の子達って結構難しいんじゃない? 何か困ってたりする?』
そこで俺は昼間のことを思い出す。広田ひばり。口を聞かない年頃の女の子相手に、俺は何をすればいいのだ。姉ちゃんもかつては女子中学生だった訳だし俺よりは気持ちがわかるかもしれない。
「仲良くはやれてないかな。みんな難しい子ばっかりだ。そのなかでも中一の女の子が口聞いてくれなくてさ。それじゃ授業にならないから困ってる。」
一瞬の沈黙。姉ちゃんは俺の言ったことを聞いて驚いているようだった。
「……姉ちゃん?」
『あ、いや、ごめん。なるほどね! 中学生の女の子かー。難しい盛りだね。男の人に興味も出てきて、それを悟られてくなくてツンツンしたりさ。若い男の先生に冷たくする子とか同級生にいたな〜。それで考えると、あれかな? 和哉のこと好きなのかな?』
いや、絶対にないだろう。『変なの』を好きになったりするかよ。
『まあそれは冗談だとしてもさあ。大人に対して警戒してるのはあると思うんだ。相手の出方を見てるっていうか?だから和哉の方から怖くないよっていうのを示してあげればいいんじゃないかなあ?和哉、見た目は怖いけど物腰は柔らかいし大丈夫だよ。』
警戒か。確かにそうかもしれない。いきなり現れた顔色の悪い大男と二人きりで授業をしなきゃいけないとなったら警戒もするだろう。
やっぱり講師である以上こちらから歩み寄るべきだ。今度の授業の時は何か話題でも振ってみよう。
「ありがとう。そうしてみようかな」
『いいんだよ。気張っていこう!』
気張っていこう、というのは姉ちゃんの口癖で、中学時代のテニス部での掛け声だったらしい。ついその頃の自分を思い出そうとして、やめた。かつての自分が今の自分を見たらどう思うだろうか。絶望して死ぬんじゃないか。
『それにしてもびっくりしたよ。和哉、いいじゃん。変わったね! もちろんいい意味でね。』
「変わった? 俺が?」
思いがけない言葉だった。むしろ変わらなすぎる自分に嫌気がさしていたところなのに。
『うん。まさか和哉が私に相談するなんてさ。前は何か困ってる? って聞いても大丈夫の一点張りだったのに。弱音、吐けるようになったんだね。』
そう言われてハッとした。自分では全然気付かなかった。確かに今まで姉ちゃんに何かを相談することなんてなかった。できるだけ手間を取らせないようにしているつもりだった。意識していたわけではない。
だからこそ不思議だった。どうして相談しようと思ったんだろう。広田ひばりのことで真剣に悩んでいるからだろうか。
『やっぱほんとにいい人いるの? そしたら姉ちゃん嬉しいんだけどな。早く妹欲しいな』
「やめろよ。いないよ」
『あはは、まあ何でもいいや。気張ってるみたいで安心したよ。そしたら私はもう寝るから、和哉も早く寝なね。』
「わかった。おやすみ」
そうして電話が切れた。
ツーツーという無機質な音声を聞きながら俺は戸惑っていた。俺はどうやら自分で気付かないうちに変わっているらしい。昼間の嫌な焦燥感とは違う、快い心音の高鳴り。
だったら今抱えている俺の絶望は、仮初のものかもしれないということだ。俺は変わっている。変わることができている。それは一体何のせいなのだろうか。環境のせいか? それとも、あいつのせいなのか?
問いはしばらく俺の頭の中を占領した。そのせいでカップラーメンがすっかりのびてしまったことに気付くまでしばらく時間がかかった。
休み明け、いつも通り昼過ぎに出勤すると塾長に呼び止められた。身に覚えがないのでドギマギしてしまう。ひょっとして解雇されるのだろうか。普段は保護者との面談用に使われる、入口すぐに設置された対面のソファ席に促されたので身構えるように体を縮こめて座る。
視線が泳いでしまうので席の周りを仕切るように置かれたよく分からない観葉植物をしばらく眺めていた。日野さんも俺に続いて腰かける。手に何か持っている。一体何の話なんだ。
「あの、日野さん、俺何か……」
緊張と不安でカラカラに乾燥した口をこじ開けやっとの事で声を出す。すると日野塾長は振り返り例の穏やかな笑顔をこちらに向けた。
「安心してください。市子先生は頑張っていますし、特に注意などはないですよ。これからも引き続き、頑張って欲しいと思っています。」
良かった。安心した。身構える必要がなくなったので膝の間で祈るように握りしめていた手を解いて姿勢を正した。さすが長年問題児を見てきただけあって、塾長は俺という人間の扱いも心得ている。ノミより心臓が小さいので最初に緊張を解いて貰えると大変ありがたい。
「ですから、市子先生に長く働いていただくためのお話なんです。お節介かもしれないですが、私がそういう性分なのは入社の時によくわかっているでしょう」
そう言って塾長は手に持っていた紙をこちらに渡す。おずおずとそれを受け取って読んでみる。
「……心療内科?」
渡されたのは駅前の心療内科のチラシだった。
「そうです。最近、どうも調子が悪そうに見えまして。あ、もちろん勤労態度が悪いとか、そういう話ではないですよ。ですが心配になってしまいまして。私は気にならなかったんですけど、講師紹介のページを更新するとき、お写真の中の先生の顔色が少々悪いのではないかと事務の方にも言われまして」
顔色が悪いのも調子が悪いのも、申し訳ないことに元々だ。塾長の気持ちはとても嬉しいのだが、昔こういうところに行って何も変わらなかったし、今だって正しい方法ではないかもしれないけどうまくやれているし。事務の方も見たまま言っただけだろう。ありがたくご厚意だけ受け取ることにしよう。
「ひょっとしたら、生活が新しく変わってご無理をされているのかもしれないと少々心配になってしまいました。市子先生とはできるだけ長くお仕事をしていきたいと思っておりますので、生徒のみんなを大切にするのと同じように、ご自身も大切にしてくださいね。」
「あ、いや、そんなことないですよ。でももしかしたらちょっと疲れてるのかもしれないなー! 今日は久しぶりに湯船に浸かりたいと思います、ありがとうございます、なんかすみませんね」
そうして場を繕うようにヘラヘラと笑う。目を細めながら横目で塾長を見ると、相変わらず心配そうな顔をしていた。
大丈夫です、俺ずっとこうなんです。そんなことより生徒たちに何事かと思われそうだからこの紙を早く引っ込めてしまいたい。心配してくれている人に対して誠実ではない考えなのはわかるのだがこれ以外の対応がわからないのだ。
「お話だけでも、行ってみて欲しいと思います。先生はお辛い経験もおありでしょうし、責任感も強い方なので、心を守れる場所を作った方がいいのではないでしょうか」
「それはおっしゃる通りですね。でもこうやって日野塾長が話を聞いてくださっているので大丈夫です」
「私に通院の報告などはしなくて結構ですし、そのことで減給などもしませんから…。気持ちが乗ったら、通院してみてくださいね」
「了解です、はい、ありがとうございます」
ヘラヘラ笑って何とか会話を切り上げ、塾長からチラシを受け取る。さっさと片付けてしまおう。そろそろ生徒が来てしまう。まだ誰も来ていないことを確認しようと周りを見渡す。すると例のひんやりとした視線を感じた。
後ろを振り向いたところで広田ひばりと目があった。あの日俺を見下げたのと同じように、塾の入り口に突っ立ったままじっとこちらを見つめている。
見られた。あの目に見られてしまった。背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。俺は思わず彼女に話しかける。
「あ……広田さん?こんにちは。……どうした、のかな」
顔を引き攣らせ無理やり笑顔で話しかけると、広田ひばりは興味を失ったようにぷいと顔を背けてスタスタと教室の方に歩いて行ってしまった。そういえば今日も一年の授業がある。助けを求めるように塾長の方に向き直る。
「今日は授業の前に広田さんと面談があるので、早く来るように行ってありました。先生の前では素直ではないようですが、広田さんは市子先生の授業が好きみたいですよ。」
「そうなんですか!?」
嘘だろ。無理やり話しかけないのが功を奏していたりするのか。だとしたら俺の決意はどうなる。
「ええ。先生が担当になってから塾に来る頻度も増えているみたいですし。通常の予備校ではご法度ですが、当塾では自己判断で生徒さんと交流するのも許可していますので、よかったら食事にでも行ってみるといいかもしれませんね」
このルールは本当に塾長の金八マインドを象徴していると思う。塾長は結構な頻度で生徒たちと食事に行くのを見かけるが、俺は一言も会話したことのない生徒と食事に行くほど俺はタフじゃない。何よりそこまで深く交流する予定もない。
そこそこ上手くいっている講師生活の中で、広田ひばりは異色だというほかない。塾長との面談では何を話しているのだろうか。この間の俺の様子とかを伝えはしないだろうな。関係性を早く安定させないと、ずっと広田ひばりに怯え続けることになってしまう。
ただの中学一年の女子がなぜこんなに恐ろしいのだろうか。次の手を決めかねているうちに授業の時間になってしまった。
教室に入ると広田ひばりは一番前の席に座っていた。いつもはたった一人しかいないのに最後列に座っていたというのに。さらに眺めているのは机ではなく俺だった。もっと言えばいつもは立てているテキストをはじめとした一切が机に置かれていない。
広田ひばりは何の用意もせず、ただ俺を眺めていた。
何か言わなくては。言葉を探る前に、先に口を開いたのは広田ひばりだった。
「先生って、病気なんですか?」
ずきりと胸を刺す嫌な質問だった。さっきのを見られていたからに違いない。それからこの前のも。涼やかで綺麗な声のはずなのに、鋭く心を抉っていく。
だけどあくまで俺は講師だ。塾長とも違って相手に真剣に向き合ったりしない。故に逃げる。こんな質問、答える義理はない。
「病気だったら何なのかな? さ、授業始めるよ。ノートとか出してね。」
何とか笑顔を作り軽く受け流す。やっとのことでできた会話を無碍にしてしまったが、これでいい。一度話せたのだからいずれまた会話できるはずだろう。これで終わりだ。そのはずだった。
広田ひばりが立ち上がる。そして机の上に座り、驚いて振り向いた俺と視線を合わせた。
「病気だったら、仲良くしましょうよ。私、そういう人にしか興味持てないんで。先生のこと結構好きですよ。大丈夫。内緒にしますから」
広田ひばりは僅かに口元を綻ばせてこちらを見つめている。さっきまでの鋭い視線はどこにいったんだ。前髪の奥には歳相応の少女の眼差しがあった。
彼女からの視線が緩んだからか、俺は拍子抜けしてしまった。なるほど。なんだそういうことね。合点がいった。要は彼女はそういうお年頃なのだ。斜に構えて世界の真理とかを訳知り顔で語れちゃうお年頃。悩みや葛藤を自分だけが見つけたメッカにしてそれをちょっとずつ分け合って他人と仲良くなるお年頃。眩しいな。
もはや俺が恐れていた視線はどこにもなくて、ニシナのそれに似た無邪気に人の秘密に踏み込むお転婆な視線が注がれている。姉ちゃんの言葉を思い出す。こちらから歩み寄ってあげるものだ。俺は広田さんの提案に乗ることにした。
その日の授業は国語だったので内容を急遽変更し、広田さんの好きな小説を聞いてそれを題材に授業をやることにした。回答は案の定太宰の人間 失格。あまりに予想通りすぎてこちらが悶絶しそうな気持ちを抑えながら二人で変わるがわる音読をした。
広田さんは終始顔を紅潮させ、にやけを堪えながら自身の考察を話し続けた。俺が哲学者の名言とかを交えながらそれにのっかると大層喜び、悟られないようにこっそりノートにメモをしていた。
それから俺の過去の話をやたらに聞いてきた。隠すこともないのでざっくりと略歴を話すと、特に大学を中退した話に食いついて、学校教育の無意味さを滔々と語っていた。教育学部だった俺からすれば複雑だけど、覚えたての豆知識を披露する幼稚園児と同じだと思えば微笑ましかった。
その日の授業は30分以上も長引いた。ついには先生みたいな大人と知り合えてよかったなどといい、連絡先を交換したがった。
「先生物知りなんですね。私、知識って経験の中で身につけたいんです。つまらない教科書を読むより、先生が勧めてくれる本とかを読みたい。」
聞くと広田さんは父子家庭で、父親は中卒で本の知識などないし学校の先生は当たり障りのない本しか勧めてくれないからつまらないのだという。 そういうことなら別に構わないが、生徒と深く関わりたくない、という気持ちがふと蘇る。勝手に期待されて勝手に失望されるのは嫌だ。
しかし、ここまで相手を興奮させておいて興醒めなことをいうのもかわいそうだ。自分がそんなことをされたら三日は寝込む。仕方ない、広田さんに関しては腹を括ろう。
ふと、俺は思い出す。今聞いた話どこかで聞いたことがあるぞ。ただ、視点が違う。困った娘のいる父子家庭の父親という話。一体誰だったか、と思案して、すぐ目星がついた。ニシナと出会ったあの日、救急車を呼んでいた広田さんだ。俺が気に入らないのかやたらケチをつけてきた広田さんでもある。ひょっとしてこの子はあの広田さんの娘なのか。
「あのさ、ひょっとして広田さんのお父さんって、この辺の食品加工工場で働いてる? そこの、川の方の道をずっと行った、でっかい立方体の工場」
それを聞くと目の前の広田さんは少し不快そうな顔をして、小さく頷く。どうやら図星らしい。
「そうなんだ。俺、前そこで働いてたんだよ。よくお父さんに怒られた」
「へえ。どうしてやめたんですか?」
またこの子は言いづらいことを聞く。タブーを犯したい盛りってあるよな。あの日のことをどう伝えたらいいか分からずしばらく考えたあと続ける。
「えーとね。女の子にゲロぶちまけられて逆ギレしたまま脱走したら出禁になった」
広田さんはしばらく目を点にしたあとお腹を抱えて笑う。やっぱり先生と出会えてよかった、と笑いすぎて溢れてきた涙を拭いながらつぶやいた。
しかし、言われてみればお父さんの面影が少しあるのかもしれない。人の粗を探してチクチク指摘する、あの広田さんの娘さんか。俺がこの子の視線が嫌だったのはそのせいかもな。
子は親を見て育つという。この子も人を品定めするような癖が知らぬ間についているのかもしれない。
「先生のこと人間として興味あるんで、苗字じゃなくて名前で呼びますね。だから先生も名前で呼んでください。苗字の呼び合いって白々しくて反吐が出ます。」
帰り際、再び独自の持論を展開しながら、広田さんは俺に紙切れを寄越した。そこには謎の英数字の羅列がある。おそらくLINEのIDだろう。俺はそれを受け取りながら、呼び方を模索する。
「え、ひばり……さん? って呼べばいい?」
「それでもいいですけど、LINEでも敬語じゃなきゃダメですか?」
「別に大丈夫だよ」
ニシナにも散々タメ口を聞かれてるし、元々そういうことを気にする性格ではない。
「じゃあひばりちゃんでいいですよ。私も和哉先生って呼ぶんで。結構馴れ馴れしいんで、覚悟してくださいね」
このくらいの歳の子は大人と対等に話せるのが嬉しいのだろう。日野先生も半分くらいの生徒をちゃん付けやくん付けで呼んでいるし、俺がやっても問題はなさそうだ。
彼女の家族との何かしらの蟠りが消えることを期待して、その提案を飲むことにした。
「わかったよ。じゃ、気をつけて帰ってね、ひばりちゃん」
「はい、また授業楽しみにしてます。」
ひばりちゃんの後ろ姿を眺めながら、自分の言行を振り返る。どうしてひばりちゃんを放っておけなかったのか。どうして彼女の提案を飲んだのか。今までの自分では考えられないことだった。それは彼女の気持ちが痛いほどよくわかったからだ。
中学生になり、小学校の頃には存在しなかった偏差値とか順位が突然突きつけられる。自分が思っていたよりちっぽけな自分自身を認めたくなくて、誰にも秘密の悩みや葛藤を大切にしまい込む。そして、わかってくれそうな誰かにこっそり開いてみせる。
あの頃の自分には、わかってくれそうな誰かが見つからなかった。でもひばりちゃんは見つけた。いまだに寂しがっているあの頃の自分を優しく殺すために、ひばりちゃんに優しくしたいと思った。
冬の冷たい風がわずかに吹き込んで頬を撫でる。ひばりちゃんを見送るために覗き込んでいたガラス戸には、自分の顔が反射していた。
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