第三章

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第三章

「ぶっちゃけ、市子先生はどの子が一番可愛いと思います?」  これは合コンでの会話ではない。塾での勤務時間中、隣の席でスマホゲームをしながら待機していた大学生のバイトである牧くんから振られた話題だ。俺は生徒たちの成績の打ち込みをしていたから、話半分に聞いていた。  牧くんは規則ギリギリにまで明るく染めた茶髪の前髪をいじりながらこちらをニヤニヤと見つめている。 彼とはよく喫煙所で顔を合わせていて、俺の方からは特別に話しかけることはなかったのだが、成人したばこが吸えるようになったのが嬉しくてたまらないといった様子で、同じ喫煙者同士仲良くしましょうよ、などと言いながらよく話しかけてくる。一緒に飲みに行きたいとも言われるのだが、そこまで仲のいい実感もないので、いまいち乗れずにいる。  この間のことで、ひばりちゃんときちんと向き合うことに決めた。だから牧くんにもできるだけ誠意を持って接したいと思っている。それにつけてもこの解答はどう答えるのがいいんだよ。そもそも中高生女子をそういう目で見たらまずいだろう。牧くんは20歳だからギリいけるかもしれないけど俺は24だ。思っていることをいうしかない。 「生徒をそういう目で見ちゃまずいでしょ」  牧くんは相変わらずニヤニヤと続ける。笑うと目が狐みたいに細くなるようだ。 「またまたあ! 市子さんはほんと生真面目だなあ。JKJC好きとか常識でしょ。あ、事務員のあまねちゃんも結構いいっすよね。顔はそこそこだけどメガネめっちゃ似合ってて結構こう、くるモノありますよね。よく見るとぽっちゃりというよりむっちりというか」 「事務員でもダメでしょ」  確か事務員の方って25歳くらいだよな。今は少し離れたところで書類の整理をしている。事務員の葉山周(ハヤマアマネ)さんは確かにメガネ姿で、化粧っ気がなく、いつも地味な色の服を着ている。いつも茶色がかった髪を緩く一つに束ねていて、猫のグッズをたくさん持っている。声が小さく、気だるそうに話すことからも割と大人しい人に見えるので、牧くんが彼女のことをちゃん付けだったことに少し面食らった。俺より年上だということは知っている。 「あ、でもぶっちゃけ、あまねちゃん、先生のことめっちゃ気にしてるしかっこいいって思ってるみたいっすよ! やったじゃん先生、いえーい」 「何だよそれ」  どうせまた病んでそうだからとか死にたそうだからとかそういう理由だろう。もしくは揶揄われているかどっちかだ。あり得ない。 「ちなみに俺はマナカちゃんかなあ。こないだLINE交換して、今度飯行くんすよ。ワンチャンあるかなあ、へへ」  さっきまでと変わらない口調で牧くんは続けるが、覗き見ると前髪をいじる速度が早まっている。どうやら照れているらしい。俺は高校生の授業を受け持っているわけではないから詳しくないが、マナカちゃんは確か高校二年生で派手目のギャルっぽい女の子だ。  あまり口外しないように、と言われたが、俺は日野先生から牧くんが元々引きこもりだったことを聞いている。大学に入ってからは人が変わったように明るくなって、髪も染めて、よくサークルの友達と遊びに行くようになったという。嬉しそうにはにかむ彼に対して、ひばりちゃんに抱いたような温かい感情が芽生えた。俺にもこんな時期があったかもしれない。なのでできるだけ優しい言葉をかけることにした。 「牧くんおしゃれだし優しいから大丈夫だよ。頑張ってね」  何気なくそう伝えると、牧くんは髪をいじる手を一瞬止める。次にこちらを見た笑顔には目がほとんどなかった。最大限目を細め、頬を紅潮させ、早口で続ける。 「え、そ、そ、そうすか?市子先生さっすが、大人の余裕っすね?てか俺もあの中学校の子みたく和哉先生って呼んでいいすか?俺のこともマッキーって呼んでいいんで、え、和哉先生まじ、最高かよ、卍じゃん」  牧くんは笑顔を絶やさず照れ隠しのように次々と捲し立てる。よっぽど嬉しかったらしい。挙げ句の果てに馴れ馴れしく肩を組んできた。 「ね、平成終わるまでには絶対飲みに行きましょうね。和哉先生の恋バナ超聞きたいし。ぶっちゃけ下ネタとか大好きなんで、ね?」  牧くんに言われて思い出したが、どうやら今年で平成が終わるらしい。とはいえ5月までまだ四ヶ月くらいある。今はまだ1月だ。牧くんいつ告るつもりだろう。これから進展するんだったらバレンタインが割と近いぞ。俺と飲んでいる場合なんてあるんだろうか。でも今は牧くんが可愛く見えているので、俺はなんだか了承してしまった。  時計を見ると15時を回っている。そろそろ生徒が来てもおかしくない頃だ。  入り口の方を眺めてみると、そこにはすでに誰か来ていた。よく見るとそれは生徒でも講師でもなく、なぜか見覚えのある赤い頭がそこにはあった。 (ニシナ? なんでこんなところに?)  組まれた牧くんの腕を振り払い、半ば早足で透明なガラス戸が張られた入り口の方に向かう。俺の姿が近づくと、ニシナも気付いたようで、こちらを向きながらぴょこぴょこと笑顔で飛び跳ねる。こんなところで何をやっているのだろう。そう思ってしばらく眺めているとニシナはただニコニコとこちらを見つめ返してくる。本当に何しにきたんだ。 「おい、なんでこんなところに……」 「あー、いっくんだ〜! スーツ似合うね、かっこいいね!いっくん先生って感じ〜!」  入り口の扉を開けると、ニシナは待ち構えていたかのように駆け寄ってきて、俺を押し込む形で室内に雪崩れ込んできた。鼻腔を甘ったるい匂いが占める。背後からものすごい視線を感じる。絶対牧くんだ。彼にはニシナは刺激が強いんじゃないか?今日は短いスカートにニーハイソックスを履いている。これでもかというくらい分厚い厚底の靴を履いて、バランスが悪そうにちょこちょこと歩く。腕より長い袖から覗く爪にはゴテゴテと何か付けられている。とても学習塾に似つかわしい格好とは言えない。牧くんは女子高校生の制服姿の足ですら横目で盗み見ているというのに、いったい大丈夫だろうか。 「お前、何しにきたの」  改めてそう問うと、ニシナは持っていた黄色い買い物袋をいじりながら答える。 「今日の朝カラコンを洗面台に流しちゃって〜。ほのカラコンないとまじでブスだからすぐ買わなきゃじゃん? でも最寄り駅の方には売ってるとこないし通販だと来るまでに一週間くらいかかるからさ、とりまここまできてドンキでいい感じの買った。で、そういえばいっくんの塾この辺じゃーんって思って来ちゃったー」  ほらこれ、と開封された小さい箱を見せてくれるのだが、見せられたところで何が何だかさっぱりだった。 「いっくん全然わかんないって顔してるー。びっくりしてるワンちゃんみたい」 「それ、読モがプロデュースしたっやつっすよね? 俺、そのモデル好きなんすよ、ぶっちゃけ」  相当の勇気を振り払ったのか、ニシナが話終わるタイミングを取り逃さないように牧くんが会話に割り込んできた。見ればデスクから移動して入り口の方までニシナを出迎えにきている。前髪をいじる速度もなかなか早い。無理もない、同年代の女子が急に押しかけて来たのだ。遅めの思春期を迎えている牧くんなら絶対話しかけたいだろう。ニシナだって俺より牧くんと話した方が楽しいんじゃないのか。 「だってさ、ニシナ。よかったじゃん、話通じてるよ」  誰にでも馴れ馴れしいニシナのことだからはしゃいで牧くんとも仲良くなるんじゃないだろうか。そう思い声を掛けるも、俺の予想とは裏腹にニシナは退屈そうだった。 「えー? いきなりなんですかあ? てか誰この人」  牧くんの方をろくに見もせずに俺のネクタイをいじり出す。そうか、紹介がまだだったな。 「この人は牧くんだよ。現役大学生のバイトさん。」  紹介されると牧くんは照れながら「どもっす」と会釈する。一方のニシナは会釈をされてようやく興味なさげに牧くんを一瞥した。 「ふーん。なんか真面目そー」  ニシナの言葉に牧くんが固まるのがわかる。しまった。牧くんは今必死で軟派な大学生を目指しているのだ。真面目という言葉の真意はわからないが牧くんにとって嬉しい言葉ではないだろう。牧くんから視線を外すと、ニシナは続ける。 「あ、ほのも自己紹介しますね。どうも、ほのかでーす。今日はいっくんに会いに来ました、皆さんよりほののがいっくんのこと好きだからよろしくねー」  途中までは気怠そうに虚空を眺めていたが、最後だけ事務員の方を含めたデスク周りをに視線をぐるりと泳がせた。鮮やかな瞳は回転させると今にもこぼれ落ちそうな危うさがある。ちょっと待て。こいつは何を言っているんだ?職場の皆さんよりニシナの方が俺のことが好き?それを職場の皆さんに言ってどうする。なんの牽制だ。  訳がわからず呆然としている俺に向かってニシナは持っていた小さい方の袋をぐいぐいと押し付けてくる。見ればお菓子の包みを握っている。 「じゃーん。ホワイトチョコかけイチゴだよ。さっき一袋食べたけどめっちゃ美味しかった! なんか最近イチゴって聞くといっくんのこと思い出すんだよねー。だからつい買ってきちゃった。あ、でもいっくんの分しかないや、ごめんねー真面目くん」  明らかに一人ぶんのお菓子しか用意していないあたり本気で俺以外の人数を勘定に入れていないらしい。こいつが俺の職場に挨拶する義理は何もないから別に構わないのだが、少し気まずい空気が流れる。牧くんはすっかり打ちひしがれてとぼとぼとデスクに戻った。事務員の方は訝しげにこちらを見ている。当の本人は口では謝っているものの何も悪びれる様子はない。どちらかといえば俺の方が申し訳なくなってきたのでそれとなく退出を促す。 「ニシナ、ありがとうな。もう用は済んだ?あんまり長居させてやれるわけでもないんだよ」 「うん、そうねー。先生のいっくん見れたからもういいかな。そろそろ行こっと。律くん待たせてるし」    一緒に来てたのか。それなら本当になんとなく立ち寄ったってところだろうな。ニシナはそのまま外に向かったので、俺も見送りついでについていく。 「じゃあほの帰るね。ってあれ?律くんいないなあ。タバコ買ってからすぐ行くって言ってたのに」 「場所、ちゃんと伝えた?道に迷ってるとかじゃないの」  ニシナが周りを見回しているので、一緒になって探してみる。と言ってもあの鮮やかな水色の髪だ、建物が入り組むここでも視界にさえ入ればすぐ見つかることは分かっている。ということは今まだこの辺まで来ていないということなのだが。  ふと、鼻腔に煙の匂いが漂う。タバコの匂いだ。そういえば塾の裏口には喫煙所がある。律くんはタバコを買ってから来ると言っていたし、ひょっとしたら喫煙所を使っているのかもしれない。そう思い裏口を覗いてみる。そこには予想だにしない光景があった。  律くんは確かに喫煙所にいた。しかし、そこにいるのは律くんだけではなかった。彼はタバコを咥えながら、スマホをいじる目を止めて顔を見上げている。その視線の先には、制服を着た学生が─ひばりちゃんがいた。  まるであの時のようだ、と思った。ひばりちゃんの冷たい視線に射止められ、身動きが取れなくなったあの時のように。しかし、律くんは違う。ひばりちゃんに恐れをなす訳でも、警戒する訳でもなく、ただ見つめられている事実を確認しているといった様子で真っ直ぐに見つめ返している。あの時と違っているのはひばりちゃんの方も同じだった。ひばりちゃんが律くんに向けている視線は、俺を見ていた時の品定めをするような視線ではない。いや、後ろ姿しか見えないので、正確にどんな目をしているか、見えた訳ではないが。  きつく結えられたおさげ髪から覗く耳は、真っ赤に染まっていたのだった。 「ちょっとーいっくん勝手に行かないでよ……って、あ! 律くんいたー!」  二人の間に広がっていた緊張は、ニシナの声によって途切れた。律くんはニシナにひらひらと手を振っている。今日は魔法使いみたいな黒くて長くてヒラヒラした服を着ている。見た目通り飄々としたやつだ。ひばりちゃんははっとこちらを向くと、居心地が悪そうに視線を泳がせる。泳ぎに泳ぎまくった視線がようやく俺を捉え、ひばりちゃんは慌ただしく口を開いた。 「こんにちは、和哉先生。相変わらずひどい顔色ですね。それで、こ、こちらの方はお知り合いですか?」  そう言って、律くんの方を振り向かず思いっきり指をさす。その指先はふるふると震えていた。知り合いか。そうだな。俺と律くんってどういう関係なんだ?  突然ひばりちゃんの体がびくりと跳ねる。律くんに後ろから指で突かれたらしい。ひばりちゃんが恐る恐る振り返ると、律くんはスマホの画面を見せている。 「あ……そうなんですね。お二人はそういう……」  画面を見るとひばりちゃんは言葉を濁している。律くん、なんか訳わからないこと言ってないだろうな。律くんはこちらにも画面を見せてくる。近づいてみると、そこには"マブダチ"と書いてあった。律くんは右手を握り拳にして2回胸を叩く。俺としてはマブダチになったつもりは毛頭ないのだが。 「ちょっと律くんー! ほのの目の前で女の子と内緒話すんの嫌なんだけど! てかいっくんこの子誰? 生徒?」  スマホを向けている律くんの腕を掴み、ニシナが割り込んでくる。律くんが他の女と話していることが相当気に入らないらしい。いつものように間延びした口調ではなく、言葉の端々からは苛立ちが滲んでいる。中学生女子相手に大人気ないとも思ったが、ひばりちゃんのこのデレつき具合からしたら仕方ないだろう。律くんの浮気癖については前から聞かされていたし、ニシナの気持ちもわかる。同情はしないが。 「私は広田ひばりで、和哉先生の生徒で間違いありません。ですが和哉先生とはそういう形式的な関係だけでなく人間的に共感し合える仲なので、馬鹿にされては困ります」 「カズヤって誰ー?」 「俺だよ。お前俺のフルネーム知らないのね」 「知ってたし!」  ニシナはピリピリした様子で唇を尖らせる。今日はどうも機嫌が悪いようだ。もしくはニシナにとって望んでいない状況に居合わせてしまっている。ゴテゴテした爪で自分の頬をガリガリと掻いている。爪も皮膚も脆く傷つきそうで危なっかしい。  ひばりちゃんはそんな様子のニシナからも視線を決して外さない。年上の女がヒステリックに喚いているというのに大したものだ。この子の一挙一動を見ているとつい家庭環境に思いを馳せてしまう。歳のわりにタフな様子を見せつけられると、つい居た堪れない気持ちになってしまうのである。  心の奥底では怖くてたまらないはずなのに、心が麻痺してしまっていたらどうしよう。だがそれはとても身勝手な、自分の体験に基づく妄想に過ぎないのだ。こういう小さな傲慢に気付くたび、俺はまた死にたさに突き落とされる。  しかし今の俺は死にたさに浸っている場合ではない。目の前で繰り広げられている、俺が一切登場しない修羅場を止めなければならない。そう思い改めてひばりちゃんを見る。相変わらずニシナをまっすぐ見つめているが、その目は品定めをしているわけでも怯えている訳でも、敵として看做している訳でもなく、きらきらとした、羨望に満ちた眼差しだった。 (なんだよそれ、俺の時とは違うじゃん)  思考に不意に余計な感情が過った気がした。それがなんだったか考える隙もなく、ひばりちゃんがニシナに詰め寄った。 「あの、もしかして、ネットで配信とかやられてます?」  するとニシナの表情も一変する。先程までの不機嫌そうな面持ちから打って変わり、驚いたような嬉しそうな表情を見せた。 「うっそ、ほののこと知ってんの? あ、ネットじゃほのじゃないんだった」 「ええ。よくダンス動画を挙げられてる『ぷにょ』さんですよね。あと雑談配信もよくやってらっしゃる。私毎晩聞いてます」 「えーーーっっほんとー?? マジのやつじゃん! めっちゃ嬉しいんだけど! そうそう、ぷにょ本人! どーしよ律くんリアルでリスナーさんと会えちゃったよ」 『すげーじゃん おめ』 「私病みトークとかメンヘラ系動画大好きなんです! そもそも配信アプリ入れて聴き始めたのはぷにょさんの動画をたまたま見たからで」 「えー! うそーー! 嬉しすぎるー!」 「特にいちごみるくのやつが好きで……」 「アヘ顔したやつじゃーん!」  堰を切ったように話し続ける女の子たち。俺は会話の内容の五割もわからなかった。おそらく最近の流行りについて話しているのだろうが俺には何もわからない。  俺があまりにも訳がわからないという顔をしていたらしくひばりちゃんが得意そうな顔で説明をしてくれた。それによれば、ニシナはネット上で30秒くらいのダンス動画を挙げていてそれが結構人気らしい。その場でちょっと見せてもらったが、全身を使った激しいダンスというより、手や顔の動きで歌詞の内容を表現している感じだった。動きというより、とにかく表情、顔のアップ。  動画の中のニシナは、ばっちり化粧をしてカメラに向かって笑いかけたり、舌打ちをしたり、舌を突き出しながら白眼を剥いたりしていた。ひばりちゃんが繰り返しいう通り、確かに病んでいる感満載だった。表情が大袈裟で貼り付けられているようだ。今目の前にいるニシナとはまるで別人のようだった。  ダンス動画以外にもほとんど毎日深夜に雑談の配信をしていて、そこでは自分がどんなことで病んでいるとかどんな薬を飲んでいるということを赤裸々に話すのでひばりちゃんとしては大変興味深いのだそうだ。ちなみにファンの男女の内訳としては半々らしく、アイドルに入れ込むようにニシナに貢ぐ視聴者もいるらしい。俺はそんなこと全く知らなかった。  ひばりちゃんはニシナに会えた喜びを延々と話し続け、そうこうしているうちに授業まで間もない時間となった。心苦しいがそろそろ引き上げさせないといけない。ひばりちゃんに教室に戻るよう言っても案の定渋る。このままでは授業自体休みかねない。どうしたものかと考えていると、ニシナが「だったら授業終わったらご飯行こうよ」と言い出した。ひばりちゃんは目を輝かせてその誘いに乗る。なので俺は再び困ってしまう。 ひばりちゃんが楽しいのは大いに結構。しかしその結果家に帰るのが遅れて親御さんに心配をかけるような事になったら、それは共通の知人かつ講師として保護責任のある俺の不手際ということになる。ひばりちゃんのお父様、すなわち広田さんにまた怒られるとか絶対嫌だ。しかし止めるのも心苦しいし止めなかったとしたら後は二人の責任であり俺の知ったことではない。そのため何も言わないでいた、のだが。 『和哉センセの奢りだよね、超楽しみ』  不意に律くんがそんな言葉を見せてきたので、行く流れになってしまった。きっと三人の中で年長者である律くんは奢りの流れを察して俺にそれを押し付けてきたのだ。抜け目ないというか狡猾なやつである。  授業後連絡を取るために俺と律くんは互いに連絡先を交換することになった。ひばりちゃんは学校帰りだったのでスマホを持っていないらしく、とても悔しそうにしていた。LINEが登録されると、律くんから早速メッセージが届いた。 『一緒に行きたいってちゃんといいなよ』  振り返って律くんをみると、満足そうにニヤニヤと笑っていた。俺は妙にムカついた。認めたくはないが、それがきっと俺の図星なのだろう。 ⭐︎  駅の近くのファミレスでは、座る席による分煙が行われていた。俺たちは喫煙者と非喫煙者が半々かつ未成年者が二人いるので当然禁煙席を選ぶのかと思っていたが、ニシナが喫煙席を選択したのでそちらに通された。当然のことながらけむい。喫煙所で飯食う感覚だ。ひばりちゃんは大丈夫だろうか、と様子を伺うと、特に顔を顰めたりという様子はなかった。それとなく喫煙席で嫌じゃなかったか聞いてみると、「いつも父と来るときは喫煙席なので問題ない」とのこと。両親ともに(少なくとも俺の前では)吸わなかった俺としては少し驚いた。  席に着くなり律くんは躊躇なくタバコに取り出し、咥え、火をつけ、スマホをいじり出した。律くんは移動中もずっとタバコを吸ってスマホをいじっていた。その腕を無理矢理組んでニシナは一人で喋り続けている。きっと二人でいる時もずっとそんな感じなのだろう。 「和哉先生も吸っていいよ。気にしないからどうぞ」  タバコを吸っている律くんを凝視していたからかひばりちゃんにそう促される。そういえば塾を出たらタメでいいという約束だった。砕けた話し方をしていると年相応な感じがして新鮮だった。ひばりちゃんはメニューを広げながら何を食べるか考えている。今までひばりちゃんが何かを食べているところを見たことがない。律くんとニシナはもう決めたらしく早々にメニューを畳んでいた。俺も注文を決めようとひばりちゃんが広げていたメニューを覗き込むと、なぜかデザートのページが開かれている。 「メニューは最初から最後まで全部見る派なんで」  視線に気付くとひばりちゃんはムッとしながらメニューを閉じてこちらに押し付けて寄越す。自分はデザートなどいらないといいたげだが、頼んだところでこちらとしては構わない。そういった子供じみた行動の一つ一つに抵抗を感じるのだろう。あとで誰か頼むときにそれとなく勧めよう。誰も頼まないなら俺が頼む。だけどニシナとか絶対デザート食べるだろ。  注文を終えると、ドリンクバーを頼んだニシナとひばりちゃんが飲み物を取りに向かう。あまり話したことのない律くんと二人になってしまったので少し緊張する。律くんの方はというとニヤニヤとこちらを見ている。俺と友達になりたいというのはニシナからも前々から聞いていたがどういうことなんだろうか。 『どうする? 俺と一緒に抜けちゃう?』  また律くんはふざけている。ふざけ方がチャラいな。いつもこんな調子で女を口説いているんだろうか。 『返事してよ。悲しいんだけど。抜けるのはギャグでもさあ、このあとカラオケとか行こうよ。俺、和也と友達になりたいっていうか。リアルの友達全然いないんだよね。いいでしょ?ほのかだって昔からの知り合いって訳でもないのに家にあげてるぐらいなんだしさ』  俺は頼まれたら断れない。幸い明日はオフだ。俺自身も律くんと一度話してみたい気持ちはあった。しかし今日は連勤の最終日だから疲れている。明日の昼、また駅前に集合して落ち合うことに決めた。  しかしどうしてカラオケなんだろう。律くんは声が出ないんだろ? 俺が一人で歌い続けることにならないか?  ひばりちゃんとニシナは和やかに話しながら戻ってきた。二人は終始楽しそうに話し続けていた。ひばりちゃんはニシナの髪型や服装にとても憧れているらしく、服やアクセサリーをどこで揃えているかもあれこれ聞いていた。ニシナの方も最初の方に律くんを取られまいと放っていた殺気はどこへやら、すっかりひばりちゃんと打ち解けていた。ひばりちゃんのことをひいちゃんと呼ぶことに決めたようで、ひいちゃん可愛いねとしきりに繰り返している。 「お二人はどこで知り合ったんですか?」  ひばりちゃんにそう聞かれると、ニシナはしばらく一人で勝手に話し続けて止まらなかった。擬音とか余計な感想が多すぎるので概略すると、律くんとニシナはネット上で知り合った。と言ってもニシナの配信を律くんが見ていたという訳ではなく、むしろ逆だ。  律くんは現在音楽制作で食っていて、ニシナはそのファンだった。そのため自分のダンス動画に律くんの作った音楽を使ったところ、その動画が大いに「バズった」、もとい、たくさんの支持を得た。この事実を律くんが発見し、30秒ではなくもっと長いダンス動画を撮ってMVにさせて欲しいと依頼した。その撮影の時に二人は出会い、その一件以来一緒に仕事をすることこそないものの、プライベートでは交流を続け、付き合うことになったのだという。  長いこと律くんの職業について謎だったのだが、無職でもホストでもバンドマンでもなく、売れっ子音楽クリエイターなのだそう。ボーカルを人工音源に任せ、作詞、作曲からMV制作まで全てやってしまうマルチクリエイターだ。真隣で信仰告白をするかのようにうっとりと律くんの功績を語りあげるニシナや、完全に憧憬の眼差しで律くんを見ているひばりちゃんをよそに、律くんは相変わらずスマホを見ながらタバコを吸っていた。この飄々とした態度や妙な馴れ馴れしさは、自身の才能からなる自信から来ていたのか。おまけに容姿もこの通り整っている。この世に不満など何一つなさそうだ。  一つだけ残る疑問はといえば、それなのにどうして律くんは失声症に陥ったのかということだった。 ふと考える。俺は果たしてこいつと友達になれるのだろうか。世界って律くんのような才能とか人望に溢れる人間を中心に回っていて、俺がやっちゃいけないようなわがままとか身勝手がそういう人間には許されているという感覚がある。ある一定の基準で、大きな顔をしていい人間とそうではない人間が分けられているという意識だ。  分かりやすくいえばスクールカースト上位下位とか、陰キャ陽キャの差。それは年収とか能力とか学歴とか関係なくて、社会においてどれだけ他者から愛され、認められるかということだけが基準なのだ。俺はまだその一定の基準に至っていない。多分一生至ることはない。ここにいる他の三人と俺の間には大きな隔たりがある、そんな気がしている。  気付けばデザートが二人分届いている。ニシナとひばりちゃんは笑顔でそれを受け取って嬉しそうに頬張っている。デザートだって食べられるべき人に食べられて嬉しいと思う。俺は基準以下の人間だから、この世の楽しみを享受するには誰かの許可や大義名分が必要だ。分不相応な振る舞いをしたら咎められる。工場で姿勢が悪いというだけで指導され続けたように。許されなければ勝手はしてはいけない。だから明日の待ち合わせも、絶対律くんより早く来なければ。  身勝手で卑屈な妄想に取り憑かれていたこの時の俺はまだ、自分の都合で明日の待ち合わせに盛大に遅刻することなど、考えもしていなかった。
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