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第四章
夜は好きだ。昼間では受け入れ難い孤独を、夜であれば万人に分け与えてくれる。孤独なのは俺だけではない。少なくとも夜の間だけは。
レストランを出たのは21時頃だった。ひばりちゃんは塾から家に電話を入れていたので、駅までお父さんが迎えに来るという。ひばりちゃんは「嫌になるくらい過保護なんです」と言いながら眉をひそめていた。
ニシナと律くんは同じ家に帰っていった。一駅一緒に電車に乗り、前二人と遭遇したコンビニのところでわかれた。律くんはニシナに悟られないようそっと俺だけに目配せして再集合の確認をした。
結果俺は相変わらず一人で帰ることになる。一度離れてしまえばさっきまでの賑やかさは嘘のようで、誰もいない分夜風が一層身に染みる。ずっと一人だから平気なはずなのだが、急に一人となると未だに静寂にたじろぐものだ。それにつけてもまだどうも人から見られているような気配がある。ここは人目のない裏路地だ。さっきまで人といたからその名残か、と思うにはその気配はあまりに鮮明すぎるというか濃厚だった。
いくら生きているだけで人様を不快にしかねない俺とはいえ、誰かの恨みを買った覚えはない。むしろただでさえ人を苛立たせやすいのだからとできるだけ周囲を不快にさせないような行動を心掛けてきたつもりだ。だが今俺は明確に人に付けられている。向こうは上手く隠れてるつもりなのか知らんが露骨に尾行されている。
参った。どれだけ考えても心当たる節が思い浮かばない。中学の時俺が公欠だったせいで一席分日直が飛ばされ、好きな子と日直だった予定が消え失せた井上くんくらいしか思いつかない。
こうなったらいっそ振り返って誰なのか見破ってやるしかないのではないか。ひょっとしたら縁もゆかりも無い通り魔とかひったくり犯の可能性だってある。俺は覚悟を決める。高校の頃のバスケ部以来運動はからきししていないから身体はすっかりなまりきっていると思うが、よっぽどの大男じゃない限りこちらには身長のリーチがある。それから俺は逃げ足が早い。もし勝ち目のない戦闘になりかけたら一度は社会からも見事に逃げ仰せた(笑えないな)逃げ足で何とかしよう。
ここまで考え、ようやく意を決して振り返った。
真後ろには人影はなかった。そこまでは予想通りだ。少し視線をずらすと、そこには人がいた。いたにはいた、のだが。
黒いパーカーのフードを目深に被り、顔には女児向けアニメのお面をした人物が電信柱の影からこちらを見ていた。
どういうことなんだ。なんだその見た目。女児誘拐犯か? しかし俺は女児ではない。
向こうは俺が振り返ると、明らかに動揺して大股一歩後ずさる。声を発していないはずなのに動きがうるさい。俺とそいつの間に、しばしの膠着状態が生まれた。
このままでは埒があかない。痺れを切らし、何か声をかけようとしたその時。
「ほ、ほ、ほのちゃんの彼氏はお前かー!!???」
夜闇に反響するほどの大声で静寂が破られる。声を聞くにどうやら男だ。お面男は芝居がかった大袈裟な動きでこちらを指さしている。そしていきなり声をかけられた俺はというと。
「ちげえよ!」
思考が纏まる間もなく気付いたら大声で返答していた。だって違うから。何をどう間違えたらそうなるんだよ。
俺の返事を聞くとお面男は逆上したように拳を握りわなわな震えながら叫ぶ。
「嘘をつくなー! 知っているんだぞ! いいい市子和哉あ!!!! お、お、お前ほのちゃんと一緒に住んでるんだろ!? 調子に乗るなよ! 背がやたら高くて顔が小さいから誤魔化されてるだけで、お前別に雰囲気イケメンですらないからなぁ! 雰囲気・雰囲気イケメンだからな!!!!」
「知らねえよ!」
するとお面男はつかつかと詰め寄ってくる。見れば手にカッターを持っている。勘弁してくれ。何でこいつに刺されなきゃいけないんだ!? 確かに俺は死んだ方がいい人間だとは思うが、見ず知らずの人間に刺されなきゃいけないのは訳が違うだろ。頭に血が上る感覚がある。ニシナにゲロをぶちまけられた時以来だ。
理不尽に対する正当な怒りが、俺の中に込み上げていた。
真正面に詰め寄ってきたお面男は無警戒にこちらに手を伸ばしている。脇腹ががら空きだ。そして俺より20センチは背が低い。このまま一発お見舞いしてやろうか。
殺気が伝わったのか、お面男は俺が反撃しようとしているのに気付くと、慌てて両手を上げる。
「待って……待って! 刺さない、刺さないから! 殺さないから! 殴らないで! 殴られたら痛いだろ!」
しかも怯えているのかブルブル震えている。なんなんだこいつ。思い出したように刃物を捨て、「ね、刃物捨てた、捨てましたー」と言いながらこちらを伺っている。
「違うんだ、ほのちゃんが配信で、彼氏には胸のとこに刺青があるっていうから確認したいんだ。あったらお前は嘘をついていることになる。それなら話の続きだ。なかったら人違いだ。僕は帰る。そしたらお前も帰れる。悪くないだろ」
完全に一方的な主張だ。しかし俺は早く帰って寝たい。さっさと納得して帰ってもらおう。
「わかったよ。脱げばいいんだな?」
「なんか言い方が卑猥で気に入らないな。別にお前の上裸が見たいわけじゃないぞ。誤解を生む言い方はやめてもらいたい」
「あ?」
「あ、はい、脱いでください、ていうかお手間だと思うので僕が脱がさせていただきますね」
俺が脱いだジャケットを持っていて両手が塞がっている隙に、お面男は無遠慮に俺の襟ぐりを掴むとそそくさとネクタイを外してシャツのボタンを開け始めた。第三ボタンくらいまで開けるとそのままシャツをはだけさせ、俺の胸元は露わになった。
ということは、だ。そこにあるのは当然刺青などではなく、無数に引っ掻かれた大きな傷だ。しかも生傷と古傷が入り混じって黒ずんでいる。
「おい、見たか。刺青なんかないだろ。用がないならもう離せ」
お面男はしばらく身じろぎもしなかった。傷を食い入るように眺め呆然としている。俺がニシナの彼氏じゃないことがそんなにショックだったのか?
お面男は先程までの大袈裟な喋り方ではなく、くぐもった低い声でボソリと呟く。
「お前、これを見られて、何も言わないのか」
俺は答えない。自分の弱さの証明とも取れる傷だが、残念ながらそれも含めて俺なのだ。何も思わないよ。ぽっと出の初対面の人間相手に繕ったって仕方ない。
「……なんか、悪かったな。見られたくなかっただろう。ごめんなさい」
お面男は急に改まると、謝罪の意を伝えるためかペコリと頭を下げた。顔を戻す際にフードが取れ、短く切り揃えられた髪の毛が露わになる。髪型から推測するとおそらく俺より若い。声も高めだし、学生だろうか。
「いいよ、というかもっと他に謝ることあるだろ。用がないなら帰っていいか? それと話があるならちゃんと名乗れ」
俺が服を正しジャケットを着ながら声をかけると、お面男はすっかり意気消沈して俯いてしまった。どうやらちゃんと反省しているらしい。訳のわからないやつではあるが素直そうだ。
「僕は矛谷俊平と言います。ほのちゃんのことが好きで……いつかは絶対僕がほのちゃんの彼氏になるから、宣戦布告しに来ました」
要はストーカーってことだな。そういえばひばりちゃんがニシナが配信者で厄介な男ファンがいるって言ってたな。こんな形でその厄介を喰らうとは思っていなかったよ。
「あ、言っておきますけど、ほのちゃんのことは小学生の同級生の頃から好きです。配信を聞いてから好きになったとかそんな薄っぺらいものではないです。僕は第二次性徴前のほのちゃんから好きです」
かなり根深そうなストーカーだ。しかも相当キモい。
「じゃあ無駄足だったわけか。残念だったな。というかあいつの彼氏なんか火を見るより明らかじゃん」
「え!? 誰ですか? 教えてください、今からそっちに出直すので」
再び大きなリアクションで驚く。本当に知らないと言った様子だ。こいつ、ストーカーにしてはリサーチが粗すぎないか。
「よく一緒に歩いてる水色頭だよ。見た目的にどう考えても刺青あるとしたらあっちだろ。」
するとお面男改めムヤは呆れたように肩を竦める。そして勝ち誇ったように言い放つ。
「なんだ、その人ですか。あなた知らないんですか?あの方はほのちゃんの姉上ですよ。確かにイケメンですけど、女性です。ほのちゃんとは系統が違って魅力的ですよね」
女性? 律くんが? どういうことだ? 待て。こいつひょっとして、律くんにまんまと騙されているな。確かにあの飄々とした性格だったら適当言って逃げかねない。
「いや、あいつ、男だよ」
「違いますよ!!! あの人が男だったら勝ち目がないからって現実から目を逸らしているわけとかではなくて。華奢ですし、まつ毛も長いし、いい匂いだってしましたし、完全に女の人でしょう」
「そういうのに気を遣っている男性なんだって」
「違いますね! 絶対違いますよ!」
なんでそんなに頑ななんだよ。というか女の人を判定する物差しのいい匂いがするって部分に関してはガバガバすぎだろ。今日びいい匂いがする男の人だっていっぱいいるだろう。そこまで考えてふと我に帰る。
いい匂いがする男の人がいるなら、ああいう見た目の女の人がいてもおかしくない。女の人同士で付き合うことだってあるだろう。
姉だというのは嘘だとしても、女というのは本当だったりするのか?
「僕だって最初は絶対男だと思いましたよ。でも……これはほのちゃんには内緒なんですけど、あの時、その……触らせてもらって」
「触らせてって、その、胸を?」
ムヤは弱々しく頷く。
「正直、厚着だったし、そんなに大きかったわけでもないので定かではないんですけど…。なんか、柔らかかったです。」
「……。」
彼には申し訳ないのだが、それは非現実シチュエーションへの戸惑いから来る錯覚の可能性があるぞ。
再び謎の沈黙が訪れる。律くんのおっぱい(?)の感想を言いっぱなしで恥ずかしくなったのか、ムヤが再び会話を切り出す。
「まあ、とにかく。彼氏じゃないんだったら聞かせてほしいんですけど、市子……さんはほのちゃんとどういう関係なんですか?」
⭐︎
あれは先週のことだったと思う。コンビニの前で二人に会ってからしばらく経った頃だった。
「えー、いっくんは頑張ってるじゃん」
いつも通りいかに自分がダメ人間であるかを演説していた俺に対し、ニシナは洗剤を計量しながらそう答える。あれからもニシナはガンガン家に来る。今日は家に来るなり溜まっていた洗濯物を洗い始めた。理由を聞くと大体が律くんと喧嘩して家を追い出されたときで、人の家を便利な溜まり場代わりにしている。予備校は夕方からの出勤だから日中家にいるのがいけない気もする。しかし家にいても授業の準備くらいしかすることもないし、正直家事をやってくれるのはとても助かるので追い払いづらい。ニシナは今律くんの家で同居しているからか家事はそこそこなんでもこなせる。だから追い払わないでいると相変わらずやってくる。調子の良い奴だ。ていうか律くんには怒られないのか。彼らにとって俺は一体なんなんだろう。
「そういえばさー、律くんが今度遊びにきたいって。今日お仕事何時に終わるの? 一緒に来てもいい?」
「なんでだよ。嫌だよ。」
「え、だめ? ほのはいいのに律くんはダメなの?」
ダメというか律くんが嫌だろ。いきなり見ず知らずの男の家に来るのはどうなんだよ。
「じゃ律くんのうち来る? ちょっと狭いけど」
「勝手に話を進めるな。あのな、俺はお前と違うからろくに話したことのない人の家にお邪魔するのは割と勇気がいる。だからせめて律くんと仲良くなってからそういう展開にしてくれ」
「律くんと仲良くなってくれるの? それめっちゃ嬉しい! 律くんあんまり他人に興味ないのにいっくんの話はやたら聞きたがるんだよね」
それ、ニシナと俺が会うのを嫌がってるんじゃないのか。
「ほのが男の人と会うとめちゃくちゃ怒るのにいっくんは大丈夫みたいだし。なんかほのの保護者だと思ってるみたい。」
保護しているつもりはないのだが、そう受け取られているのか。あらぬ誤解を受けていないようで安心した……安心なのか、この感情は。
ふと、どうしても気になって仕方ないことが口をついて出た。
「律くんてさ、俺のことなんか言ってる?」
ニシナは一瞬キョトンとした顔をした後、思い出しながら言葉を続ける。
「えっとねー、ほのに逆ギレして工場飛び出した話したんだけど。その時『それめっちゃエモいね』って言ってた」
そうか。彼にとってエモいのか。俺はエモい保護者なのか。理解したようなしていないような気持ちになる。でもニシナがうちに来る理由はなんとなくわかった。俺の話を律くんが喜んで聞いてくれるから来ているんだ。要はネタ作り、あるいは珍獣観察。
俺の眼前を隔てる透明の壁の向こうで、ニシナは律くんと一緒にニコニコこちらを眺めているのだ。楽しそうに話しながら俺を指差していたとしても、その手が俺に届くことはない。
俺が壁のこちらから何か言ったって、二人には届くはずがない。
なら問題は無い。ニシナは律くんの側にいて、俺と二人の間には明確な境界線が存在している。この件はやっと腑に落ちた。
理由のない好意や親切ほど気持ち悪いものはない。むしろその根底に下心や悪意が隠れていた方が信じやすい。いつか必ず俺から離れていくのだと、予めわかっていた方がやりやすい。俺は他人の好意を素直に受け取るには、自分自身が嫌いすぎる。
「そう。だったら好きにしてくれ」
「うん! ほの、いっくんのこと好きだもん。」
ニシナはニコニコとこちらを見ている。そういう意味で言ったわけじゃない。
そして、ただ興味本位で観察しているだけなのに、あまりそういうことをいうのはやめてほしい。これ以上そんな言葉を聞かされたら、これ以上絆されたら、俺は、─。
俺は、どうなるんだ?
⭐︎
「ニシナの彼氏によれば、俺はどうやらニシナの保護者らしいな」
しばらく考えてからそう答えると、ムヤは身じろぎ一つせずこちらを見ている。俺の次の言葉を待っているらしい。
「彼氏によればって……」
見ればどうも納得がいかないという様子だった。何かを思案しながら首を傾げている。
「ああ、ニシナがどう思っているかか?別に何も思ってないんじゃないかな。彼氏が俺の話すると喜ぶって言ってたから、話題作り? そんなもんなんじゃないか」
「いやそれはおかしいだろう」
お面越しに真っ直ぐこちらを見ながら、腕を組んでいる。
「ほぼ毎日家に来て、親しげにいっくん、なんて呼んで、職場にも来て、何もない? 本当にそうか?」
俺を疑っているのかどうも不快そうな様子だ。組んだ腕に沿わせた指を慌ただしく上下させている。
「本当にそうかって、そんなのニシナにしかわからないだろ」
「わからなくないだろう。この際ほのちゃんが本音のところでどう思っているかなんてどうでもいい。問題はあなたなんですよ。」
一拍呼吸をおいて、ムヤは言い放つ。
「あなたが、どんな関係だと思っているかが大事なんですよ。まだ『あいつ? 妹みたいなもんだよ彼氏とうまくいってないらしいなまあ俺は女として見てないけど笑』みたいな見た目通りチャラついた解答をされた方が良かった」
「俺はどんなイメージなんだよ」
「でもあなたはどうだ。『彼氏によれば』だの『ニシナが』だの徹底して自分の主観を話そうとしませんね。しかも挙句の果てに話題作りじゃないか、なんて。まさか心の底から本当にそう思っているなんて言わないでくださいよ。散々保険をかけて、自分が傷つきたくないんですか?自分が思っていた関係じゃないという可能性がそんなに怖いんですか?」
相当憤っているようだった。しかも、ニシナと一緒にいることそのものではなく、俺の考え方そのものに。
「いいですか。あなたにはほぼ毎日遊びに来てくれる美少女というSSRシチュエーションが発現しているんです。なのにあなたは自分が傷つきたくないからという理由で、そんな最大幸福が目の前にありながら、ずっと否定している。それがどれだけ失礼なことかわかりますね。…特に僕は夢を見るほど憧れているシチュエーションなんですよ。それに興味を示さず、いつ消え失せてもいい、みたいな態度を取ることは、持たざる者にとっての侮辱に他ならない。」
話しているうちに興奮してきたらしく、再び俺に詰め寄ってくる。
「さらに僕が一番許せないのは、ただの神様の悪戯でラッキーを手にしたのではなく、あなたは他ならぬほのちゃんの意思で毎日よろしく過ごしているってことだ。ほのちゃんがどう思っているかなんて知りませんし、まあ実際あなたのことなんてどうでもいいでしょうよ。でも、それでも一緒に過ごそうとしてくれる相手の本心を、最初から疑ってかかるのはほのちゃんに対して失礼だ。僕が許せないのはそこです」
ここで鼻息を荒げ一度言葉を切った。息を一度鎮め、改まって言葉を続ける。
「ここまでのことを踏まえて、もう一度聞きます。市子さん、あなたは、ほのちゃんのことが好きなんじゃありませんか?」
大分一方的に喋り尽くしてから、俺に向かってそう問いかけた。
実際この説は結構痛いところを突いていた。確かに俺は、傷つきたくなんかない。期待をしなければ傷つくこともない、だからニシナ達との関係に、いいところで見切りをつけようとしているのは事実だ。
それから、ニシナが完全な興味本位から俺に構ってきているとも、本当のところは思っていない。多分多かれ少なかれ俺に人間的な好意があって、一緒にいて快いから家に寄り付いていることもわかっている。それなのになぜ頑なに否定するのか。
ムヤに責められながら改めて考えた。そしてわかった。ニシナに余計な感情を抱いて、一緒にいることが窮屈になってしまうことを防ぎたいからだ。
つまり、俺はできるだけ快適に、そして長く、ニシナと一緒にいたいのだ。しかもそのためなら、どんな理不尽な理由でニシナが俺と関わろうとしていたとしても構わない、という前提で、だ。
ニシナがやれと言ったことはやるし、現にこうして塾講師にもなってしまった。来るのを口では迷惑がりながらも、何かと理由をつけて追い払うこともしなかった。
俺は息を呑む。自分で固く複雑に糸を絡まらせ、開かないようにしていた本心のパンドラボックスが、今解かれてしまった。
やばい。これ俺ひょっとすると、ニシナのこと好きだわ。
「うるっせーなー! お前に何がわかるんだよ!」
反抗期真っ只中の中学生のようなセリフを吐き、突然の全ギレをかます。確か中二の大西くんが一昨日こんな感じでキレていた。恥ずかしい。いてもたってもいられない。でも図星を突かれてしまったからにはもうこうなるしかない。
ムヤはいきなり絶叫した目の前の大人に憔悴している。当たり前だ。申し訳ないけどこれは八つ当たりだ。自分でも感情が昂ってどうすることができない。だって誰かを好きになるなんてやったことないんだぞどうすんだよ。
「というか話すときはこんなもん外せ!」
「うわあ、待って、お面は勘弁、勘弁してくださいよ」
「俺ばっかツラ晒して不公平だろ! 雰囲気・雰囲気イケメンに恥かかせんな!」
「ああああ結構根に持っていらっしゃる」
俺がお面を剥ごうと手を伸ばすと、ムヤはものすごい勢いで逃げていく。体をのけぞるとかじゃなくて走り去っていった。真っ直ぐ走れば大通りに突き当たり、歩道橋がある。ムヤは迷わず歩道橋の階段を駆け上がっていく。もちろん俺も追う。しかし、歳の差さか運動不足か、圧倒的に体力がない。
しかたない。こうなったら、最後の力を振り絞って一気に間合いを詰め、手足のリーチでお面を掴むしかない。
俺は覚悟を決め、勢いに任せて地面を蹴る。カンカンカン、と金属の階段がけたたましく軋む音がする。心臓も足の裏も痛い。しかしこの自爆作戦は功を奏し、階段の一段差まで追いついた。
そして、こちらとの距離を確認するために振り返ったところに思い切り手を伸ばし、お面を引っ掴む。慌てて手でガードをされたがもう遅い。俺の手は女児アニメキャラの顎の部分をガッチリ掴んでいて、お面は真下にずり下がる。
露わになったのは、色が白く、口も鼻も小ぶりな、まだあどけない青年のニキビ面だった。異質だったのはただ一つ、同じく小ぶりであろう目の瞼に黒い縫合痕があり、赤くパンパンに腫れ上がっていることだ。
「なんだ、……」
俺はそこまで呟くと、ぐらりとバランスを崩す。中途半端なところで立ち止まっていたから足が滑り落ちたのだ。視界が急旋回する。何度も鈍い痛みがして、自分の体が階段と衝突していることを思い知らされる。最後に左足を打ち付けるような音とともに地面に叩きつけられた。
ムヤは俺が落ちたことに動揺しているようで、お面をつけ直さず慌てて階段を駆け降りてきた。この状況では俺を突き落としたと疑われてしまう。なんとか立ち上がろうとするが衝撃が堪えて流石にすんなりとはいかない。そこで両手を床にべったりとつき、無理やりバランスをとり、テレビとかでよく形容される“生まれたての子鹿“の形相で立ち上がろうとしながら「大丈夫大丈夫すぐ立てるから」とヘラヘラ強がってみた。そんな俺を見ながら、ムヤはたった一言呟いた。
「いや絶対大丈夫じゃないでしょ」
嘘というものは実に虚しいものだ。
⭐︎
『大変恐縮なんだが、こちらの不注意によって足を痛めてしまった 念のため病院に行きたいので明日の予定を変更したい 確認のほど頼む』
家に到着するとまず律くんに謝罪の連絡を入れる。今までの俺だったら多少足を痛めた程度では他人との約束をキャンセルなどしなかったのだが、実は二月頭に合宿場の下見に行く事になっているのだ。勤務先である檜塾では春休みに合わせて新学期対策合宿を開催している。例年使っている合宿場が閉鎖してしまったので、今年は新しい合宿場の候補をいくつか見て回ることになった。俺は自動車免許を持っているということで、そのうちの一箇所を見に行く係に任命された。だから足が悪いと何かと困ってしまう。足を治すためには病院に行かなければならない。もう俺だけの体じゃないのだ。
結局、あの歩道橋から家までムヤが肩を貸してくれた。道中では気を抜くと無言になってしまいお互い気まずかったため、間を持たせるため徹底的にムヤを質問攻めにした。その結果わかったことは、ムヤは浪人生だそうで、絶対にニシナを幸せにするために最低でも旧帝大に行ってエンジニアになるのだという。一月末なのにこんなことをしている場合なのだろうか。しかし肝心のニシナとはまだ付き合っていないがそこのところどうする気だと尋ねたら、「今日のように疑わしい相手を牽制し続けてほのちゃんの選択肢を減らしていく」のだそう。
一番気になっていた目元の傷についてなんとなく触れないでいたのだが、なんでもニシナと結婚するための布石らしく自分で勝手に説明してくれた。ニシナのイケメン好きを考慮して整形手術を受けたばかりなのだという。ニシナのツイッター(裏垢)はV系イケメンやらホストの顔写真のいいねで占領されているらしく、そのイケメンたちの平均顔を作り出し、その顔に整形で寄せていくらしい。尚そのための費用を稼ぐために慣れない居酒屋バイトをしていたらあっという間に一月らしく、もう一浪する羽目になったそうだ。用意周到なのかそうでないのかわからん。
とにかくこいつは、正しいやり方かどうかはさておき、ニシナの気持ちを獲得する事に対してがむしゃらだった。自分に欠けているものや嫌いな部分と真っ正面から向き合い、恋い慕う相手に相応しくなるための努力を続けている。確かにそんなムヤからしてみたらなあなあな俺の態度は腹立たしいかもしれない。
あの時、一瞬の思考の結果ニシナが好きかもなんて思ったが、ここまで真摯にニシナに向き合っているムヤをみたら自分のそれは気の迷いなんじゃないかいう気がしてくる。そういう意味ではムヤの牽制は功を奏していると言える。だが、俺の場合本当に気の迷いという可能性の方が高い。いや、願わくばそういうことにさせて欲しい。
『り また別日で ケガどんまい』
ふとスマホから軽快な通知音が響く。見れば律くんから返事が届いていた。夜の二時近いというのにやはり起きているのか。そういえばニシナが律くんはいつも深夜に作業しているから昼は眠っていると言っていたな。
『てかまじ友達いなさそうな文面だね』
一生懸命感謝の意を返信しようとしていたら水を注された。本当に友達が少ないのだから仕方ない。
『まあ俺も友達いないけどね 返事頑張んなくていいよオッサン笑 おやすみ』
一方的に会話を切り上げると、ダメ押しのようにアニメキャラが「おやすみ」と言っているスタンプが送られてくる。恐らくはまだ寝ないのだろうが作業があるので邪魔しないでほしいという事だろう。よく見たらそのキャラはムヤがしていたお面のキャラと同じだった。やはり律くんとムヤでは好みが同じということなのだろうか。そのキャラはお淑やかそうなお嬢様といった感じで、ニシナにはちっとも似ていなかった。
さて、俺も眠ろう。明日は予定がなくなったから、昼過ぎまで眠ってしまおう。俺はもう疲れたんだ。
開く必要がなかったのに開きかけたパンドラボックスを渾身の力で押さえ付けながらダンボールで無理やりぐるぐる巻きにしてどっか遠くにぶん投げる。そのために必要なのは、ただひたすら睡眠である。そういえばブロンなんか飲まなくてもすっかり眠くなっている事に、この時初めて気付いた。
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