第五章

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第五章

箱の中にいくつかのボールがあって、その中にいくつかのあたりがあるとする。この時、自分で引くのと運のいい誰かに引いて貰うのではどちらがあたりを引きやすいだろうか。 正解は「どちらも変わらない」。当たり前だ。これは中学生で取り扱う確率の範囲で、冷静に考えてみればすぐわかる話だと思う。だが実際にこういうくじを引く場面に遭遇した時、自分は運がいいからとでしゃばったり逆に運が悪いからと遠慮したりする経験をしたことがある人は少なくないのではないだろうか。 ちなみに俺はそのどちらでもない。目の前にあるのは箱の中から一つのボールを取り出すという事象だけで、当たったとしても当たらなかったとしても確率に従って起こった必然に過ぎない。何事もなるようにしかならない。だから俺は自分の運がいいとも悪いとも思っていない。 欠陥ばかりの俺において、ほとんど唯一と言っていい長所が物事を客観視できるということだ。ポジティブでもネガティブでもない極めて現実的で客観的な思考ができていると思っていた。そんな俺の小さい自信は、今回あっさり打ち砕かれることとなる。 ムヤの襲撃から一日経って目覚めたらもう昼だった。休日だったこともあり当然のようにニシナが来ていて、人の家で普段通りくつろぎ自撮りに勤しんでいる。昨日ニシナを好きかもしれないという疑念が生まれた手前、変に意識をしてしまう。なんとなく顔を見れない。だから顔を見ないで済む体勢のまま起きあがろうとすると、昨日打ちつけた足に鋭い痛みが走る。首を絞められた鶏みたいな俺の悲鳴にニシナは大層驚き、慌てて救急車を呼ぼうとしたのでなんとか止めさせる。しかしどうしても病院について行くと言って聞かず、そのままタクシーを呼んで病院まで付き添ってもらった。 診察室に入るとおっさんの医者が現れて俺の足を好き勝手触る。どういう状況で負傷したのかの説明を求められ、押し問答の末自滅しましたとはいえないのでうっかり足を滑らせたと答えた。関節を曲げたり伸ばしたりされた後今度はレントゲンを撮るという。そんなに大した怪我ではないと思っていたので面食らい、促されるまま部屋を移動する。 結果、俺の右足には見事にヒビが入っていた。全治二ヶ月、さらに直近一週間は絶対安静。ギプスをギチギチに巻かれ松葉杖をついて処置室から出てきた俺を見て、ニシナはあからさまに嬉しそうだった。 「いっくんかっこいいね、ギプス似合ってる。なんか手負の狼って感じ?」  ニコニコとそんなことを言っているが、どう考えても怪我人にかける言葉ではないと思う。とはいえこいつの価値観はもうわかっているので特に指摘はしない。 しかし、待合室でギプスを巻かれた足をやたらにつついてくるのはやめてほしい。おっさんの医者につつかれるのとニシナにつつかれるのでは訳が違う。もうこの際言ってしまうが俺はニシナのことを可愛いと思っている。しかもひょっとしたら可愛いんじゃないかとかじゃなくて大分可愛いと思っている。ネットに上げられている写真の方が加工されて整った顔になっているが、元々のニシナの若干噛み合わせの悪そうな口元の方が口を窄めているみたいで愛嬌があって好きだ。だから大した意味もなく触ったり思わせぶりなことを言うのはやめてほしい。 いつかこのことをニシナに伝えなければならないのが、本当にしんどい。というかこの怪我何割かお前のせいだからな。 帰宅するとニシナから事情を聞いたらしい律くんからメッセージが届いていた。『ミスターご愁傷じゃん』などと多少心配している風ではあったが、『ヒビいった足のレントゲン写真もしあったら新曲のジャケ写にしたいんだけど』と続けているあたりそこまで深刻視していないだろう。この二人のリアクションは概ね予想通りだ。ジャケ写の話は丁重にお断りしておいた。 そして今である。絶対安静の命を受け一週間予備校を欠勤した後、久しぶりの出勤だった。俺が入るなり牧くんは飛び上がり、いつもおっとりしている葉山さんは俊敏な動きで日野さんを呼びにいき、呼ばれた日野さんはこちらを見て皺々の目元を見開いていた。その後出勤してから一時間経つが、未だになんの業務もできていない。それどころか普段関わりのない講師の皆さんまで俺を取り囲み、思い思いに心配してくれている。 「え、ちょ、和哉さん、なんすかこれ、怪我?俺よくわかんないんすけど足にヒビって、ちょ、マジやばいんじゃないすか、本当」 「うちの息子も去年足折ってたけど、小五だったからねえ。市子くんの歳でも綺麗に治るもんなの? ていうか牧くん、何泣いてんの」 「だ、だって和哉さんが心配でえ」  半泣きの牧くんにハンカチを手渡したのは高校の国語講師の鈴木美代子(スズキミヨコ)先生だ。小学六年生の息子さんがいるにも関わらずスタイルもよく美人なのだが、声と身振りが大きくて取っ付きづらい。俺とほとんど同時に入ったのに俺より遥かに職場に馴染んでいる。コミュニケーションの巧拙はこういうところに出てくるのだ。 「心配ありがとう牧くん、でもこのくらい平気だから。合宿の下見だってちゃんと行きますし」 すると塾長は慌てて話し出す。 「市子先生、それはいけませんよ。そんなご無理をさせるわけにはいきません。私が二箇所行けばいいだけですから」 「本当に大丈夫ですって。どうせ車で行くんだから問題ありませんよ」 「しかし……」 「だったら私が付き添いましょうか?」  日野さんと俺の駆け引きに強引に割って入ったのは葉山さんだった。葉山さんは屹然と俺を見ている。いつも通り地味な色の服を着ているが、今日はタイトスカート姿で足元のラインが浮き出ている。今日の葉山さんはなんというか、強気のようだ。俺は思わず息を呑んだ。 「祖父の介護で慣れているのでお役に立てるかと思います。私も免許を持っているから運転だってしますし、色々お世話もできるかと」 「色々って……」 「ええ、色々。」 葉山さんの声はよく聞けば暗く湿ったように艶っぽい。そんな声で色々お世話できるなど囁かれてしまうとつい下衆に勘ぐってしまう。邪念を振り払い、三者一歩も譲らないまま議論を続けた結果、俺の怪我が治るまで一度結論は持ち越しになった。 だが、葉山さんはそれでも俺の介抱にこだわった。ようやく俺の周りから人が捌けた後、つかつかと歩み寄ってくる。 「私、ここまで車で来ているので良ければ送迎しますよ。いつも牧くんのことも送迎しているので、一人くらい増えても問題ありませんから」 俺の耳元に手をやり、吐息がかかるほどの距離でそれだけ囁いて去っていく。その仕草の妖艶さといったら一人の成人男性の思考力を奪うには十分すぎるほどだろう。俺は怪我を心配した姉夫婦から譲り受けた軽自動車の存在も忘れ、その場で小さく「よろしくお願いします」と口走ってしまった。 耳元で感じた葉山さんの体温に惚けたまま教室に向かうとすでにひばりちゃんが来ていて、何やら机に齧り付いていた。ひばりちゃんと初めて会話したあの時以来ドアの一番近くの最前列が彼女の定位置になっている。授業前に予習をしているのかと感心してよく見てみると机の上に出ているのは教材ではなかった。筆箱の中には色とりどりのペンが入っている。ひばりちゃんはどうやら絵を描いているようだった。スケッチブックを抱え込み、おでこをほとんどスケッチブックにくっつけた姿勢からもどれだけ集中しているかがわかったので、できるだけ邪魔をしないようにそっと教室には入ることを試みる。 しかし静かに入れたのはドアを開けるところまでで、一歩教室に入った時にひばりちゃんの机に松葉杖を引っ掛けてしまった。衝撃で机の上のものが落ちてしまう。俺は謝りながら慌てて落ちた荷物を拾おうとしゃがんだ。まず散らばったペンを片付けた後、スケッチブックを拾い上げると何が描かれているか見えてしまった。 そこでは水色の髪をした死神のような格好のイケメンが黒髪の制服姿の美少女を抱き抱えている。しかもただ抱えているのではなくミケランジェロの制作した聖母子の彫刻のような体勢になっていた。描かれた二人はなぜか傷だらけで、イケメンの方はこちらをガン見しながらやたら輝く黄色い瞳の片目だけで泣いている。どういう状況が描かれているのかはさっぱりわからなかったが、中学生のひばりちゃんが描いたにしては相当上手いと感じた。そういえば俺がニシナにゲロぶちまけられた時もこんな体勢だったような気がする。 「なな、な何見てるんですか!」 突然スケッチブックをひったくられる。顔を上げるとひばりちゃんは奪い返したスケッチブックを両手で抱え込み、耳まで真っ赤にしてわなわなと震えていた。そうか、これはどう見ても律くんだもんな。だとしたらこっちの女の子はきっとひばりちゃんなのだろう。今ではもうしないけれど俺も中学生の頃は世界を救っちゃう妄想とかよくしたものだ。小二まで夢はヒーローだったし。 こちらとしてはひばりちゃんが頭の中でどんな妄想をしているか知ったところで微笑ましいだけなのだが、本人としてはかなり恥ずかしいと思う。だからできるだけ差し障りのない返答をするに限る。 「絵が上手だなと思って。やっぱり漫画家とか目指してるの?」 そう言われるとひばりちゃんは満更でもなさそうに口元を緩ませつつ、あくまで不機嫌そうに続ける。 「趣味でイラストを描いている人が全員漫画家になりたい訳ではないですよ。これだから一般人(パンピー)は嫌なんです。ただ先生にはいつか進路のお話をしなければならないので一応伝えておきますと、答えはYESです」 なんだかまどろっこしい言い方をされたが、要は漫画家になりたいということだった。聞けばそもそもの父親との不破のきっかけはそこにあるという。ひばりちゃんは将来漫画家になりたいので、高校では美術科に通って絵の勉強をたくさんしたい。しかし父親はそれに反対し、どうしても普通科や商業系の高校に通えという。自分の希望を聞き入れてもらえないことに不満を覚えたことが反発のきっかけらしかった。 「しかも大学に行くなら公務員になれるとか国家資格が取れるようなところに行けというんです。私は美大に行きたいのに、見ている世界が狭くて嫌になります。私のこと、ご近所や職場で聞こえがいいようにしか育てたくないんですよ。理想通りの娘しか認めないつもりなんです。そんなんだったら産まないで欲しかった」 ひばりちゃんは心底不満そうだったが、俺としては親の言っていることもわかってしまう。どんな進路に進もうと、どうしても漫画家になりたければ最終的にそこに落ち着くだろう。だったら最初から道を狭めずに潰しのきく進路も見据えておくべきだ。広田さんはひばりちゃんを理想通りにしたいのではなくて、不幸になってほしくないだけなんだと思う。ただ中学生の子にそれを説明するのは骨が折れそうだし、親子の事情に第三者が踏み入るべきではない。 「お父さんも意地悪で言ってるんじゃないと思うよ。きっとひばりちゃんなら今すぐにでも漫画家になれそうだからじゃないかな。」 熟慮した結果どちらの肩も持ったどっちつかずの立場を取ることにした。するとひばりちゃんはムッとする。 「父もそういうんです。一般人は漫画のことよくわかってないからそんなこと言えるんですよ。このレベルじゃ全然ダメなんです」 俺は不満そうなひばりちゃんの視線をヘラヘラ笑って受け流す。気持ちはわかるが、無責任にひばりちゃんの言葉を肯定をすることもできない。講師になったからなのかひばりちゃんの人生に真摯に向き合うようになったからかはわからないが、中途半端に親の立場での考え方をするようになっていた。でも自分が自らの親との関係の亀裂を修繕できるかと言われれば難しい。理解できることと許容できることは違う。 これが大人になるということなのだろうか。だったらもっと説得力のあることを言ってあげたいものだ。 その日からはしばらく俺は座って授業をさせてもらった。ひばりちゃんはこの日を境に真面目に授業を受けるようになった。絵を描いていることがバレてよっぽど恥ずかしかったのだろう。 ⭐︎ ニカ月後にギブスが取れるという医者の予言はニアミスで的中し、俺の足は一ヶ月半で完治した。そして今は三月だ。職場の近くに生えている梅の花が咲き始めている。懲りもせず家にやってくるニシナの服装もちょっと薄着になって、ヒラヒラした袖から猫に引っ掻かれたみたいな自傷痕が見えて痛ましい。気になってちょっと傷を指でなぞったら「ひゃん」とかいうふざけた声を出されたのでもう二度としない。心臓に悪いにも程がある。 この一ヶ月半で俺の周りに起こった変化は数えるほどしかない。その中で特に大きな変化は三つ。 一つ目は、牧くんがマナカちゃんに振られたこと。バレンタインに逆チョコをあげて告白したらものの見事に玉砕したらしい。松葉杖なのにほぼ無理矢理連れて行かれた飲み屋では泣きじゃくりながら「いい人だとは思うけど男としては見れない」というお決まりのフレーズで振られたことを壊れたラジオみたいに繰り返していた。最終的にもう死ぬと言い出す始末。どうでもいいが、俺はカルアミルクでやけ酒する人を初めて見た。 二つ目は、牧くんに彼女ができたこと。バレンタインから二週間経って、サークルの同級生にいきなり告白されたのだという。その子は牧くんが振られたことをめちゃくちゃ面白がっていじりまくってきたと思ったら、慰めてあげるから飲みに行こうと誘ってきて帰り道にいきなりしおらしくなって告白してきたという。 牧くんの側はというと、可愛いし明るくて面白いけど仲が良すぎて異性としては意識してなかったにも関わらず、告白された途端にたまらなく愛おしくなってその場でOKしたらしい。それからというもの、この間居酒屋で死ぬ死ぬいいながら号泣していた奴と同一人物だと思えないほど調子に乗っている。挙句「マジ和哉さんも早く彼女できるといいっすね」とか一人前に抜かしやがる。ムカついたのでちょっと小突いたら、イテテと言いながら文字通り目を細くして嬉しそうに笑っていた。 そして、三つ目。これが一番重大。この一ヶ月半で、俺はブロンと縁を切ることに成功した。もう俺のうんこは白くないし肌の下を虫が這いまわっている感覚に苛まれることもない。あの忌々しくベタつく糖衣を味わうこともないのだ。 俺はこの一ヶ月半の間非常に安定していた。いきなり破壊衝動に襲われることも自己嫌悪に苛まれることもなかった。思うに今まで俺を支配していたどんよりとした感情は、自分が無価値であることに対する歪んだ肯定だったのだと思う。常に自分自身を否定し、思考を希死念慮でいっぱいにして、脳に一瞬たりとも幸福を与えないことで自分が無能で無価値であるのにも関わらず生きていることへの釣り合いを取っていた。よくわからない薬や酒で内臓を痛めつけることで生きているという罪を清算したかった。つまるところ自分自身を罰することで逆説的に自分を許していたのだ。だから目に見えて怪我をしている今、俺は安定しているのだ。今は自分自身を罰するまでもなくこれ見よがしな枷がある。  この本質に気付いた途端、自分が今までやってきたことはただの無意味な自己満足であることを痛感した。俺がどれだけ俺をいじめ倒したところで自身の価値が上がるわけもない。俺がやっていたのはただの手間のかかる足踏みだ。 朝五時に目が覚めた三月の朝、きんと冴えた思考の中で己の馬鹿馬鹿しさを恥じた。故に、もうやめる。誰も許してくれないなら俺も俺を許さない。この身全部で受け止めて正々堂々罰される。無価値な自分を肯定なんかしないで全身全霊でぶっ殺す。それでも許せなければ足踏みしないでさっさと死ぬ。やってダメなら仕方ない。それが一番手っ取り早い。 俺は足元にあったブロンの瓶を拾い上げると、便器に向かって逆さにして中身を全部捨ててしまう。錠剤が音を立てて水の中に落ちていく。レバーを引くと、水面に映る俺と共に錠剤は下水に流れていった。あばよ、せいぜい苦しめ。餞別に中指を立ててやった。 それ以外にあった変化といえば葉山さんを見る目が変わっちゃいそうということぐらいだ。しょうもない自己嫌悪を辞めた今、今度は他人の好意をどこまで受け取っていいのかわからなくなってしまった。ちょっと優しくされただけでいい人だなあと思ってしまう。車があるからと送迎のお誘いは結局断ったが、ひょっとしたら俺って本当は相当人を信じやすくて、それ故に過度に信じていいのかという疑いを強く持っていたのかもしれない。特に恋愛に対しては実は半端なくちょろいんじゃないかという気がしている。ニシナを好きかもなんて思ったすぐ直後に葉山さんを猛烈に意識している。もっと言えばもし同級生だったら確実にひばりちゃんのことが好きだったと思う。でも牧くんや律くんなど最近仲良くなった人たちへの気持ちと明確に違う感情かと言われればわからない。今まで恋愛をしたことがなさすぎて、どこまでが人間としての好意でどこからが浮ついた恋愛感情なのかが全くわからない。状況を客観視できることが取り柄だと思っていたのに、ここ最近の女性関係で完全に形無しだ。初恋に悩める24歳男性という気持ち悪い生き物が産まれてしまった。 元はと言えばムヤが俺がニシナを好きだとか言い出したのがいけない。それまでは恋愛なんか無縁だった。そのムヤともこの一ヶ月半で親しくなった。俺が想像以上に大怪我を負ってしまったのを気に病んで菓子折りを持ってきて以来、怪我の様子を見るという理由でちょくちょく家に上がり込んでくる。目元の腫れはすっかり治まりぱっちりとした目になっていた。芋臭い髪型と服装を除けば結構イケメンなんじゃないかと思う。せっかくだからニシナがいるときにくればいいものをわざわざニシナがいない時にやってくるので、家に来る予期せぬ訪問者が二人になってしまった。 特に追い払わないでいたら、最近では図々しくも受験勉強でわからない部分を質問しにくるようになった。理系のムヤは国語が凄まじく苦手なのでかなり初歩的なところから教え直している。多分古文だったらひばりちゃんの方ができると思う。 「いや、わからないな」 退勤後にやってきたムヤにセンター国語の解説をしている最中、おもむろに小さく呟く声が聞こえた。助け舟を出す前にとりあえず一缶目のビールを飲み干す。 「わからなくないだろ。さっきやったとこだぞ」 「違う。問題はわかるんですよ。わからないのは市子さんのことでありまして」 「そりゃ俺だって俺のことわかんねえもん」 「そういうことでもなく」 含みのある言い方をされてもどかしい。右手で空き缶を潰して少し離れたところにあるゴミ箱に投げ込むが、惜しくも入らずカランという虚しい音が響く。 「こんなに教えるのが上手いのに、何故ゆえ一度教師を諦めたのか、と思いまして」 なんでこいつそんな余計なこと知ってるんだと思ったが、すぐに塾のHPで日野さんが俺のことを塾長日記に書いていたことを思い出す。その時は誰も読むまいと思って特に掲載を渋らなかった。でもこうして熱心に読むやつが現れてしまったわけだ。面倒臭いことになった。逆に何でだと思う、とか聞いて困らせてやろうかな。ちょっと考えてざっくりとなら教えてやることに決めた。俺はプラカップ焼酎の蓋を捻りながら答える。 「教育実習に行って、向いてないのが分かったからだよ」 ムヤは合点がいかないという顔をしている。イケメンになったからかこの間と同じ表情をしていても神妙さが増しているな。 「それは授業で失敗をしたなどで? こんなに教えるのが上手いのに。それとも子供が苦手と判明したとか」 「違う違う。授業はうまく行ったし現場でも褒められた。子供は……まあそんなに仲良くはなれなかったけど別に好きだよ。最後色紙とか貰って嬉しかったし」 「じゃあ何故」 ムヤはいよいよわからないという顔をしている。こっから先はわかってくれる人の方が少ない。説明したところで質問の答えになるかは怪しいところだ。だが別にこいつにわかって欲しいわけでもないので続ける。 「続けられないなと思ったんだよ。授業をして、生徒と対話して、先生と呼ばれて、それだけで満足しちまったんだ。もっとやりたいと思わなかった。俺は教育がしたいから教師になりたいんじゃなくて、教師という肩書きに満足したいから教師になりたかったんだ。だから教師という肩書きを手に入れた後生きていけるかわからなくなって怖くて逃げた。教師になる以外どうでも良かったから大学もいる意味が無くなってやめた。」 「……。」 もっといえば、親から口を酸っぱくして「なりなさい」と言われていた教師になることで自分が認められる自分になりたかった。でも多分あのまま教師になっていても自分のことは認められなかったと思う。敷かれたレールをゴールした先、自分の足で歩ける気がしなかった。空っぽのまま放り出されたくなかったのだ。 「簡潔にいうとだな、このまま教師になったらその後の人生が余生になると思ったんだ。まあ国語48点のムヤにはわかんないかもな」 「僕の読解力のせいにしないでいただきたい。現在わかったとわからないが半々という割合です」 「もっと気張れ。わかったらさっさと解け」  焼酎を飲みながら雑にムヤを応援する。俺のことなんかわからなくていいんだよ。そんなことより古文の単語を一つでも多く覚えろ。受験生なんだからもっと利己的であれ。 しばらくするとムヤはまた唸り出す。今度はちゃんと問題がわからないらしかった。現代文で恋を取り扱った小説の読解に苦戦しているらしい。 「大体僕のような、母親以外の女の人とまともに話したことない人に主人公の恋人の気持ちがわかるわけがないじゃないですか。人と付き合ったことなんかないのに」 不服そうにぶつぶつと文句を垂れている。経験がないから心情がわからないというのは、現代文が苦手な学生が陥りがちな思考だ。俺はムヤの誤りを訂正してやる。 「こういうのは文の前後から推測して考えるんだよ。虫食い計算と一緒。そうすれば交際経験ゼロの俺でもセンター現代文九割だ」 「ちょっと待て。あなた彼女いたことないんですか?」 またよくわからないところに突っかかられた。正確に言うと人と付き合ったことがないわけではない。付き合いたいと言われたから拒まなかっただけであっけなく二ヶ月以内には別れたし、それに付随する諸々も味気なかった。だからまともに人を好きになったことはない。学生の時に淡い憧れを抱いたことぐらいはあったけれど、その人が俺のことを好きになるイメージなどとてもできなくて恋にならずに終わっていた。 「なくちゃ悪いかよ」 「いや、純粋な驚きです。だってあなた普通にニッチな層にモテそうじゃないですか。あ、まさか自分のこと本気で雰囲気・雰囲気イケメンだと思ってるとかないですよね」 「ちゃんと雰囲気・雰囲気イケメン以下だと思ってるけど」 「いやどう考えても雰囲気イケメンですから。となるとあれですか? 告白とかされたこともない感じですか」  雰囲気イケメンだと念を押されるのは果たしてフォローなのだろうか。ムヤの言葉を受けて俺は記憶を辿り、小学生から大学生までを追想した後答える。 「それはある。中高一回ずつ、大学で二回」 「死ね」 ムヤはそれきり黙ってしまった。お前はニシナ一筋なんだから必要ないんじゃないのか。いじけているのは手にとるように分かるが、思っているような告白じゃないと思う。彼氏がいることをステータスに思っている女の子が、本当に付き合いたい男の子に振られるとか別れるとかして妥協でしてくる告白。テレビの番組と番組の間のつなぎみたいな感触だ。お互いに大して好きでもないのに付き合ったって虚しくてどちらからともなく別れるに至ったが、相手のプライドを傷つけてしまったのは申し訳ないと思っている。 ふと、妥協で告白してきたというのは俺の例のネガティブな思い込みで、本当は向こうは結構俺と付き合いたかったんじゃないかという仮説が浮上する。いや流石にそれはないな。過去の話だしそういうことにしても差し支えはないが、まだそこまでの自惚れはできない。自分でも自分のことを好きじゃないのに誰かが俺のことを好きになるとは到底思えない。 だが俺は人のことを好きになり始めている。それが恋愛かどうかはさておき、誰かに感謝するとか、助けたいと思える気持ちが生まれ始めた。今まではそれすらおこがましいと思ってやってこなかった。人に関わる権利がそもそもないと思っていた。大人になるというより、人間になっていく感じがする。自分のことは一生嫌いで構わないが、せめて人間らしく生きたいと願っている。まあ、一歩ずつだ。 前向きになりつつある俺の思考は薄ら寒い。人や自分を好きになりたいだなんてよく言えたものだと思う。調子に乗るなと否定してやりたくなるのをなんとか堪える。吐き気を覚えながらも、これも人間の業だと割り切り、焼酎と中和していっぺんに飲み干した。
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