第六章

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第六章

 深夜二時の疲弊感は万人をほんのりと死に誘う。  肩のあたりの妙な重さとか目の霞む感じとか、ひしひしと体が時間に蝕まれていく感触が特に手強い。一人で眠れない日なんかは最悪だ。だが今日は一人で過ごしているのではなく、その疲弊を他者と分け合う深夜である。予備校の勤務後、スーツのまま俺はカラオケボックスにいた。  目の前にはエナジードリンクの缶が積み上げている。プルタブを開ければ飲めるのにわざわざストローを挿し、さらにそれを散々噛んだ跡がある。もうニ缶も飲み干しているというのに新しくプルタブを開けようとしている。俺が手元を凝視していることに気が付くと、律くんは薄く笑いながら指先に力を込めた。プシュという小気味良い音がする。その音を聞きながら、俺はさっき律くんが放った言葉の意味を何度も反芻していた。 『俺平成と心中することにしたんだよね』  手元の画面は淡々とその文言を映し出している。ここに来てからお互い一言も口を聞いておらず、その代わりにお互いのスマホを経由して会話を行なっていた。指先だけでの会話の応酬。対面している意味は、時々お互いに意味深に交わす視線にしかない。律くんがこんな言葉を放ってからは、もう顔を見たって何もわからない。 今考えなければいけないことは、律くんがどんな解答を期待しているかということだ。 『ニシナには伝えたのか』  15分くらいたっぷり時間をかけて、たったそれだけのメッセージを送る。律くんはここに来てからずっとベースをいじって作曲をしている。今日は長い髪の毛をくくって幕末志士みたいな髪型をしている。どんな髪型をしていても相変わらず絵になった。  俺の返事を見ると一瞬楽譜を打ち込む手を止めてちょいちょいとスマホをいじる。 『伝えてないよ 自殺するとは言ってあるけど いつまでにとかは特に』 平成と心中するということは、五月までに死ぬということなのだろう。今はもう三月。あとたった一ヶ月とちょっとしか律くんといられないことを聞いたら、ニシナがどんな顔をするかは容易に想像がついた。 『てか ほのかは死ぬなとかいうからめんどくてその話あんましない 自分だって死にたいっていうくせに』  俺は何も答えない。 『ほのかの死にたいは「かまって」と一緒だからなー マジの希死念慮とかわかんないんだよ多分 だからほのかには伝えない』  どこかで聞いたような言葉だ。思わず眉間に皺が寄る。 『じゃあ なんで俺に言った』 『和哉はわかってくれると思って』  出た、と思った。わかってくれるではなく肯定してくれるの間違いだろう。誰よりも落ちぶれた人生を送っているこいつなら偉そうに説教なんかせず自分の苦労をわかってくれると思っているのだ。  普段なら適当にわかったふりをしてやり過ごすが、今日はどうもそういう気分にならなかった。真剣に話を聞いて解決策を考えてくれる人がいるのに、それを面倒くさいと一蹴してしまう傲慢さが不愉快だった。  俺の考えを見透かしたのか、律くんは続ける。 『嫌な気持ちにしたいわけじゃないんだけど まあ仕方ないか』  律くんはこちらを見て軽く肩を竦めたあと、例のヘラヘラとした笑みを浮かべる。その笑い方を俺は知っている。相手への期待を一方的に取りやめ、諦めで線引きをしたという証の笑みだ。 『まあ老い先短いってことで これいる?』  そういうと徐に机の上に赤と白の謎の物体、もといTENGAを乗せる。 速攻でいらないと言おうとすると律くんはそれをひっくり返す。机の上には様々な錠剤が転がっていった。 『職質除けなんだ まあ別に中身調べられたところで全部合法だけどね、海外からわざわざ取り寄せてるのとかあるくらいで 和哉もブロンなんかちまちまキメてないで色々やってみなよ』  机の上に置かれたものを拾い上げて見てみると錠剤にカプセルに実に様々な種類の薬が混ざっていた。本人のいう通り海外製らしい英語や中国語の印刷があるシートもある。律くんは黒とオレンジの禍々しいカプセルをいくつか拾い上げてこちらに寄越した後、自分は白い錠剤をいくつか確保して包装を剥く。  俺がカプセルと睨めっこをしている間に律くんは机の上にレシートを広げ、そこに錠剤を乗せてマイクで粉砕した。別の長いレシートを器用にくるくる丸めると顔を机に近付け、片方の鼻の穴を押さえながらそのレシートで粉状になった元錠剤を吸い込んだ。邪魔くさいのか何度も首を小刻みに振って前髪を振り上げている。一頻り吸うと上を向いて体内に粉を蓄積させる。あの高い鼻なら吸い込みやすいだろうな、と思った。  律くんの儀式めいた一連の作業を眺めながら、俺は別に何も思わなかった。改めて俺は別に積極的にこういうことがやりたいわけじゃないと感じる。上手く言えないのだが、こういうのをファッションとして纏っていたいわけではないのだ。ニシナや律くんに感じていた違和感はこれだ。 「俺はもうこういうのやらないんだ。それと美学のために死にたいわけでもない。だから俺とお前は違うんだって」  ちゃんと口頭で伝えながら錠剤を投げ返すと律くんは鼻を啜りながらキョトンと目を丸くした。そして再び顔を緩めると、例の薄っぺらい笑みを浮かべてまた錠剤の包みを掴んで開けて、今度は口の中に放り込んでぼりぼりと噛み締めた。 『和哉は俺のことわかってくれないかもしれないけどさ 俺は和哉のことわかるよ』  カラオケが歌われることのないモニターでは延々とアーティストたちの新曲紹介やしょうもないインタビューが垂れ流されている。誰かの情熱も興味を持たない他者にとってはBGMと変わらない。『怖い顔になってるよ』とメッセージが来て意識が画面に引き戻される。 『和哉はさあ 俺と和哉が全然違う人間だと思ってると思うけど そんなことないと思うんだよね もしあるとしたらたった一つだけ』  そんなわけないだろ、とすぐ返信しようとして手をやめた。どうせ反論される。でもそんなわけないのだ。俺と目の前のこいつを隔絶する線引きは数え切れないほどある。その全ての原因となっているたった一つなんて、持つものか持たざるものかという違いしかないじゃないか。ひょっとしたら持つ者の側から見たらそのボーダーは低く見えるのかもしれないが。 『それは多分 やったかやらなかったかってことだけだよ』  いかにも“そういうやつ“の言いそうなことだ。無性に腹が減った。 『なんかみんな多分さ 俺のこと勝手に天才か何かだと思ってるでしょ 俺をっていうより、俺が音楽をやるように表現をすることで飯を食っている人たちのことを、ってのが正しいかな もっと言えば自分の周りにいる成功者みんなを自分とは違うと思い込んでるんだ』  何も答えない。思っているも何も本当にそうなんじゃないのか。 『違う?』  机に身を乗り出し頬杖をついて首を傾げる。俺の答えを待っているようだった。俺は頷く代わりに黙り続けた。  律くんの言っていることは真理のようでそうでないと思う。確かにやらなければ成功することはない。でもやったって成功しない人だっている。成功した人の中には、過酷な下積みを経てようやく目が出たというケースがあるのだってわかっている。その人たちの努力を評価しないわけでは決してない。  しかし、報われるまで努力して勝ち得たものが全てだろうか。途方のない夢にはいいところで見切りをつけて自分に向いているかつできることで生きていくことは決して負けではないと思う。  律くんは俺が才能のようなものを持たないがゆえに彼と自分を線引きしていると思っているようだが、俺の思う成功者は他者に愛される権利を持つ全ての人だ。だからやったかやらなかったかとかじゃなくて、周りに誰かがいてくれるか、愛されるに足るか、それだけの問題だ。でもその愛される権利がどうすれば手に入るのかが永遠にわからない。 『俺は別に律くんが妬ましくて意地悪を言っているわけじゃない』  本当にわからないから、わからないと言っているだけなんだ。 『律くんと俺は違うよ 俺は律くんみたいに魅力的な人間じゃない 成功なんかその飾りだ』  すると律くんは心底面白そうに肩を震わせる。もし声が出る状態だったなら大声で笑っていたのだろう。何が面白いのか全然わからないまま眺めていると、咽せながらLINEを返してきた。 『魅力的ってどういうこと!? 何 もしかして俺のこと好き?』 『茶化すなよ 自覚あるだろ』 『まあ確かにモテたりはするけどさ』  平然と言ってのけると今度はデンモクを弄り始める。その片手間でスマホを打ってメッセージを送ってきた。 『そういえば和哉、俺のことよく知らないもんね いいよ 教えたげる』  そう言い終わると同時にモニターが切り替わる。暗転した後に曲のタイトルが表示され、薄暗いアニメ映像が始まる。俺が音楽に詳しくないのもあるが、タイトルも作曲者も全然知らなかった。一体何が始まったんだろうと思っていると再び通知がある。 『これ俺の曲。作曲の横に書いてある“etecoo”っていうの、それ俺』  わざわざ曲を止め、モニター近くまで身を乗り出し指輪だらけの指で画面を直接叩いて俺に名前を指し示す。俺が理解したのを確認すると席に戻り足を組む。 『これなんて読むんだ?』 『エテコー。俺にぴったりでしょ 今度からそう呼んでくれてもいいよ』  律くんは時々こういう自虐めいた発言をするから驚く。普段の振る舞いでは自分の才能に対して自覚的でむしろ自信過剰な発言も多いのだが、稀にシニカルなことを言ってくるのだ。活動していくために付き纏う名前にわざわざ自虐を効かせているのをみると、もしかしたらそっちが本質なのかもしれない、などと思う。  俺は本当に音楽についてわからないが、流れている音楽はかっこいいんじゃないかと思う。表示されている歌詞はかなり暗く鬱屈としていて、それをエッジの効いたギターの音がかっさらっていく。バンドでの演奏でないからなのか電子音も多用されていて今風だ。アニメのMVも見ている限り鋭い目をした女の子がカッターを振り回して泣き叫びながら何かに抗っている。かなりざっくりいうと、ニシナとかひばりちゃんとかが好きそうな感じだ。もしかしたら牧くんとムヤも聞くかもしれない。 『これ一番新しい曲でさ カラオケに入ったのかなり最近なんだけどもうだいぶ歌われてるみたいだね 見て、デイリー3位!さすが俺』  それは素直にすごい。律くんも嬉しそうだった。デンモクに向き直るとまた操作を始める。 『というわけでこれが今の俺 バリバリボカロPやらしてもらってますv お金は普通のサラリーマンくらいかな まあ今はそこそこ上手くいってるけど 本題はここから』  再び画面が切り替わり、さっきの曲とは似ても似つかないポップな音楽がかかる。かかってる映像は実写で結構年季が入っているように見える。見ればカラフルな衣装を着た子供たちがダンスを踊っているようだった。女の子と男の子が半々くらいで顔いっぱいの笑顔を作っている。 『じゃーん。特別大公開、子供の頃の俺だよ 小学三年生くらいかな? 俺、実は小さい頃からアイドルだったんだよね パパもママも業界人でさ』  思わずへー、という声が漏れる。意外だったからとかではなく、逆にむしろ納得感が強かった。目で律くんっぽい子供を探していると律くんが画面を止めてくれる。画面に大写しになったその子供は、帽子を斜めに被っていて髪の毛は肩ほどまでの長さがあり、とんでもなく可愛かった。色素が薄いからか髪も薄い茶色で、大きな目は人形のようだ。陳腐な表現をさせて貰えば天使みたいな子供だった。やっぱり性別はわからなかったがもう大して気にならない。  律くんは画面の横に並び自身と子供を交互に指差している。『ね? 面影あるでしょ』という感じのニュアンスのようだ。今の律くんの方がそれぞれのパーツが大人びているだけで大体同じだった。天使みたいな子供は大きくなると死神みたいになるのか。席に戻った律くんは映像を再開させ、続ける。 『俺、アイドルなんか全然なりたくなかったけど、歌うのは大好きだったんだよね。 それに見て貰えばわかるけど俺がぶっちぎりで一番可愛いでしょ? だからやめたくてもやめれなかったんだ』  確かにMVでは一番目立つところに律くんがいた。犬とじゃれあったりソフトクリームを舐めているカットでも不自然に律くんの顔ばかり映る。 『俺の顔は俺のものなのになんでこんなに映されなきゃいけないんだろうって思ってたよ 顔の皮膚をカンナみたいなものでさ、ちょっとずつ薄く薄く切り取られて持ち去られてるみたいな気持ちだった』  画面の中の律くんはシャボン玉を膨らましながら楽しそうに笑っている。しかし、大人になった彼は画面を見て不快そうだった。俺の手のなかで音もなく映し出されている言葉は、しかし重くて深く響く。 『アイドル、いつまでやってたんだ』  俺はようやく返事をした。そっけないようで、なけなしの勇気を振り絞った一言だった。アイドルをやめたことに律くんの“何か“があるんじゃないかと、そんな気がした。  律くんは今、心の奥深く秘めている部分を俺に明かそうとしている。飄々とした態度を崩さないようにしているけれど律くんが過去を見ながら苦しそうにしているのはなんとなくわかる。動作や言葉の一つ一つが悲痛なのだ。俺はそういう部分を察してしまう人間で、だからこそ避けてきた。他人の苦しみを前にしても自分には何もできないと思っていた。  だけどそうじゃない。解決するしないは二の次で、相手は自分にただ聞いて欲しいのだ。人に人は変えられない。でもそもそも他人は解決したくて俺に話しているわけではない。ただ聞いて欲しいのだ。対話したいのだ。俺は今まで独り善がりすぎた。誰かを助けられるなんていうのは最初から傲慢だ。  だから今日はちゃんと、話をしようと思う。適当な相槌ではなく核心に踏み込んで。  そんな俺の決意を知ってか知らずか、律くんはちょっと笑ってから返事をしてきた。 『18の時。俺、家出したんだ』 ⭐︎  律くんは12歳になると別のグループに移された。またしても男女混合グループで、律くんはそこの最年少メンバーだった。中学生や高校生ばかりいるメンバーの中で、律くんはまた一番人気をかっさらってしまった。  一番人気になっても当の本人は別に嬉しくなかった。歌がうまくて評価されているとは思えなかったからだ。自分の顔ばかりが散々もてはやされ、肝心の自分の中身はオマケのようだと感じていた。しかも「中性」とかいう得体の知れない設定までつけられてしまった。インタビューではできるだけお淑やかな喋り方を強制され、怪我をするのもダメ。律くんはゲームやサッカーが大好きな普通の12歳の男の子だったのに。  両親は律くんが無理をしていることを知っていたが、それでもアイドルを続けさせた。むしろ普通であることを許してくれなかった。家でも本当の名前ではなく芸名で呼ばれるようになった。売れっ子の律くんは両親の誇りであるようで、やめるなんてとてもいい出せそうになかった。律くんとしても両親に褒められるのは嬉しかった。それにアイドルだって嫌なことばかりではない。ファンの人から応援されればやっぱり嬉しかったし、大好きな歌もみんなに聞いて貰えた。学校にはろくに行けず、メンバーも妬みからカメラの前以外では仲良くしてくれなかったので友達は一人もいなかったけれど、両親とファンがいるから孤独ではないと言い聞かせた。人が来ない地方のショッピングモールや小さなお祭りでも全力でパフォーマンスをした。  でもそのグループは長く続かなかった。メンバーの一人が恋愛禁止の掟を破り、業績が伸び悩んでいたこともあってそのまま解散になってしまった。そのメンバーは高校二年生の男子で、同じ事務所のモデルと付き合っていたらしい。まだ14歳の律くんにはどうしてわざわざ怒られることをするのかわからなかった。そして今度は別の事務所に引き抜かれ、新しいグループに入ることになる。  三つ目のグループは新しく作られたグループではなくて、元々活動していた人気男性アイドルグループに新メンバーとして参入することになった。二つ目のグループと比べ物にならないくらい人気だったのでさすがに不安だったという。新しいグループに律くんは快く歓迎され、すぐに新しいファンもついた。  さすがに今回は一番人気のメンバーにはならなかったが、自分より上がいる環境は快かった。もう嫉妬されて仲間外れにされず、友達もできるかも知れないと期待まで抱いた。  そこで律くんに待ち受けていたのは、一言で言えば地獄だった。  まず、前のグループとは比べものにならないくらい忙しかった。しかも一つ一つの仕事も地方巡業ではなく、民放局のラジオやテレビ出演も増えて責任感が増した。小さな役だが映画やドラマにも出るようになって、出番に対して膨大な待ち時間に辟易した。前より圧倒的に歌っている時間が減った。肝心の歌番組にはあまり出られず、バラエティやドラマ、モデルの仕事ばかりだった。律くんにとってアイドルの仕事に感じていた唯一のやりがいがなくなってしまった。  次に、ファンの声が聞こえすぎるようになった。前のグループではほとんどなかった握手会などの交流が増え、ファンと直接話せる機会が多くなった。褒められることも多くなった分、ダメ出しなんかもされるようになった。成長しているから仕方ないのに「あんまり可愛くなくなったね」などと言われる。自分の努力が伝わっていない事実に虚しさが募っていった。  メンバーも特にそんな律くんをフォローしてくれないし、むしろパフォーマンスのクオリティが一番低いのに顔だけで人気を獲得していることに不満そうだった。さらに言えば他のメンバーは高校生、大学生なのに対し律くんだけが中学生だったのでそもそも会話が合わない。カメラの前で「可愛い末っ子が来てくれて嬉しいです」などと嘯くメンバーをどうやって好きになれというのか。  両親は律くんの大躍進に満足げで、さらに高みを目指せと言うばかりで努力を労ってはくれなかった。だからもうこの環境から逃げ出せるなどと考えるのはやめた。代わりに誰よりも売れて、歌手としてのソロデビューを目指すことにした。 『和哉は知らないかもしれないけど、雑誌の表紙とか飾ってたんだよ。その時和哉何歳?』 『17歳。でもそういうの興味なかったからな』 『和哉らしいね 知らないでくれてよかったよ』  14歳の律くんが抱えていた苦悩を、俺は少しも想像できなかった。 世界は自分の思うようにはいかなくて、やりたくないことばかりうまくいく。もう律くんは流れに逆らおうという気もなくなり、やれと言われたことをただこなしていくことに決めた。  15歳で律くんは遅めの声変わりを迎えた。伸びやかなソプラノは出なくなって、どんどん声がしゃがれていく。今まで自分が歌っていたパートのほとんどが歌えなくなって1オクターブ下で歌うことになった。幸い顔はむさ苦しくならず、綺麗なまま成長できたのでグループを追われることはなかったが、今までのファンは一部いなくなって新しいファンが付くようになった。これまで応援してくれた人が握手会に来なくなるのは悲しかったが、それでも別のファンが来てくれるから寂しくはなかった。だからもうファンの名前を覚えようとするのをやめた。  そこからも律くんは頑張った。メンバーがどんどん入れ替わったけど動じず頑張った。もらえる歌のパートは減ったけど頑張った。バラエティで「実はオネエ!?」みたいなキャラでいじられても頑張った。ファンに自宅まで着けられても頑張った。高校で進級できなくても頑張った。武道館を埋めても頑張った。友達が一人もできなくても頑張った。恋をしたことがなくても頑張った。誰も信用できなくても頑張った。自分の顔を呪っても頑張った。 頑張れなくなるまで、頑張った。  そして18歳のある日、ずっと両親からのNGだったヌード撮影が解禁され、律くんは女性誌向けの初ヌードを撮ることになった。カメラマンが男だったこともあり、律くんは撮影用のシャワー室で全裸だった。全裸で謎の観葉植物に股間を隠されながらカメラを見つめていた。  カメラマンは律くんにアンニュイな表情を要求し、律くんはできるだけそれに応えた。スタジオにはカメラマンだけではなく照明など様々なスタッフがいる。こんなに大勢の人に裸をまじまじ見られるのは初めてだし、何より不快だった。それでもアンニュイな顔をしていた。途中までは。  カメラマンが勃起しているのに気付いてからは、もう何も考えられなかった。  律くんはまず爆笑した。もう何もかもどうでも良くなった。今までの自分の仕事がこいつのマラのためにあるような気がして馬鹿馬鹿しくなった。笑いすぎて泣いた。泣けてきた。これ以上この仕事ができる気がしなかった。やめてやろうと思った。でもやめたら自分には何もない。だからいっそこの場で死んでやろうと思った。友達なんざいないんだから悲しむのはファンとこいつのマラだけだ。親は自分を恥と思うだろうけど当然の仕打ちだ。  スタジオを爆笑しながら脱走するとそのまま屋上に向かった。海沿いのスタジオでとても高い建物だったから飛び降りするには申し分ない。律くんは全裸で屋上まで行って、そのまま勢いよく飛び降りた。 『でも俺、本当に天使だったみたいでさ 無傷で着地しちゃった』  律くんが着地した先には、スタント用のマットがあった。 ⭐︎ 『で、親に折檻されて、金だけ持って家出した。ずっとやりたかった歌をやることにしたんだ』  シンガーソングライターとして生きていこうと思った律くんは、顔を伏せてたくさんの事務所に音源を送り続けた。文字通り仕事を飛んだ人間に業界の風当たりが強いのを知っていたからだ。しかし結果は惨敗。せっかく作った歌を無駄にしたくなくネットにあげるもいまいち伸びず、気まぐれで人工音声に歌わせてネットに投稿したところ、三作目で大ヒット。そこからは何を投稿しても大ヒットするので、もう歌うのをやめることにした。  ずっと律くんの心の唯一の支えだった歌声は、世間にとって不要だったのだ。望んでいないことばかりが自分をあざ笑うようにうまく行く。相変わらず友達もできず一人きりで過ごす日々だったこともあり、いつの間にか律くんは声が出なくなった。 『ほのかとは本当は友達になりたかったんだ。でもほのかが付き合って欲しいっていうから付き合うことにした』  律くんはタバコを吸いながらスマホを弄っている。できるだけ声帯を傷つけないようにと酒もタバコもしないつもりだったけど、声が出ないならもうどうでもよかったという。 『付き合ってみたらさ、すっごいいい子じゃん 俺の声が出るようにっていろんなことしてくれるし』  深く俯いているのでこちらからは水色の頭の真ん中の少し黒い部分が見える。律くんも生きている。今俺の前で、ちびたタバコを眺めている。  律くんは、鬱を纏って生きたいわけなんかではなかった。俺なんかよりよっぽど足掻いて苦しんで、もうこれ以上苦しみたくないだけなのだろう。第三者からは成功しているように見えても、このまま楽曲で売れ続けることはそれまでの人生を否定し続けることなのだ。惰性で生きている俺とは違う。ただ一つ同じなのは、この世に深く絶望していることだけだ。 『でも、遅かったんだ 信じてあげることができないし、信じられない自分がいやでまた死にたくなる 俺にはほのかは眩しすぎる』  前髪を振り上げながら顔をあげて、まっすぐ俺を見つめる。 『だから ほのかのことよろしくね』  人間にできる最も複雑な笑みを浮かべた律くんは、神様のように安らかだった。 俺の返事を一切待たず、律くんはちびたタバコを灰皿にぐりぐり押し付けるとデンモクを弄ってすぐ曲を入れる。そしてマイクを持つと立ち上がった。 『ほのかのこと頼むお礼に特別に俺の声聞かせてあげるよ』  ちょっと待て、俺まだ何も返事をしてないぞ。戸惑っているうちに曲が始まる。俺もどこかで聞いたことがあるタイトルだ。もうすぐ最初のセリフがくる。 律くんは口元にマイクを近づけ、そして初めて口を開いた。 「俺んとこ 来ないか?」  例のメロディーが爆音でかかっている。やっと聴けた律くんのこえは想像通りのかっこいい声だった。口の中にもピアスがあってちょっとびっくりした。しかしどういうことなんだ?ニシナの苦労のおかげで実はもう声が出るようになっているのか? 混乱している俺をよそに律くんはノリノリで一番を歌い続ける。状況を説明してくれ。踊ってないで何か言ってくれ。しかしよく見ると声と口が微妙にずれている気がする。ひょっとして音声に合わせて口パクしているのか? 『これさ、バイトで俺がガイドボーカルした時のやつなんだよね だからこれは正真正銘俺の声 一番聞かれてる歌声は多分これだよ、悲しいことにね』  一番と二番の間奏でエナジードリンクを飲みながらようやくメッセージを送ってきてくれる。なるほど、音楽関係ではそういう仕事もあるのか。  二番も律くんはキレキレなダンスをしながらノリノリで歌い続けた。その姿が今まで見た律くんと比べてもあまりにも楽しそうで、本当に歌うことが好きだったんだと感じる。律くんはモニターに照らされて輝いている。有名な曲なのにも関わらず久しぶりに聞いたが、こうして聞いているとまるで律くんの心境を歌い上げているように感じた。律くんの作った音楽の方がよっぽどハイセンスだとは思いつつも、あの歌はこんなに楽しく歌い上げられない。  ふと律くんはダンスをやめる。きけば長めの間奏に差し掛かったところで、聞いているのが恥ずかしいようなセリフが高らかに読み上げられていた。律くんは呼吸を整えながらこちらにマイクを向けている。あれだけわからないと思っていた律くんの表情が、完全に読み取れるようになっていた。律くんは口を開いて何かこちらに伝えてきた。 「歌って」  声は出ていなくても、その時俺には彼の声がはっきり聞こえた。俺はマイクを奪い取ると、深く息を吸い込み、そして落ちサビを絶叫した。そこからはもう興奮しすぎてあまり覚えていない。ただ俺は歌った。最後のセリフまで奪い取って全部歌った。 律くんの話の全てに納得がいったわけではない。ニシナのことを頼まれたわけでもない。だけどとにかく歌った。歌わなきゃいけない気がした。  ニシナがどうしてあんなに律くんのことが好きなのかよくわかった。それは律くんがそれ以上にニシナのことを好きだからだ。誰よりも死に近いようでいて律くんはまだ子供なのだ。12歳のまま時間を止められて無邪気なままだ。そして再び動き出さずに終わろうとしている。  俺たちはそのまましこたま飲んで5時ごろようやく店をでた。律くんに肩を貸し、治りかけた足で律くんの家まで歩く。俺に凭れてうとうとしている律くんはやっぱり子供みたいな顔をしていた。  何が「お願いね」だ、生意気言いやがって。 これから律くんの家にいるニシナにする言い訳を考えながら、俺は朝焼けの中を千鳥足で進んでいった。
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