第七章

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第七章

「戸締り見たか? 夕方まで家開けるんだからな」 「ほの見たよ! そういうの結構しっかりしてるから大丈夫なのだ!」 「律くんも見たっぽいし大丈夫だな。じゃあシートベルト締めちゃってくれ」 「ちょっと〜ほののこと信用してないでしょ!」  車内はちょうど四人乗れるくらいのスペースで、俺の背に対してシートはちょっと狭い。それも仕方ない。今日は律くんの車購入記念にみんなで花見に行くことになっているからだ。律くんは歌手を目指していた時代、機材運搬などのために一応免許を取っていたのだそうだ。ただ『運転しちゃうと喋れないからつまんない』という理由で今回何故か運転は俺なのだが。  ニシナはずっとご機嫌そうだ。中古車とはいえ車体を選ばせてくれたので、自分の髪の毛と同じ赤色を選んだらしい。しかもナンバーはわざわざ「247」にしてくれたのだという。待ち合わせで律くんの家まで訪れた俺に車を見せるなり大はしゃぎしながらそれを教えてくれた。ニシナは好きな人とドライブに行くのが小さな頃から夢だったらしい。道理でムヤが何故か免許を取得しているわけだ。  二人は後部座席に座っていつものようにひっついている。ミラー越しにお前らが見える状況で運転しなきゃいけない俺の身にもなってくれ。  早く車を出せと急かされ、近くのコンビニまで車を走らせる。ここでひばりちゃんと待ち合わせているはずなのだが姿がない。よく考えてみると俺の見慣れているひばりちゃんとは制服姿であって、休日である今日その姿で現れているはずがないのだ。律くんがタバコを切らしたというので一時下車し、店内に入る前にひばりちゃんを探す。  降りるなりニシナがひばりちゃんを見つけたようで駆け出した。ニシナが猛ダッシュした先には、全体的にレースがあしらわれた服を着たアイドルみたいな女の子がいた。 「え〜待って〜ひいちゃんすっごい可愛いんだけど! 地雷系ってやつ? 最近流行ってるよね!」  誰よりも早くひばりちゃんの元に到着したニシナは袖に引っ付いてひばりちゃんの全身をじろじろ眺め回している。今日はひばりちゃんも厚底の靴を履いているから気付いたが、どうやらニシナの方がひばりちゃんより背が低いようだ。 「父には『そんな子供っぽい服をその歳で着る奴なんかいない』って言われて腹が立ちましたけど、ほのかさんにそう言ってもらえてよかったです。こないだ教えてもらったお店で買ったのでほのかさんのおかげみたいなものですよ」  今日のひばりちゃんはおさげではなく、髪を下ろして頭の上の方でちっちゃい二つ結きを作っていた。髪型や服装は確かにひとつずつ抜き取って考えれば幼いが、統一感や服の合わせ方の完成度はオシャレな女子高生のようだった。流石に生徒相手に興奮はしないとはいえ、ミニのスカートから覗く生足にはびっくりしてしまう。普段から長袖ばかり着ているしこんな大胆な丈をチョイスするとは思わなかった。 「髪の毛のセットも決まってるしお化粧も上手にできてるよ! ほの的に120点です、はなまる!」  そう言って抱きつくニシナをよそに、ひばりちゃんの視線はずっと律くんに注がれていた。なるほど、このよそ行きの服装や髪型は律くんに見られると考慮した上での選択なのか。  その視線に気付かないのか律くんはずっとスマホを弄っている。期待を込めた眼差しを止め、ひばりちゃんはにわかにしょんぼりと肩を落としてしまった。この場合律くんのこといきなりぶん殴ってもいいのかな。それとも俺がちゃんと似合ってるよとかフォローを入れた方がいいんだろうか。いや、逆の立場で考えてみろ。いきなり別になんとも思ってない塾の先生に服装のこと触れられたら不快というか最悪ホラーだろ。というわけでぎりぎりセクハラじゃないラインのフォローを模索するしかない。 「ひばりちゃん、そのー、なんというか、いつもと印象違うね」  しどろもどろになってしまった口調が怪しさを倍増しているがもう口から出てしまったものは仕方ない。ひばりちゃんは俺に気がつくと答える。 「和哉さんもスーツの時と違う。アウトドア好きそう」 「俺のことはどうでもいいんだけどさ……」 「印象違うって、どっちに? いい意味?それとも」  素っ気ない質問のようでいて、ひばりちゃんの瞳は少し不安そうに揺れる。俺は慌てて続けた。 「いい意味だよ、もちろん」  するとひばりちゃんは花が開くように柔らかに頬を緩ませた。これは俺に向けられるものであってはいけなかったのに。 「ありがとうございます。和哉さんもいつもよりマシかも」  今度は例のシニカルな笑みを向けられ、気付けば間抜けな顔で突っ立っている俺だけが場に取り残されていた。コンビニから戻ってきたニシナたちに声をかけられ、また運転席に戻る。  結局助手席にはひばりちゃんが座ることになり、相変わらずニシナと律くんは後部座席でイチャイチャしている。自分の買い物を忘れたと思っていたら後ろから手が伸びてきて飲み物が手渡される。 「はいいっくん、これあげるー」  手渡されたのは小さめのエナジードリンクだった。運転するからという理由でのチョイスだろう。ただ俺はブロンの乱用歴が長かったのでカフェインが切れた時と人より発汗や震えがあるから正直避けたい。だがそんな自身の都合で相手の厚意を無碍にはできないので礼を述べながらとりあえず受け取り、ひとくち飲んだ。舌先が僅かに痺れる感覚。爽やかな甘味料が誤魔化しているがカフェインは一歩間違えたら劇薬だ。  やっぱりカフェインに対して臆病になったので舌先を浸す程度しか舐めないでドリンクホルダーに缶を差し込む。隣ではひばりちゃんがルームミラーで前髪を確認している。こちらの視線に気がつくと少しムッとした。違う。決して盗み見していたつもりではない。気まずさを誤魔化すように、俺は慌ててエンジンをかける。  目的地には車で一時間くらいだ。休日だし今日はよく晴れているので多少道が混むだろう。車内ではずっと律くんの作った曲が流れていて、ニシナは時々口ずさみながら聞き惚れていた。これから花見だというのに本当に暗い歌詞だ。露骨に鬱や自傷を賛美しているわけではないが、魅力的な響きを与えているのは事実だろう。中高生をこういう歌で熱狂させているとなると、まるでハーメルンの笛吹き男みたいだと感じる。多感な少年少女らを鬱屈に導き包み込んでしまう。笛吹きのマスクがこれなら尚更だ。当の律くんは相変わらずスマートフォンの画面を眺めている。  一応教育者になりたかった身から言わせて貰えば、彼らが自分で選びとっているとはいえ若い彼らを暗い方に導くのはいただけない。自分が中学生の時は教えてもらえないことを知りたいという気持ちが強かったからこういう歌に惹かれるのもわかる。しかし、自分を傷つけてしまう彼らに必要なのは、傷に酔わせる詩情より痛みを引き受ける覚悟なのではないだろうか。彼らの痛みは彼らしか知らないが、その細い腕を傷つける代わりに自分を滅多刺しにしてもいいというような、そんな覚悟が。少なくとも俺はもう、痛いのも苦しいのも散々だ。 「そういえばいっくんこないだ律くんとカラオケ行ったんでしょ? ずるーい、ほのも行きたかった」  ふとニシナが後部座席から身を乗り出してくる。あの日結局俺はどうやって家に帰ったのかまるで覚えていないが、記憶を飛ばしている間に花見に行く約束が取り付けられていたことだけはわかる。ひばりちゃんもそうなの?とつぶやいてこちらを見ている。 「ああ、うん。行ったね」  どう答えたらいいかわからず適当な返事を返す。ミラー越しに律くんがこちらを見ているのを感じた。きっとあの時話したことは口外するなよという意味なのだろう。大方話せる内容を頭の中で分類してから続ける。 「二人ともすげー酔っ払ったからあんま記憶ないんだよ」 「え、そうなの? ほののことなんて言ってたか聞きたかったのに」 「何か聞いてたとしても本人いる前では言わないだろ」 「それもそっかー。じゃあ律くんがなんで水色の頭かとかも聞いてない?」  聞いていない。それ以上に、興味がない。しかしひばりちゃんは食いついた。 「どうしてなんですか? ニシナさんの采配ですか?」 「サイハイって何ー? よくわかんないけどほのが言ったからではないよ。律くんがこの色って決めたんだもんねー」 律くんは縦に首を振る。何かを打ち込んでニシナに見せているようだった。 「あ、律くんヒントくれたよ! 『とある好きなアニメキャラと同じにしたかったから』だって! さてそのキャラとは誰でしょう!」  いつの間にかクイズが始まってしまった。ひばりちゃんも俺の授業より真剣に考えている様子だ。興味もないしアニメもわからないから運転に差し障りのない程度に考えよう。 「やっぱり律さんボカロPだし、初音ミクですか?」  最初に解答したのはひばりちゃんだった。「ぶぶー! でもいい読みだね! お部屋の棚一段ミクちゃんのフィギュアで埋まってるもんね」 「じゃあ異世界転生の双子の」 「ぶぶー! それも律くん好きだけどね! 前部屋からその子のエロ本出てきて大喧嘩したよねー」 余計なことを言ったのでニシナは律くんに小突かれケラケラ笑っている。無駄に生活感のある小ネタを聞いてひばりちゃんはほんのりと頬を赤らめる。乙女の前では性癖の暴露すら甘酸っぱい1ページだ。 「律くんが『世代的に和哉のほうがわかるかも』だって。ほら、いっくん頑張れ! 先生の意地を見せてみろー」 生憎アニメは専門外だが、ちょっと面白くなってきたので答えることにした。 「容赦なく当てに行かせてもらう。綾波レイだろ」 髪色のトーンも律くんの趣味もそんな感じだろう。あの儚い感じの美形は律くんにそっくりだ。楽曲の作風からして傷付いた少女とかも好きそうだ。悪いが大人なのでガチで当てに行かせてもらう。 「え? 違うけど。というか律くんあのアニメ見たことないよね?」 ニシナはあっけらかんと言ってのける。これはかなり恥ずかしい。俺は缶を引っつかむと一気に飲み干した。 「アニメオタクなら見ておけよ。あんなの絶対好きでしょ、俺も見た事ないけど」 「律くんが『今度一緒に見よう』だって! ほのもみたい! ひぃちゃんも来る?」 「見たいです。私、ちょっと詳しいし解説しますよ。カヲルくんが好きで全部見てるんです」 「それ律くんよりかっこいい〜?」 ひばりちゃんはまた耳まで赤くなる。そのキャラについては断片的な知識しかないけど律くんにかなり近いと思う。 結局、答えはドラゴンボールのブルマだった。誰がわかるかそんなもん。律くんの初恋はブルマだったらしく、そこからドラゴンボールはずっと欠かさず見ていると言う。やっぱりなんだかんだ言って少年だったんだなあと言うことを痛感し、胸の当たりに変な感覚が過った。  ⭐︎  予想とは裏腹に特に渋滞することもなくあっさり公園に到着する。赤信号にあまり捕まることもなかったし、とことんついてる日ということだろうか。  桜は見事に咲いていた。公園をぶった斬る大きな通りに桜並木があって、みんなそこで思い思いに花見を楽しんでいる。花を愛でる趣味はそこまでないけれど、ピンクの花びらが舞い散る様は可憐だと思った。ニシナとひばりちゃんは大はしゃぎして写真を撮っている。俺は両手が弁当と遊び道具で塞がっているから写真を撮れなかったが、後でちょっと撮ろうかなと思うくらいに満開の桜は綺麗だった。律くんも珍しく顔をあげて桜の木を眺めている。いや、桜の木ではなく、はしゃぐ二人を眺めているようだった。それに気付いた俺はさっさと彼らに背をむけ、花見の場所取りに専念した。   「じゃーん。ほの特製、お花見弁当です! ちゃんと味わって食べるように!」  無骨なブルーシートの上に広げられたのは三段重だった。ニシナが意気揚々とお重を開けると、唐揚げやポテトサラダ、おにぎり、小さめのハンバーグなど凝ったおかずが次々現れる。ニシナのことだから冷食でも詰めてきたのだろうと思っていたが、唐揚げの衣やちょっと崩れたおにぎりを見るに全部手作りだ。この量を一人で作ったのであれば相当時間がかかるだろう。 「これ、全部作ったの」 「うん。というか律くんが食べるものは大体全部ほのが作ってるよ」 「初耳なんだけど」 「だって律くんほっとくと飲むゼリーしか飲まないんだもん。だから作り置きとかしてちゃんと三食栄養のあるものを食べてもらってます。どう、ほのお嫁さんっぽくない?」  そう言ってのけると得意げに胸を張るニシナ。将来の夢である『お嫁さん』に対して忠実な努力をしていることはよくわかった。じゃあさっさと結婚しろ。そんで幸せになれ。俺は今の今までお前が日常的に料理をしていることなんか知らなかった。  ひばりちゃんはきちんと手を合わせて「いただきます」をした後、唐揚げを食べようとして、直前で手首をスナップさせてその手前のきんぴらごぼうのアルミカップを手に取った。口に運ぶと慎まやかな声で「美味しい」とつぶやく。ニシナはそれを聞きつけて嬉しそうにひばりちゃんに抱きついていた。律くんはいつの間にかハンバーグを頬張っていてニシナに対して親指を立てている。『うまい』といったところだろう。ニシナはそのサインを受け取ると奇声を上げながらひばりちゃんごと律くんに抱きついた。せっかく敷いたシートはぐちゃぐちゃになるわ三人とも髪の毛がボサボサだわひばりちゃんはゆでだこみたいになってるわでもう散々だ。  今すぐこの場を立ち去りたい気持ちでいっぱいだったが、とりあえず出された飯は食うことにする。「イタキャス」みたいな変な音声をもごもご発してから食った弁当は、どれを食っても意味わからんくらいうまかった。 「あ、いっくん焼きそば食べた?」  三人でじゃれまくってもみくちゃになりながらニシナがこちらを振り返る。そういえばまだ食ってない。 「まだだけど」 「食べて食べて! いっくんが焼きそば好きだから作ったんだよ。まあソースだから味変わんないかもしれないけど、ほのの手作りな分美味しいよ」  そういうとおにぎりの隣から焼きそばのアルミカップを一つ取って俺に手渡そうとしてくる。  もし今俺がこの手を払い除けたらこいつはどんな顔をするんだろうか。もしくは「別に好きで食ってたわけじゃないから」と言って断るのでもいい。こいつは悲しむだろうか。ひどいと言って泣くだろうか。いや、そんなわけがないのだ。多分素っ気なくあしらわれて、俺はニシナの焼きそばを食いそびれるだけで終わりだ。  どっちにしろ、今の俺にはそのどちらもできない。ありがとうと礼を述べながら小さなカップを受け取って、背中を丸めてちびちび食ってうまいよというしかない。その筋書きと寸分違わない動作をして、ニシナの満足そうな顔を見届けた後、俺は一言「タバコ」とだけ言って席を立った。  久しぶりに吸ったタバコはクソ不味かった。というか臭すぎる。一週間吸ってないだけでよくもまあこんな不快なものに成り果てるな。誰だよタール14mgとか買ってる大バカは。  自分の吐き出す煙にムカついていたら塾の喫煙所で嗅ぎ慣れた赤マルの匂いが近付いてくる。普段なら何も思わないけど明らかに肺を通してないであろう鮮烈なタール臭が今日は無理だった。あと風下に向かって煙を吐き出すな。大学生みたいな吸い方してんじゃねえよ。  我慢ならずそちらを一瞥したら本当に大学生、もとい牧くんだった。蒸気機関車みたいに口から真っ白な煙を吐き出しながら「あっ和哉さーん!」といって手を振っている。職場が近いとこうやって活動圏内まで被るからちょっと困る。 「和哉さん私服オシャレっすね! てか写真撮っていいすか? あっインスタにあげていい?」 「全部ダメだよ。牧くんは何? デート?」 「あっはいそうっす! こないだ和哉さんがお花見にこの公園行くって言ってたの聞いて調べたら俺も彼女と行きたくなっちゃった的な? あ、お弁当作ってくれたんすよ、見ます?」  誰も見るとは言っていないのに勝手に写真をスライドさせてお弁当やら桜を一眼レフで撮る彼女やらの写真を見せてくる。「彼女」というときのイントネーションが「長野」ではなく「我孫子」と同じなのが鼻についた。牧くんが大絶賛しているお弁当はサンドイッチで、工程は簡単そうだがオシャレな紙のパックに入れられていて写真映えした。二人は揃いのテディベアみたいな上着を着ていて、カップルコーデなるものに挑戦しているらしい。どの写真に映る二人とも写真映えを気にして妙にスカしている。似たもの同士でお似合いだが、お前らは人に見せるために付き合ってんのかよ、と吐き捨てたくもある。だがおっさんの遠吠えはどうでもいい。若い二人が幸せなら結構だ。 「へー幸せそうじゃんやったね」  心底興味がないのが丸出しのテンションではあったがなんとか相槌を打つ。牧くんは例の如く目を細めて前髪をクルクル巻いて大喜びしている。 「てかあの、和哉さんは誰ときたんすか? ひょっとしてあまねちゃんとか!?」  爆音で語尾を強調すると頬に手を当てておどけてこちらを見ている。今日は塾が休みだから論理的に間違っちゃいないとはいえこいつはなんで俺と葉山さんをそんなにくっつけたがるんだ。恋バナが好きなのはわかるが正直辟易している。なんと言っても葉山さんに悪い。 「あのさ牧くん、何度も言ってるけど、ないから」 「マジ? そうなんすか? あまねちゃんはありよりのありだって言ってたのに?」 「そのありは『地球上で俺しか男性がいない』場合のありかもしれないだろ」 「ウケる、そんなわけなくないすか?」  なんの根拠があってそんなわけねーんだよ。人の好意がそんなに単純だったらこっちも苦労してない。誰を好きとか嫌いとか今本当に考えたくない。自分が何かに期待していることに気付きたくない。伝わりやすいよう、彼の口調を模倣して言った。 「いいから早くの元に戻りな。なあ、今日超イケメンの元人気男性アイドルも来てるらしいからな。寝取られてるかもしれないよ、」  わけのわからない脅迫で牧くんを震え上がらせながら三分の一しか吸ってないタバコの火を消して喫煙所を去る。いよいよ居場所がなくなってしまった。俺は仕方なくニシナたちのところに戻ることにした。 ⭐︎  シートに戻るとニシナが一人だけでちょこんと座っていた。律くんとひばりちゃんは遠くでバドミントンをしている。スカートの裾を気にしながらシャトルを追うひばりちゃんは心底幸せそうだった。  ニシナは俺に気が付くと自分の隣をぽんぽんと叩く。ここに座れということだろう。抵抗する気も起きず素直にそこに腰掛けるとこちらに笑いかけてきた。そして俺に手を伸ばしてくる。そのまま髪に手を伸ばしてきた、のだが。 「悪い、なんかついてるか?」  俺は頭を振ってついているであろう何かしらを振り落とす。するとひらひらと一輪の桜が舞い落ちる。間抜けにも頭に桜を乗っけて帰ってきたらしい。  ニシナは俺が自分で桜を振り落としたことに驚いていたが、しばらくすると花を拾い上げて自分の頭につけてみせる。 「うん、ほのの方が似合うね。いっくんは似合わなすぎて逆に可愛かったけど」 「当たり前じゃん。それそのまま付けてたら。律くんがなんか言ってくれるかもよ」  ニシナがもじもじと髪を耳にかけているのを見て俺は考える。今自分で頭を振らなければニシナは間違いなく俺の髪に触れただろう。だが俺はそれを拒んだ。そうでない選択肢も選べたが、きちんとニシナに触れないことを選べた。ここで拒まないのは卑怯だ。これでいい。何も間違ってない。  俺たちはしばらくぼーっと並んで律くんとひばりちゃんのバトミントンを眺めていた。春の陽気がのどかだ。あの二人が帰ってくるまで何も喋りたくなかった。余計なことを言わないで済むし、考えなくて済む。だが虚しく均衡は破られた。 「いっくんさ、ありがとうね」  放たれたのは予想だにしない言葉だった。突拍子もなくてなんか不吉だ。黙っていられなくなってしまい思わず口を開く。 「何、急に」  ニシナはかしこまって正座までしていている。やめてくれ。そういうのキャラじゃないだろ。 「いっくんが律くんの話、ちゃんと聞いてくれたから。律くんと仲良くして欲しいなんてほののわがままだったのに、それ、叶えてもらっちゃってさ」  上目で俺を覗き込みながらぷつぷつと言葉を紡ぐ。ショートパンツの裾を握り締める手には力が篭っていた。 「なんだ、そのことか。別に俺が好きでしたことなんだからお礼なんかいいよ。それで律くんがどうこうなったわけでもないし」 「ううん。変わったんだよ、律くん」  ニシナは強い口調で言い放つ。見ればその大きな目にはいっぱいに涙が溜まっていた。俺は息を呑む。あの時律くんのことを救えていたはずはない。まさか悪い影響があったんじゃないだろうな。 「律くんね、ずっとほのの夢だったドライブにも連れてってくれたの。今まではほのがご飯作っても全部は食べられなかったのに、この間初めて完食してくれた。いっくんにはわからないかもしれないけど、これってすっごい変化なんだよ。ほのがずっとずっと頑張っても元気にしてあげられなかったのに、いっくんのおかげ、で、」  そこから言葉が続くことはなかった。ニシナの目からは大粒の涙が流れている。だが、いつものような晴れやかな笑顔ではなく、苦しみから救われた後の穏やかな笑顔だった。ニシナは嗚咽交じりで続ける。 「それに、未来の話もね、してくれたんだよ。今まで、ほのがどっか遊びに行きたいって言っても、生きてるかわからないしって、取り合ってくれなかったのに。次の元号、なんだろうねって。そうなってもよろしくねって。やっとほのと生きてくれるって決めてくれたのかなって、思って、」  俺はニシナが料理を作れることを知らなかった。そして、こんな風に深い悲しみの中で生きていることも知らなかった。ニシナが言うことをまともに取り合わなかったのは律くんだけじゃない。俺も同じだ。自分だけが本当の絶望を知っているとでも思っているような態度でニシナに接してきていた。真剣すぎない物言いをして自分の悩みに相手を巻き込まないようにしていただけで、ニシナだって苦しんでいるのだ。  自分の思いが届かない苦しみなんて、痛いほどよくわかる。だが俺にはこの涙を拭ってやる資格はない。抱きしめてやりたいなど思っていいはずがない。 「俺じゃない。ニシナが頑張ったからだよ」  顔を向けることははせず、しかしきちんと伝わるように、一文字ずつ大切に読み上げた。ニシナが鼻を啜っているのがわかる。涙を止めようと必死なようだ。別に大声をあげて泣いてくれたって構わないのに。俺がいるのが邪魔ならどこへだって消えていい。 「ありがとう、いっくん。ほのね、今とっても幸せだよ。」  ニシナはもう泣いていなかった。その代わりにいつも見たいな元気な笑顔をこちらに向けている。見慣れた表情のはずなのに、何故か俺が泣きたい気分になった。 「そうか。幸せなのはいいことだ」  間抜けな言葉を絞り出すと、ニシナはもう一度大きく笑う。何がどうしてかはわからないが律くんの気が変わってよかった。ふと、ニシナは何か思い出したらしくばつの悪そうな顔をした。 「あ、でもほのがこのまま律くんと生きてお嫁さんになったら、いっくんと一緒に死ねなくなっちゃう。ごめんいっくん、約束守れないや」  やめろよ。冗談で言ってるのなんか知ってるよ。謝られたら本気みたいになっちゃうだろ。 「お前が勝手に言ってるだけだよ。本気にしてるみたいにすんなよ、俺別に死ぬとは言ってないし」 「あれ、そうだっけ?」 「そうだよ。300歳まで生きるよ」 「そっかー! その歳までブロンって売ってるのかな?」  さっきまで泣いていたのが嘘みたいにニシナは楽しそうに笑っている。無理矢理笑い話にしようとするのは律くんと同じだ。見ていて心が痛いのはこっちだが、若い二人が幸せならそれでいい。おっさんの遠吠えは、どうでもいいのだ。 「いっくんも早く幸せになれるといいね」  他人事のように言ってのけるニシナに文句の一つも言ってやりたいのをなんとか堪える。それに、俺の人生史の中では結構幸せな方だ。「ありがとう」なんて言われたことは数えるくらいしかない。さっきの言葉で俺は報われた。だから大丈夫だ。 「人の人生を勝手に不幸みたいにいうなよな」  俺は出来るだけ大きく笑ってみせる。それがニシナにどう映っているかはわからなかったが、きっと笑えていたと思う。    程なくしてバドミントンに行っていた二人が帰ってきて、今度は四人でシャボン玉をして遊んだ。幼稚園ぶりくらいにやったしその場にいる誰より似合わなかったから恥ずかしかったけど、太陽を反射しながらきらきら光るシャボン玉は改めて見ても綺麗だった。律くんは躍起になってシャボン玉を追いかけてその華奢な指で弾けさせて回っている。最後には俺以外の全員が弾けさせる側に回って、一番似合わないやつが一人でシャボン玉を作り続けるハメになった。後先を考えないではしゃいでいた三人の服は液だらけになったが、そのことすらおもしろそうに笑っていた。  帰りの車内では、ニシナがさっきの年号の話を引っ張り出して「次は何になるか」という予想をすることになった。当のニシナは絶対に「律」の一文字が入ってほしいと主張し、ひばりちゃんはそれに乗っかって律のつく元号っぽい単語をたくさん作っていた。ちなみに律くんが提案した新元号は全部下ネタだった。別に元号なんかどうでもいいけどこれで本当に律が入ったら面白いのにな。  俺はこの幸せな春の日を決して忘れることはないだろう。もっとも、それは俺が生きていたらの話だが。  そして今、新元号まで後一ヶ月を切った。
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