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第八章
その日はやってきてしまった。
けたたましい着信音が鳴り響いている。
やっと眠りにつけた俺は、夢の中でそれを終末のラッパだと思い込んで狂乱し、叫びながら坂道を転がり落ちていた。まあ、そんなことはどうでもよくて。
着信音の主はひばりちゃんだった。今は朝二時だ。あの良識のあるひばりちゃんがこんな時間に電話を寄越してくるなんてよほど緊急に違いない。起きがけの脳でそんなことを考えながらのそのそと電話を取る。
「うい、おはよ」
『おはようじゃないですよ! こんな大変なことになってるのに寝てたの!?』
耳をつんざく金切声。思わずスマホを耳から離した。
「大変なことって?」
『ああ、あなたSNSやってないんでしたっけ。本当にこういうとき頼りになりませんね。スクショ送りますから3秒で状況を把握してください。』
やたら毒のある語気で俺を責め立ててくる。どうやらただごとではないようだ。ようやく脳みそが動きだした。
ひばりちゃんから送られてきた画像はTwitterのスクリーンショットだった。誰かのプロフィール画面を表示しているようで、最新のツイートでは「んじゃ異世界転生してくる^^ノシ」とある。
すぐには意味がわからなかったが、転生、ということは一度死ぬということだろう。つまりこいつは自殺を示唆しているということになる。
さらに日付け。今日は四月一日、エイプリルフールだ。嘘か本当か分からない、冗談めかした物言いで他人の詮索を避ける。このやり口に俺は覚えがあった。
最後にユーザー名を確認する。ビンゴだ。
これはetecooのTwitterアカウントだ。つまり、ここで自殺を仄めかしているのは律くんということになる。
『どうですか、わかったでしょ、状況』
ひばりちゃんが呼吸を荒らげているのが電話越しでもわかる。後ろからは広田さん、つまりひばりちゃんのお父さんの怒鳴り声がしている。相変わらず野太い声だ。
「わかった。でもこれ本当?」
『本当だよ、ネットもみんな嘘だと思ってるけど本当だって、私にはわかるの! 律さんもほのかさんもみんな電話に出ないもん、既読だってつかないんだよ!?』
「ニシナも?」
しまった、と思うより先に言葉が出る。
『そう。ほのかさんも。』
「あいつも死にたがってたのか」
『ほのかさん、前にLINEで、「律さんには生きろと言われるけど本当は一緒に死にたい」って言ってた。でも律さんの言うことは守りたいから、もし律さんを止められなかったら別の人と死ぬって。ひょっとしたら律さんの気が変わって、一緒に死ぬことになったのかもしれない』
俺と死にたいというのはそういうことだったのか。ただ、今はこれにとやかく言っている場合ではない。
このままではニシナが死んでしまうかもしれない。それが一番の問題だ。
「わかった。そしたらすぐ車で律くんたちの家に行くよ。」
すると電話の向こうのひばりちゃんは安心したように息を吐き出した。
『よかった、和哉さんならそう言ってくれると思ってた。そしたらこの間のコンビニまで行くので私のことも連れて行ってください』
どうやらひばりちゃんは現場まで行くつもりらしい。俺は返事に詰まる。律くんたちがどんな手法をとっているにしろ、ショッキングな現場であることには変わらないであろう。全て真っ赤な大嘘で無駄足を踏むならいい。しかし、かつての律くんの言葉が脳裏でリフレインする。
『俺平成と心中することにしたんだよね』
きっとこれはただのジョークではない。
電話口からひばりちゃんの小さな悲鳴が聞こえる。お父さんが掴みかかってきて、ひばりちゃんはそれに抵抗しているのだ。なんて乱暴なことを、と思ったがその印象は次の瞬間に覆る。
広田さんはあの威圧的な声ではなく、消え入りそうな声で「頼む、行かないでくれ、ひばり」と繰り返していた。
「和哉さん助けて、お父さんが話を聞いてくれないの、これじゃ行けない……ねえ、やめて、ってば!」
ひばりちゃんは無理やり父親の手を振りほどく。床に鈍い音が響いた。叩きつけられた父親は情けない声でただ「行くな、ひばりぃ」と呻いている。
ひばりちゃんが再び何かを主張しているのが聞こえる。だが俺はそれよりも、あの広田さんの弱々しい呻きだけがいやに耳にこびりついた。
自殺現場なんて、無惨な死体を目の当たりにしてしまうだけで済むならまだいい方なのだ。もし樹海なんかに踏み込むことになって、遭難してしまったら。断崖絶壁で足を踏み外してしまったら。ショックのあまり錯乱して突拍子のない行動に出てしまったら。
自分の大切な娘がそんな危険のある所に行くなんて、とても耐えられないだろう。
「和哉さんからもお父さんになにか言って! どうにかして納得させてください!」
電話の向こうではまだ揉み合いが続いている。広田さんはすでに呻くことさえやめ、すすり泣いているようだった。
回らない頭をフル回転させて考える。何が一番正しいか、そして、ひばりちゃんのためになるのか。彼女を肯定し続けることが果たして正解なのか。
俺は拳を握りしめる。
電話のこちら側から、ひばりちゃんに向けきっぱりと言い放った。
「ダメだ。ひばりちゃん、お父さんの言うことを聞きなさい」
束の間の静寂。広田さんが鼻をすする音と情けない嗚咽だけが聞こえる。
そのまま電話を切ろうとして、最後に一言だけひばりちゃんの言葉が聞こえた。
『やっぱり大人は最低。信じてたのに』
怒りを押し殺し震えた、泣きそうな声だった。
俺は電話を切る。
きっと、ひばりちゃんは家で待っていてくれるだろう。それで彼女は人の命が絶たれているかもしれないような危ない場所に行かなくて済む。
講師として、大人として、子供は守らないといけない。仮に恨まれようが嫌われようがその子にとっての最善を選ぶべきだ。それは俺も広田さんも同じ。憎まれ役も大人の仕事のひとつなのだ。
「大丈夫、大丈夫だぞ」
自らを奮い立たせるために一人呟くと、俺は寝巻きのジャージのまま外に飛びだした。四月とはいえまだ寒いが、耐えられないほどではない。今はとにかく急ぐときだ。
そのまま駐車場まで向かい車に乗り込む。スマホに免許が挟んであることを確認すると、律くんたちの家まで飛ばす。酔っ払ったサラリーマンがぞろぞろと列をなして歩いているのにもついイライラしてハンドルを何度も指で弾く。わかっている。どうしようもなく気が立っているのだ。どうして急いでいる時というのは赤信号や歩行者が進路をこうも阻んでくるのか。
なんとかクラクションを叩きつけることはせずに律くんのマンションまで到着する。駐車場まで行く手間も惜しまれたので迷惑上等とばかりに堂々と路駐した。ふと、人の気配に気付く。俺はその場で大声で叫んだ。
「ムヤ! いるんだろ!? 出てこい!」
あのストーカーが今回の事態を見逃しているはずがない。律くんのTwitterくらい簡単に特定しているはずだ。俺の読みが正しければなんとかしたい気持ちに駆られつつも何をしたらいいか分からず建物近辺で右往左往しているだろう。反対に、もしあいつがいないのであれば律くんたちは既にここにいないということになる。
すると駐車場の方から慌ただしい足音が近付いてきた。
「た、大変です、くく車が、車が無いです」
ムヤは叫びながらこちらに向かってきた。すっかり血相を変えてひどく狼狽している。当たり前だ。自分の好きな人が今この瞬間に死んでいるかもしれないのだから。
「車がないってことは二人とももうここにはいないってことか?」
「いや、そうとは言いきれないんです。見てください、部屋に電気が着いています。さっき来たばかりだから何もわからないですが、律さんはともかくほのちゃんはまだ中にいるかも」
ムヤの目は必死だった。ニシナが無事である、という方に賭けたいのだろう。それは俺だって同じ気持ちだ。本来なら家にいる可能性をすっ飛ばして車を追うのが先決だろう。だが車を追う選択肢を取ろうにも、行き先が少しも分からない。
「ムヤ、怒らないから答えろ。お前、ピッキングは出来るか?」
少し間が空いたあと、ムヤは恐る恐る頷いた。俺はろくに合図もせずニシナたちの住む部屋まで向かう。俺の意図をくみ取ったらしいムヤも黙って着いてきた。
部屋の前まで辿り着くと中から叫び声のような泣き声が聞こえる。ニシナの声だ。
良かった。生きている。ムヤは俺の真横でへなへなと座り込んだ。気持ちはわかるが、まだ律くんの安否がわからない。安堵している場合ではないのだ。
「まだ終わってないぞ」
俺は恐る恐るインターホンを押す。確実に気が動転しているであろうニシナが出る見込みは薄いが、ピッキングするより中から開けてもらう方が早いに決まっている。ムヤもよろよろと立ち上がった。
するとすぐにドタドタと足音が近付き、扉が開かれた。
「律くん!?」
ニシナは下着にパーカーだけを羽織った恰好で飛び出してきた。涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃで、別人のように真っ青な顔色をしている。
「すまん、律くんじゃないんだ。お前、大丈夫か。何があった」
俺の顔を見るとニシナは酷く落胆して再び捻り出すような泣き声を上げた。聞いているこちらの胸が痛む、悲痛な叫び。ムヤは苦しげな顔をしている。俺だってもちろん苦しい。
「泣きたいのはわかる。それに泣いていい。ただ、状況を教えてくれないと動きようがないんだ。大丈夫、必ず律くんを見つけるから、だから教えてくれ」
ニシナを宥めようと背中をさすろうとして、やめた。その代わりに肩を掴み、真っ直ぐ目を合わせる。
「しっかりしろ! 間に合うもんも間に合わねえぞ!」
ニシナは叱られた子供みたいな顔をして泣き止んだ。そしてようやく嗚咽混じりに話し始める。
「わかんないの。起きたらいなかったの。だから、ほのも、なんにもわかんないの……」
再び泣き出そうとするニシナを制すために間髪入れずに質問を投げかける。
「最近おかしい挙動とかはなかったのか? それから、書き置きとかは? 今連絡は取れないのか?」
動転している相手に対し、こんなに一度に質問するのは酷だろう。ムヤは俺に対して何か言いたげだ。うるさい、わかってる。俺も慌ててるんだ。
ニシナはしゃくりあげながらパーカーのポケットから何かを取り出し俺に押し付ける。見ればぐちゃぐちゃになったレシートだった。裏になにか書いてあるのが見えたので急いで広げる。
『帆架へ 今までありがとう 愛してる 律』
走り書きの乱雑な字で飾り気も何もないが、それは紛うことない遺書だった。『愛してる』の部分が水滴で滲んでいる。ニシナの涙のせいなのか、それとも律くんの涙なのだろうか。
「いつもほのが先に寝るんだけど、昨日は律くんが疲れたから、まだ早いけど一緒に寝ようって、言ってくれたの。おうちにあったリキュールでモクテル作ってくれて、すっごい美味しくて、ほのすっごくうれしくて、そのまま“仲良し“して、眠くなったから一緒に寝たの。だからほのが怒らせちゃったとかじゃないと思うの」
ぼろぼろ大粒の涙を流しながらニシナはゆっくり話し始める。
「律くんがほののスマホどっかやっちゃったから誰とも連絡取れてない。警察にも電話できないし。行った場所の心当たりなんかないよ。なんで律くんが出ていく音に気付かなかったんだろう? そしたらこんなことにならなかったのに……。」
ここまで言い終えるとニシナはしゃがみ込んで泣き出してしまった。よく頑張って質問に答えてくれたと思う。ただ、手がかりがひとつもないことには変わりがない。警察に通報して見つけてもらうしかないのか? 場所もわからないのに、どうやって?
「あ、あの、ぼ僕、わかるかもしれません、律さんの居場所」
突然ムヤが口を開く。ニシナはすぐさま顔を上げた。
「どこ、律くんどこにいるの」
ニシナは立ち上がってムヤに詰め寄る。多分ニシナはムヤのことを誰だかわかっていないしなんでここにいるかなども知らないと思うが、もうそんなことはどうでもいいのだろう。
するとムヤはいきなりしゃがみ込み、土下座した。
「ま、まずはごめんなさい! 僕、ほのちゃ……ニシナさんのスマホに、GPSアプリ仕込んでます! ずっとそれでストーカーしてました!」
今まで聞いたこともないような大声でムヤは謝罪している。ニシナも短く悲鳴をあげる。キモさのあまり一時的に涙が引っ込んだようだ。
「で、でも! もしまだスマホの電源が切られてなくて、かつどこかに捨てられたりしていなければ、律さんの場所がわかります! さっき見た時はまだそこまで遠くまで行っていませんでした。今見てみますから、取り敢えず僕を通報するのは後にしてください」
そう言い終わると正座のままムヤは自分のスマホを開く。俺とニシナも画面を覗き込んだ。マップの上をハートのアイコンが進んでいく。動いている、ということは律くんの車が進んでいるということであり、さらに言えば、律くんが生きているということだ。一般道をノロノロとただ郊外の方に向かっている。居場所はわかったが、いったい何処に向かっているのかわからない。ただ闇雲に同じ道を通って追うしかなさそうだ。
「わかった。じゃあ、俺は律くんを追うよ」
「ほのも行く!」
「じゃ、じゃあ僕も」
いざ行かんとサンダルを履き出したニシナを一旦制止する。
「なんでもいいから服を着てくれ。それじゃ表は歩かせられない」
⭐︎
移動しながら警察に電話をしたものの、範囲が広すぎてすぐには見つけられないという。しかも何処に行くかもわからないのでどの署の管轄下なのかもわからず動けないらしい。ニシナは納得がいっていない様子だったがこればっかりは仕方ない。
俺たちは少しでも距離を詰めるために高速道路で同じ方向に向かった。助手席ではムヤが律くんの行き先を眺めている。
「今、停車してますね。ここからかなり先の薬局に寄っているみたいです」
薬局か。不穏だな。そこで死に道具を調達したところだろうか。
「そのまま薬局にいてよー」
ニシナは泣きながら懇願している。その願いは届かないだろう。というか自分のストーカーと乗り合わせるのは大丈夫なんだろうか。
「こんな時にいうことじゃないんだけどさ、ニシナ、そいつのこと覚えてるか?」
気ばかり焦るが、冷静さを欠いてはいけない。あまりにも張り詰めた車内の緊張感を少し解くつもりで質問を投げかける。
「本当に今言うことじゃないよそれ。知らないしどうでもいい!」
ニシナのいう通りである。どうしようもない状況に置かれた時何かで誤魔化そうとするのは俺の悪い癖だ。見るからに凹んでいるムヤをよそに、いきなりニシナが叫ぶ。
「方向的に、鋸山に向かってるのかもしれない! この間、二人でドライブに行った!」
そういってニシナは身を乗り出し、ムヤが見ている画面をスクロールさせて進行方向を確かめる。確かに地図の先には鋸山があった。
「そうしたら、もう一度警察に通報して鋸山で律さんを保護して貰えば安心ですね」
ムヤは安堵し切った様子で息をつく。俺は一瞬同意しかけたが、ニシナが黙っていなかった。
「無理! 警察頼りにならないもん。ほの、鋸山までいく! まだ絶対ここって決まったわけじゃないし」
「ニシナの言い分も一理ある。このまま向かおう。それに、位置情報を正確に把握している俺たちの方が場所の特定精度も高いだろうし」
ムヤを納得させるためにそれらしいことを言ってみせたが、本当のところは全くそんな風に思っていない。こんなのは全部御託だ。
ニシナをこれ以上泣かせたくない、それだけだ。最終的に警察が解決したとしても、やれることは全てやってせめてもの支えになってやりたい。そんなくだらないことのために、俺はアクセルを踏み続けた。
「アイコンが止まりました、鋸山の中です! しかもかなり変な道を通っています」
さらに車を走らせたころ、ムヤが叫んだ。向けられた画面を確認すると、道があるのかないのかわからないほどの細い道を進み続けているようだ。律くんは人気のない場所に向かっているのだろうか。俺たちがそこに向かうにはまず高速を降りる必要がある。
鋸山といえば有名な断崖絶壁である地獄覗きがあって、俺は律くんがそこに向かっていると踏んでいたけれど読みが外れたようだ。ただそこに行くだけならこんな変な道を通る必要はない。
では律くんの狙いはただ、人気のない山奥ということなのか?
「あ! 向こうのスマホの充電が切れたみたいです、GPSが途絶えました!」
ムヤの情けない声が響く。ニシナもまた泣き出しそうな声で「うそお」と悲痛な声を上げた。
「でも、こんな変な道をわざわざ使うってことはもう目的地に近いってことじゃないのか? それに律くんがニシナのスマホの電源を落とした可能性だってある」
どちらにせよ、律くんは今まさに命を絶つ準備をしている確率が高い。それに気付いたのかニシナは甲高い悲鳴を上げた。
「いっくん、急いで。飛ばして、早く」
「もうやってる!」
軽自動車に出せる最高速度で飛ばし、最後に表示された律くんの現在地の最寄りの出口で高速を降りた。赤信号をいくつか無視しながら突っ走っていくと徐々に山中に差し掛かる。最後に律くんが通ったであろう道は、この近辺の人たちですら使わなそうな細い山道だった。
とんでもない砂利道に全身を揺らされ、木の枝に視界を狭められながらなんとか進む。運転している俺でも吐きそうだ。ムヤもニシナも車酔いをしたのをどうにか耐えているようだった。
「律くんの車だ!」
後部座席で揺れに耐えていたニシナが叫ぶ。砂利に気を取られていて気付かなかったが、進路の先には見覚えのある赤い車があった。ナンバープレートも247で間違いない。
だが俺と、おそらくはムヤも、もっとまずいことに気が付いていた。
律くんの車の中は青いビニールシートで目貼りされていて、そして何より異臭がする。最低なことに、よりによって腐った卵のような匂いがするのだ。
「引き返そう。それで警察を呼ぶ。ここは危険すぎる」
ムヤは黙って頷く。すでに口元をハンカチで押さえていた。俺がギアをバックに入れようとすると、ニシナが身を乗り出してその手を掴んできた。
「なんで? 早く降りて律くんを助けなきゃ。そのために来たんじゃないの?」
ニシナは意味がわからないという顔をしている。それもそうだ。ただ、事情を説明したらしたで、よりニシナが危険な行動を取る可能性がある。俺は続ける。
「そうだ。俺たちは律くんの車を見つけた。通報したら警察が来てくれる。そうしたら警察が律くんを助けてくれる」
「なにそれ!? 意味わかんない! 今ほのがいってあげた方が早く助けられるじゃん!」
「それはダメだ」
「なにがダメなの!? 警察もいっくんも律くんの命どうでもいいの!?」
ニシナはぼろぼろと涙をこぼしながら叫ぶ。そして鼻を啜りながら後部ドアに手を掛け開けようとする。
「もういい、ほの一人でも行く。鍵開けて」
ニシナは感情的にガチャガチャと何度もドアをこじ開けようとする。すると耐えかねたようにムヤが口を開いた。
「あの車からは硫化水素が出ているんです。人体に非常に有害なガスで、微量でも命に関わります。今外に出たりしたらとっても危ないんです。だから大人しくしていてください」
ムヤはできるだけ淡々と説明しているようだったが、よく聞けば声が震えていた。決死の覚悟で、こいつなりの賭けに出たのだ。
ニシナはそれを聞くなり血相を変えた。ムヤは賭けに負けた。
「そんなに危ないってことは、やっぱり早くしないと律くん死んじゃうんじゃん! やだ、ほの行く!」
「大人しくしていてと今言ったでしょう!」
「でも誰かが行かないと律くん死んじゃう! 律くん死んだらどうせほのも死ぬもん、だから行く!」
ムヤは当惑して黙ってしまった。ニシナはもう聞く耳を持たない。ニシナにとって、目の前に律くんの車があるのに助けにいけないことが歯痒い状況であることはわかる。しかし、俺がすべきことは、さらに犠牲者を増やすことではないはずだ。
何か叫んでいるニシナを無視して車を後退させる。だがニシナも諦めてはくれなかった。後部座席から身を乗り出し、手を伸ばしてドアロックを強引に解除してしまう。
(まずい!)
急ブレーキをかけ、俺は車から飛び降りる。丁度ドアを開けて飛び出したニシナと対峙する形になった。
幸いなことにニシナが出てきたドアはまだ開いたままだった。覆い被さるようにして、俺はニシナを車に押し戻そうとする。
「どうして律くんがお前のこと置いていってこんなとこまで来たか考えろよ! お前に死んでほしくないからだろ!」
「ほのはそんなこと頼んでないもん!」
押し込まれる力に対して体を捻って抵抗する。説得は通用しないようだ。苦しげなニシナの顔を見て心が痛む。俺だってこんなことしたいわけじゃない。ふと、ニシナが覚悟を決めたような顔をした。
「いっくんならわかってくれると思ってた」
そう呟くと、服のポケットから何かを取り出す。暗闇で光を反射する刃先。ニシナが取り出したのは果物ナイフだった。
「馬鹿、危ないだろ、しまえ!」
ニシナはブンブンとナイフを振り回して暴れている。ムヤは車の中で怯えて縮こまっていた。
「律くんが首吊ってた時用に持ってきたんだけど、こんな風に使うと思わなかった。いっくんにはごめんだけどさあ、ほの、律くんの命が一番であとは別にどうでもいいんだ。言ってる意味わかる?」
俺を睨みつけると、真正面で刃物を構える。わかっている。これは脅迫だ。ニシナは俺たちを殺してでも律くんの元に向かいたいのだ。その気持ちは本当に、痛いほどわかる。律くんが死んだら死ぬという言葉だって本気なのだろう。
でも、刃物を構えるその手は小さく震えていた。ニシナだってきっとこんなことをしたいわけじゃないのだ。
俺はただニシナに嫌われたくなくてここまでやってきた。これ以上こいつを引き止めたら、確実に嫌われることだってわかる。
だからこそ覚悟を決めた。
「ごめん、ニシナ」
時間が止まったような感覚だった。ニシナは目を見開いたまま固まり、そして悲鳴をあげる。手に持った刃物は、深々と俺の腹に突き刺さっていた。
俺はニシナを抱きしめた。向けられた殺意や悲しみ、そして構えられたナイフごと。これが最初で、きっと最後の抱擁だろう。
俺にはニシナを行かせることができなかった。それがいずれどんなにニシナを苦しめることになろうとも、ニシナが死ぬのは耐えられなかった。だったら嫌われる方を選んだ。一緒に生きていけなくなったとしても、ニシナの幸せを守りたかった。この噛みすぎたガムみたいなぐちゃぐちゃの気持ちをそう呼んでいいのなら、俺はニシナを愛しているのだ。だから。
(さようなら、ニシナ。これでお別れだ。)
刃物を失い、固まったままのニシナをひょいと持ち上げて車に戻す。後部座席に積んでおいた金属バットを取り上げながら、俺はムヤに向けて叫んだ。
「お前、免許持ってたよな。こいつ連れて下山しろ。そんで警察呼んどいてくれ」
「で、でも」
「誰か行かなきゃこいつの気が済まないだろ。これ以上こいつ泣かせたいのかよ」
ニシナが何か言おうとこちらを見るが、言葉を待たず後部ドアを力任せにしめる。さっきお前言ったよな、律くんの命が大切であとは別にどうでもいいんだろ。だったらそんな顔をするなよ。ムヤもおずおずと運転席に移動しシートベルトを締めた。こちらに心配そうな顔を向けている。大丈夫だと言わんばかりに親指を立てると、ムヤは頷いた。
とまあ無茶苦茶カッコつけているが、正直、腹が燃えるように痛い。転げ回って叫びたいくらい超痛い。マジちょっと泣きそう。なんとか耐えているけど背中に変な汗をかきまくっている。頼むからさっさと行ってくれ。ここまでしたんだからどうにかして最後までカッコつけたいんだよ。
その願いが通じたのか、俺の痩せ我慢の限界が来る前にムヤは車を旋回させて元きた道を戻っていった。ナイフを抜くかどうか迷い、内臓が全部出てきちゃったら困るのでやめた。
痛過ぎて感覚がおかしくなってきているみたいだ。というかもはや痛くなくなってきた。痛みを打ち消すための脳内麻薬がドバドバ溢れている感覚がある。試しにナイフをぐりぐり動かしてみてもなにも感じない。薄ら笑いまで浮かんできた。喉になにか流れ込んでいる。吐き出してみたら鮮血だった。口の中に鉄の味が広がっている。ブロンでせこせこ手に入れていたあの多幸感と浮遊感に包み込まれる。そうでなくても、今の俺は無敵だ。別にこれからどうなったってどうでもいいのだ。丁度ニシナと出会ったあの日に戻ったかのように。
ただ一つ違うとしたら、今の俺にはやらなきゃいけない使命があるということだけだ。だが、それがあるだけで十分に幸せだった。
金属バットを引き摺りながら、ふらふらと赤い車に近付く。ナンバーは247。ならばその中で死を選んだ律くんは、本当はニシナの腕の中で事切れたかったのだろうか。死の恐怖すら融解させるのが愛なのか。俺は知らない。そんな高尚なもの、知るわけがない。
この車を俺に紹介した時のニシナの笑顔を思い出す。ルームミラーで前髪を直していたひばりちゃんのふくれ面を思い出す。思い出したところで全部過去なのだ。
ゆらり、とバッドを振り上げる。自分の中のタナトスを呼び起こす。死にたい俺にこんな出番があるなんて思っていなかった。
俺は雄叫びをあげながら、ただひたすらフロントガラスに金属バットを打ち付ける。今まで死にたかった全ての俺を殺すつもりで破壊する。あっという間にガラスは割れ、目貼りが露わになった。
飛び散ったガラス片の一つでブルーシートを割き、中を覗き込む。そこには律くんの姿があった。丸くなって膝を抱え込み、自分が吐いた吐瀉物の中に溺れている。まるでまだ呼吸を知らない胎児のようだ、と思った。
律くんはニシナの腕で死にたかったのではなく、ニシナから生まれ直すことで人生をやり直したかったのかもしれない。
軽く金属バットの先で突いてやると、ゲロまみれの赤ん坊はピクリと動いた。吐瀉物に溺れているせいであまりガスを吸っていない可能性が高い。幸い、まだ息があるようだ。割れたフロントガラスの隙間から俺も車に侵入する。濃度の高いガスが喉を犯す感覚。足元には洗剤が二つと紙コップが転がっていた。ついさっき割いたブルーシートでできるだけ隙間のないように紙コップを包み、助手席前の収納の中に放り込む。気休めだが、何もしないよりはガスの蔓延を防げるだろう。
そうしてようやく律くんに向き直る。聞きたいことや言いたいことは山ほどある。だが、もう話す元気もない。そもそも花見の時からなんとなく様子がおかしい気がしていた。人が自殺するのは絶望のどん底にいる時ではなく、希望が見えてきた頃だともいう。律くんがシャボン玉を潰す情景が蘇る。
律くんを抱き上げ、ガスが蔓延している車内から脱出する。出血とガスの吸引で俺もそろそろダメそうだ。ニシナとひばりちゃん、それからファンの皆様のために、律くんだけでもガスを吸わないようにとゲロまみれの顔を俺の方に寄せる。ドアから外へ出ようとすると律儀に全部のドアをガムテープで目貼りしてある。そんなに迷惑を掛けたくないなら自殺なんかするな。俺は仕方なくフロントガラスの隙間から脱出した。これで俺の使命はおしまいだ。あとは警察が来るのを待とう。
意識に靄がかかっていく。目の前がチカチカして呼吸が浅くなる。甲高く無機質な耳鳴りがして、身体が上昇する感覚がある。これが死なのだとしたら、優しくて暖かく、全く怖くなんかなかった。
「かずや」
ふと、そんな声が聞こえた。幻聴でなければ律くんの声だ。なんだお前、喋れるんじゃねえか。
遠くからサイレンの音が聞こえる。よかった、間に合ったみたいだ。これでまたきっと、ニシナが笑ってくれる。
視界がぶれ、少しずつ白んでいく空が見える。俺の意識はここで途切れた。
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