ありがとうをありがとうをありがとう

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森本(もりもと)、いるかあ」  昼休みに僕と親友の一真(かずま)が教室の扉の横で話していると、数Ⅰの高橋先生が顔を出して叫んだ。先生と一緒に俺たちも教室を見回したが、森本さんの姿は見えない。 「いないみたいっす」 「じゃあ、悪い。このノート渡しておいてくれるか?」 高橋先生は一真にノートを押し付けると、パタパタと廊下を走っていった。 「先生が廊下を走ってら」 一真は笑ってノートを顔の位置まで持ち上げた。なんの柄もないシンプルな表紙の右下に『森本奈菜(もりもとなな)』と几帳面な字で書かれていて、一真はページを雑にめくった。 「おい、やめとけよ」 僕は一応声をかけたが、一真はあるページに見入り始めた。 「ん、なんだこれ……、シムソンの定理?」 僕の数学は高校受験までで精一杯だったので、ノートに丁寧に書かれた図形を見てもさっぱりわからなかった。 「なあ(れい)、今日サウナ行こうぜ」 一真がノートを閉じて、いつもの感じに戻った。 「ひょー! いいねえ!」 僕は片手を空に突き上げ飛び上がった。何事かと周りの連中が俺を見たので、へこへこ謝りながらまた座り直した。 「今日は水風呂、外気浴まで4回転する?」 「するする!」 「もう、青山(あおやま)君ったらうるさいよ」 近くの女子が数人、笑いながら僕を見た。 「あ、来た」 その時、教室の後ろの扉から森本さんが入ってきた。購買の袋を持っているので、何か昼飯を買ってきたんだろう。色白で、すっとして姿勢がよく、黒い髪の先は肩下で揺れていた。一真が近づいていく。 「森本さん、これ数学の高橋から」 森本さんはノートを差し出されるとすっと手を差し出し、無言で受け取った。そしてそのまま席についた。一真はぽかんとしていたが、僕のところに戻ると小さな声で文句を言った。 「おい今の見たか、普通『ありがとう』くらい言うだろ」 「まあ」 「ちょっと、いやけっこう可愛いからって、何様だよ」 「まあまあ」  森本さんは窓際の席に座ってカバンから文庫本を、袋から菓子パンを取り出した。窓からの風で髪がさらっと揺れた。いつも一人で本を読んでいてクールな感じだ。 そんなに悪い子には見えないけれど、話したことがないのでわからなかった。そういえば彼女が誰かと話しているところも見たことがなかった。
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