1. 南霧トンネル

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1. 南霧トンネル

「あずちゃん!一生のお願い!!」 茉菜はそう言って顔の前で手を合わせた。 「なに?どしたの?」 「昨日さ、彼氏ととある場所に言ったんだけど、そこで大事なキーホルダー落としたっぽいんだよねぇ」 「そうなんだ。どこで落としたの?」 「………」 茉菜は視線をそらし、なんとも言いにくそうな顔をする。 「な、南霧(なきり)トンネル……です…」 そして、消え入りそうな声でそう告げた。 「あ~……」 「ってなるよねぇ!わかってる!わかってるけど!一生のお願い!!付いてきて!!何でも奢るからさ!」 「………」 茉菜の真剣な、それでいて泣き出しそうな顔を見つめる。 南霧トンネル。望月梓(もちづき あずさ)が住んでいる赤都木町(あかつきちょう)界隈では、とても有名な心霊スポットだ。幽霊に取り憑かれて精神的におかしくなった人や記憶の一部を失った人もいる。少し前に有名な動画配信者が動画内で南霧トンネルについて語ったことから、再び火が着き、暇を持て余した学生が頻繁に訪れるようになったらしい。 「今日はダメ。塾があるし」 「そこをなんとか!」 「無理だって。この土日ならいいけど」 「うぅ……そうだよねぇ」 茉菜はがっくりと肩を落とす。 「落としたキーホルダーってそんな大事なものなの?」 「うん。教祖のキーホルダーなんだ…」 教祖、とは茉菜がはまっているゲームのキャラクターのことで、メインキャラではない彼のグッズはそのキーホルダーのみ。ゆえに、ファンの間で取り合いとなり、茉菜が手に入れられたのも奇跡としか言い様がなかった。ちなみに、フリマアプリで検索すると教祖のキーホルダーは定価八百円のところ、一個一万円で不法取引されているようだった。さすがに、一介の学生が買える値段ではない。 「なんで……落としちゃったかな…」 「落ち込まないでよ。土曜日、お昼から探しに行こう?」 「うん」 茉菜は項垂れるようにして頷いた。 「茉奈ちゃんが帰って来ないんだって」 塾から帰宅すると、母親が心配した面持ちでそう言ってきた。 「梓、何か聞いてない?」 聞かれて少し考えてから「まさか…」と呟いた。 「心当たりがあるの?」 「心当たりっていうか……南霧トンネルで大事な物を落としたから、一緒に取りに行って欲しいって言われたけど…今日はダメだから、土曜日にって言ったんだけど…」 その話しを聞いて母親は、やはりいい顔をしなかった。母親の世代でも、南霧トンネルは有名な話だからだ。 「そう、わかったわ。とりあえず、茉奈ちゃんのお母さんにはそう伝えておくわね」 「うん」 ベッドに入り、スマホのメッセージアプリを起動させる。茉奈へメッセージを送ってもそれに既読はつかなかった。 「はぁ……茉奈、どこに行ったんだろ…」 翌日になっても茉奈は見つからなかった。警察も事件性が無いと動いてくれないので、茉奈の両親が町の中をあちこち探し回っているという。 (それでも見つからないってことは、やっぱり南霧トンネルに?もしくは…彼氏のところ…) 梓の脳裏に茉奈が嬉しそうに彼氏について語る姿が思い浮かんだ。 「よしっ」 梓は土曜日、茉奈の彼氏-下山陽平(しもやま ようへい)が働いているというお店に行くことにした。 「下山さん、いますか?」 そう尋ねた店員は表情を曇らせた。 「いないんですか?」 「いや……あいつ、今、病院に入院してて」 「えっ、い、いつからですか!?」 「俺ははっきり聞いてないけど、昨日、町ん中ふらついてるところを警察に保護されて、そのまま入院したって…」 店員は少し迷惑そうな顔をして説明する。 「どこの病院ですか?」 「あ~…ちょっと待ってて」 そう言って店員は一旦奥へ引っ込んで、それから店長と思わしき人を連れてきた。梓は幼馴染を探していること、茉奈と下山が一緒に行動していたことから入院先を教えてほしいと頼んだところ店長はあっさりと教えてくれた。 (入院先は赤都木総合病院……病室は…) 店長に教えて貰った病室には、下山のネームプレートだけが付けられていた。 (個室…?) 辺りを見ても警察官らしき人の姿は無く、ノックをしても返事は無かった。しばし扉の前で悩んでから、意を決してそっと開いた。病室の中に一つだけ置かれたベッドに下山陽平は座って、大きな窓から青空をじっと見つめていた。 「あの…下山さん?」 声をかけると彼はゆっくりと振り返ったが、どうも様子が変だ。ぼんやりとしていて、こちらを見ているのに焦点が梓に合っていないような感じがしたのだ。 「奥村茉奈が、どこにいるか知りませんか?」 近づいてそう尋ねても、彼は首を傾げるだけだった。 「えっと…あなたの彼女…恋人だったはずですけど…」 しかし、首を傾げたまま彼は何も答えない。 「えっと…」 梓は持っていたスマホを取り出して、操作する。 「彼女です。知ってますよね?」 そして、茉奈が写っている写真を見せると、彼はゆっくりと目を見開く。 「あ…ま、茉奈…」 「そう、茉奈です!知りませんか?どこにいるのか?」 尋ねると彼は突然立ち上がる。 「え?」 「助けに行かなきゃ!茉奈!茉奈を置いてきてしまった!!」 「え?え?」 そう言って病室から飛び出そうとする下山の腕を梓は咄嗟に掴んだ。 「ちょっ!待って下さい!茉奈は!茉奈はどこにいるんですか!?」 「トンネルだ。置いてきてしまった!彼女を、化け物がいるあの場所に!!」 大きな声で騒いでいたからだろう。すぐに各方面から看護師たちが飛んできて、下山は取り押さえられた。その間も、彼は”茉奈を助けないと!”と叫び続けた。 鎮静剤を打たれて大人しくなったもののしばらくは安静に、ということで梓は病室を追い出される。 「ふぅ…怪我はない?」 声をかけてきたのは看護師だった。 「はい、大丈夫です。すみません、ご迷惑を…」 ぺこりと頭を下げた梓に、看護師は「いいのよ」と笑顔で言った。 「病院に運び込まれた当初は、自分の名前もわからなくて。どこで何をしていたのかも、全部忘れてるみたいだったの」 「え、そうだったんですか?」 「うん。持ち物から名前がわかって、名前を聞いたら思い出したみたいなんだけどずっと上の空で反応の鈍くて…」 「……」 「とある先生は南霧トンネルにでも行ったんじゃないのかって言ってて」 「南霧トンネル?」 「そう。知ってるでしょ?赤都木町の有名な心霊スポットの」 「は、はい」 「昔、あそこへ行った人がああいう状態で運ばれることがあったんですって」 「ああいう状態…」 「記憶喪失っていうのかしら?ま、一時的なもので、しばらくしたら思い出すらしいんだけど。やっぱり、ちょっと怖いわよねぇ。原因不明っていうし」 「あ、加藤さんここにいたんですか。ちょっと、いいですか?」 そこに別の看護師がやってきた。 「どうしたの?」 「306号室の相澤さんなんですけど」 「うん、わかった。すぐ行く。じゃ、お嬢さんも気を付けて帰ってね」 それだけ言うと看護師たちはその場を後にする。一人残された梓は小さく唸る。 (下山さんは茉奈がトンネルにまだいるような口ぶりだった…) どうして、なんで、という疑問が浮かぶと共に助けに行かなきゃ、という思いも湧き上がっていた。 (正直、南霧トンネルに行くのは怖いけど……) それでも、もし本当にそこに茉奈がいるのならば助けに行かなければならない。 (帰って来れないのには、何か理由があるからかもしれない。足を怪我しているとか…あと……化け物……) それは下山が言っていた言葉だ。嫌な言葉だったが、まだ日は高い。今の内に行けば、夜が来る前には帰ってこられるだろうと思い、梓は一人南霧トンネルを目指した。 南霧トンネルは梓たちが住んでいる赤都木(あかつき)町の中心部から北東に進んだところにある。今は使われることのない旧道で、昔は遠回りになるが信号が無い道だったので抜け道として使われることが多かったらしい。しかし、十年前に台風がこの地域を直撃した際、道の一部が土砂崩れを起こし道路は不通となった。旧道で、先に民家が無いことから道が補修されることはなく今もそのまま放置されている。南霧トンネルを抜けた先が土砂崩れを起こしているので、道を間違えたかトンネル目当てでなければまず人が訪れることは無い。 インターネットで調べると、南霧トンネルは全長二百メートル弱で右へ左へと蛇行しているので入り口から出口は見えないそうだ。心霊スポットとして有名になったのは、不幸の手紙が流行した1970年代から1980年代にかけて。丑三つ時にトンネルの中を走ると幽霊に追いかけられるとか、深夜四時にトンネルの中で四回クラクションを鳴らしトンネルを出ると車に無数の真っ赤な手形が付いているとか、そう言った噂がたくさん出たそうだ。もちろん、ほとんどが根も葉もない噂だった。 (でも、本当の噂もあった……) 梓は真っ暗なトンネルの入り口に立つ。 (刃こぼれした包丁を持った女の幽霊が出る……) その噂だけは本当だったようで、何人もの目撃者が現れ大いにマスコミやオカルトファンを賑わせたという。しかし、訪れる人の量が増えると幽霊も現れなくなり、テレビがあの手この手で幽霊を出現させようとしたが全て不発に終わったというのは有名な話だ。そして、オカルトブームも下火になるとその噂話はいつしか忘れ去られ、加えて台風による土砂崩れのせいで道路が寸断されてからは南霧トンネルを訪れる者はいなくなった。それでお終いとならなかったのが、今回の動画配信者の発言だった。 (まったく、いい迷惑) 心の中で悪態を吐いて、梓は腹を括ってトンネルの中に入った。 (茉奈も茉奈だよ。何を思ってここに来たのかは知らないけど、よりによって大事なキーホルダーを落とすとか…) 梓は大きなため息をこぼした。真っ暗なトンネルの中、スマホの明かりだけを頼りに進んでいく。 (怖くない…怖くないんだから…) カビと淀んだ水の臭い。己が歩く足音がトンネル内に響く。足音が幾重にもこだまし、複数の足音に聞こえるような気がして、梓は自ずと足早になる。 不意に、前方に人影が見えて悲鳴を上げそうになったのを必死に我慢した。スマホの明かりをそっと向けると、それは虚ろな顔で左右に揺れている一人の女の子だった。 (あれ…は?) 地べたに座り込んだ彼女の手には、学生鞄が一つ握られていた。 「茉奈!!」 急いで駆け寄り、その肩を掴む。 「茉奈!!」 もう一度呼んでみたものの、彼女はぼんやりと虚空を見つめるだけだった。 「茉奈!茉奈!どうしたの?しっかりしてよ!!」 肩をゆすっても、その目に梓が映っても焦点は合わない。 「って、怪我してるじゃない!」 梓は茉奈の右腕が切られていることに気が付いた。血はすでに乾いていたが、パックリと切られた腕は見るからに痛そうだった。 「ちょっと待ってて」 梓はポケットからハンカチを取り出して、傷の上から巻き付ける。 「よし……茉奈?」 しかし、反応は無く虚ろな目で宙を見つめているだけだった。 「これは…どういう…」 呟いて病院の看護師が言っていた言葉を思い出す。 (“自分の名前もわからなくて。どこで何をしていたのかも、全部忘れてるみたいだった”“記憶喪失みたいな状態”……それが、今の茉奈の状況?) 呼んでも反応は無い。立ち上がらせようとしても、まるで地面に根を張ったかのようにびくともしない。 (どうしよう…とりあえず、誰か呼ぶ…え?) ちらりと見た、己のスマホはこの時代ではもう見ることは無いだろうと思っていた「圏外」の文字を表示していた。 (圏外?……山の中だから?) しかし、明確な答えはわからない。だが、唯一わかることと言えばスマホを使って助けは呼べないということだけだ。トンネルの入り口まで戻れば助けを求められるかもしれない。 (でも……) ここで茉奈から目を離すのは、少しだけ抵抗があった。 (そ、そうだ。名前!) 「あなたの名前は、奥村茉奈。私は望月梓。あなたの…友人なの」 しかし、反応は無い。 「どうして反応が無いんだろ……」 下山は名前を聞けば色々と思い出したと、あの看護師は言っていた。それはけして嘘ではないはずだ。梓が茉奈の写真を見せると下山は確かに茉奈の存在を思い出したのだ。 (他に何か……こう、パンチ力のあるものを見せれば何か思い出すかな…でも、そんなものある?) 困り果てた梓の目に映ったのは、彼女がしっかりと握りしめていた学生鞄だった。 (教祖のキーホルダー!…そっか、それなら!) 梓は立ち上がる。 「茉奈、待ってて!私が教祖を見つけてくるから!」 そう言っても茉奈は無反応だったが、梓は一人トンネルの奥へと進んでいった。 (ここに来たきっかけが教祖のキーホルダーを見つけることなら、きっと見つけて持って行けば何か状況は変わるはず……たぶん) 何の根拠も無いし、何の保証も無かったが今の梓に出来ることと言えばそれぐらいしか思い浮かばなかった。 (あ、あれ……) 真っ黒で陰鬱なトンネルの中で、異質なモノが落ちていた。 (教祖!!) 茉奈が大事にしていたゲームのキャラクターのキーホルダーだ。梓は駆け寄り、安心したように手を伸ばした瞬間、闇の中から浅黒い皺くちゃの手が伸びてきた。 「ひっ!」 驚きのあまり手が止まってしまい、浅黒い手が教祖のキーホルダーを拾い上げる。そしてそのまま腕は闇の中に消え、掠れた笑い声が聞こえた。スマホの明かりを前方に向けると、暗闇の中にボサボサの髪の女性が立っていた。 「っ!!」 その手に教祖のキーホルダーを持ち、反対の手には刃こぼれした包丁が握られていた。 「い、いやぁぁぁああ!!」 自然と吐き出された悲鳴。反射的に駆け出した体。背後からペタペタという足音が聞こえてくる。 (刃物を持った女!!南霧トンネルに現れる幽霊!!……どうする?教祖のキーホルダーは彼女に取られてしまった……けど…) ちらりと背後に視線を向けると、髪の毛ボサボサの女はゆっくりとした足取りで歩いているのに梓との距離は全く開かない。 (どうにか出来る相手なの!?) ひたすらに真っ直ぐに梓は走った。 「茉奈!逃げるよ!!」 暗闇の中、先ほどと変わらぬ姿で地面に座り込んでいる茉奈の腕を掴むが彼女はびくともしなかった。 「ああ!もう!!なんで動かないの!?」 怒鳴って思い切り力を込めたが、腕が持ち上がるだけで茉奈の体まで起こすことはできなかった。ペタリペタリと足音は確実に近づいてくる。 「もう!なんで!?」 茉奈はうんともすんとも言わず、ただ虚ろな目で虚空を見つめるだけ。 ペタリペタリ、ペタペタペタペタッ。 足音が速度を上げて近づいて来た。 「早く逃げなきゃ!!化け物があっ」 足元を滑らせ、尻もちをつく。 「いったぁ…ヒッ…」 顔を上げた梓の視線の先には、色褪せた青色のワンピースを着た、灰色の髪がまだらに生えた女性の姿が。 「あ、あ、あ…」 女性は白目まで真っ黒な瞳で梓を見ると、青黒い唇に歪な笑みを浮かべた。 「いやっ!!」 梓がそう叫んだ瞬間、視界の端から青白い火の玉が物凄い勢いで飛んできて、女性にぶつかり、炎上した。 「ぎゃぁぁぁあああ!!」 耳をつんざくほどの悲鳴に梓が耳を塞ぐと、その眼前にゆったりとした足取りで一人の背の高い男性が現れた。 「え…?」 「お嬢さん、大丈夫かい?」 後ろを振り向いた男性は口に煙草を咥え、濃い紫色の瞳にはしっかりと梓の顔が映っていた。着古されたTシャツには“オニ”と書かれている。 「あ……はい」 「そう。よかった」 言いながら男性は、ポケットから取り出したマッチをこすって火を点け、煙草の先に近づける。ふわりと吐き出される紫煙。 「ちょっとそこで待っててくれるかい?」 「は、はい」 マッチをピッと指先で弾いて投げるとそれは真っ青な火の玉になって辺りを寒々しい青白い明かりで照らした。男性はゆっくりと前を向く。炎上した女性は懸命に髪に付いた火を払い落としていた。Tシャツにジーパン、足元はサンダルという恐ろしく軽装の男性。それでいてやや猫背である。どう見ても霊媒師とかそう言った類には見えなかったが、女性が怒り狂ったような奇声を上げて包丁を振りかざしてきたのを素早く受け止め、大きく捻るその動きに無駄は無かった。しかし、女性も素早く体を捻って回転すると着地と同時に包丁を押し込んでくる。それを男性は後方へ受け流す。勢い余って体勢を崩した女性の背中に肘鉄を喰らわせる。 「ガッ!」 女性は地面に顔を強打する。男性はすかさずその襟元を掴み上げると、トンネルの奥へと思い切り投げ飛ばし闇へと消えた女性。微かに呻き声が聞こえ男性はポケットから一枚のお札(ふだ)を取り出す。 「殺意を隠し冷ややかに羽ばたき、静寂と共に飛来せよ」 闇の中からペタリペタリと女性の足音を思われる音が聞こえる。 「汝の声を聞くモノは無し、“梟首青藍(きょうしゅせいらん)”来たれり」 お札がトロリと溶けて一本の短刀へと姿を変える。刀身の青い、ひんやりとした雰囲気を纏う短刀を男性は逆手に持って構える。突如として暗闇から飛び出して来た女性の刃を短刀で受け止める。ギリギリと金属同士が擦れる音がして、男性が女性の脇腹を蹴飛ばしたが女性は片手をついて体勢を立て直すと一気に駆け出す。体勢を低くして男性は下から上に切り上げ、女性の首を狙ったが女性は右足を軸にして回転し見事に避ける。 「泣け」 男性が呟く。 「鳴け」 女性は梓を目掛けて走ってくる。 「ヒッ…」 怯えながらも梓は茉奈に覆いかぶさる。 「啼けっ」 青い刀身が血のような赤い液体を纏う。そのまま男性が思い切り短刀を横に振り切ると、刀身を伝い糸のように細く伸びた血の斬撃が女性の首元まで伸びて、刎ねた。 「っ!!!」 宙を舞う女性の首、包丁を振り上げた状態の体に青白い火の玉がぶつかるとあっという間に青白い炎に包まれた。生首は断末魔を上げ、地面に落下するとグズグスと砕けて真っ黒な灰となった。 「……」 梓が顔を上げると、そこには真っ黒に焼け焦げた女性の体が。そして、それはゆっくりと倒れて崩れて消えた。 「あ…」 残ったのは教祖のキーホルダー。梓は手を伸ばし、キーホルダーを掴むと未だに上の空になっている茉奈に見せる。 「ほら、茉奈…探してたキーホルダーだよ」 すると、ぼんやりとしていた目に光が戻り、キーホルダーが映り込む。 「きょ…教祖!!」 弾かれたように茉奈は教祖のキーホルダーを受け取ると、そのままパタリと倒れた。 「茉奈!?…って、寝てる!?」 倒れた茉奈は大事そうにキーホルダーを持ってスヤスヤと寝息を立てて眠っていた。 「はぁ…もぉ、なんなのよ…」 呆れて言いながらも、梓の顔はどこか安心したような様子だった。 「よぉ、無事かい?」 驚いて顔を上げると、目の前にあの男性が立っていてふわりと紫煙を吐く。 「は、はい…ありがとうございます」 「いやいや、立てるかい?」 「は、はい。でも、茉奈が寝てて…」 「ふむ…」 男性は少し悩んでから、軽々と茉奈をおぶった。 「よし、とりあえず出口まで向かおう。あ、鞄」 「私が持ちます」 梓は茉奈の手から滑り落ちた鞄を掴み、男性と並んで梓は出口に向かう。 「あの…」 梓はおずおずと男性に声をかける。 「なんだい?」 「あの…女性の幽霊は…一体?」 「お嬢さんはここがどうして南霧と呼ばれているか知っているかい?」 「い、いえ」 梓は首を横に振る。そんなこと今の今まで考えたこともなかった。 「土地の名前っていうのは、よく変わるもんでね。ここは大昔、名前を切ると書いて名切と呼ばれてたそうだ」 「名切……」 「それがいつの間にか南霧へと変わった。んじゃあ、なんで名前を切るなんて呼ばれてたのかっていうと、あの女が関係してるそうだ」 「あの幽霊が?」 「ああ。大昔、この峠道を抜ける際、枝や葉っぱで腕や足を切ると名前を忘れるっていう逸話があってな。それでいつしか、人間たちはここに“名前を切り落とすモノ―ナキリが出る”と噂し始めたんだ」 「…え」 「まぁ、物忘れなんてよくある話しで、それを面白おかしく話しを誇張して“ナキリに切られたから名前忘れちまった~”とかなんとか言ってたんだろさ」 男性は呆れたように言って、紫煙を吐きだした。 「だが、単なる噂は真(まこと)になった。本当にナキリが現れ、切られると名前や記憶を失うようになったんだ」 「そんな……」 梓は信じられないという顔をする。 「噂が真になることはよくあることで、お嬢さんの身近な話しで言えば“トイレの花子さん”もその一つだ」 「え…そうなんですか?」 男性は頷く。 「子供たちの噂が実体化した一番有名な話だろう。人の言葉には元来、力があるっていうしな」 「噂が実体化……」 「あの女も数十年前に見たときは着物姿だったが、今回はワンピース姿だった。現代の噂が実体化した良い例だろうなぁ。困ったことにこの噂の実体化ってのは、知ってる人が増えれば増えるほど力を増していって、最終的に手が付けられなくなるってことだ。まっ、今回はそうなる前に片付けられたからよかったけどな」 後半はほぼ独り言のように男性は呟いた。 「……じゃあ、茉奈はあの幽霊に切られて記憶を失っていたっていうことですか?」 そう言って、茉奈の右腕を見る。ハンカチで覆ったあの傷は、あの幽霊に付けられた傷かもしれないと梓は思った。だから、茉奈は記憶を失った。それはおそらく、彼女の彼氏である山下も。 「そうだろうな。でも、お嬢さんが頑張ったおかげで、彼女はちゃんと記憶を取り戻したんだ。よかったじゃないか」 「そう、ですね……でも、それはあなたが幽霊を倒したから」 「俺は倒しちゃいない」 男性はきっぱりと言い放つ。 「え?でも……」 梓はキョトンとした顔をした。 「俺はちょっと灸をすえてやっただけさ。今はトンネルの隅で反省してることだろう。だがまた、噂が大きくなれば彼女は現れる。そういうもんさ、あれはね」 「完全に消すことは出来ないんですか?」 「誰も噂しなくなりゃ勝手に消える。単純な話しだろ?」 言われて「そうですね」とは答えられなかった。 「あの、あなたは一体…」 「ん?ああ、鬼だよ」 「オニ?」 言われてTシャツの文字を見る。確かに、オニと書いてある。 「力を持ち過ぎた妖怪や幽霊に灸をすえる役目を持った鬼だ。守護鬼(しゅごき)っていう無駄にカッコいい肩書だが……俺は、その代行だ」 やれやれというため息と共に紫煙を吐く。 「しゅごき…代行…?」 「ほら、出口だ。夕日が綺麗だな」 トンネルを抜けると辺りはすっかり夕陽に染まり、夜が訪れようとしていた。 「じゃあ、お嬢さんここでお別れだ」 そう言って男性はポケットから札を取り出した。 「え?」 「また、縁があったら会えるかもな。さぁ、誘え微睡みの泉の中へ」 男性がそう唱えお札が消えると、梓は睡魔に襲われる。 「あ…」 抗うことのできない、強烈な睡魔だった。 (お礼…言えなかった…) そう思いながら、彼女は眠りへと落ちていった。 目を覚ますと病院のベッドの上だった。両親が心配した顔をして、抱きしめてきた。 聞けば、梓と茉奈は南霧トンネルの前で倒れていたところを警察に発見されたのだそうだ。梓は無傷だったが、茉奈は右腕を数針縫ったそうだ。それでも、それ以上に大きな怪我は無かったので二人ともすぐに退院することが出来た。また、下山陽平もしっかりと記憶を取り戻し、二人と変わらないタイミングで退院することが出来たのだと後日茉奈から聞くことが出来た。 「ん~~~でもさぁ…」 学校の帰り道。 「なに?」 二人は並んで歩く。 「私、南霧トンネルに行ったときの記憶無いんだよねぇ」 茉奈は残念そうに言ってスマホを操作する。 「いいじゃん別に、気にすることじゃないでしょ?」 梓は呆れたように言う。 「そうだけどさぁ…なぁんか、怖い思いしたような気がするんだよねぇ」 「じゃあ、忘れてよかったじゃん。覚えてたら夢に幽霊でも出てきそうだよ」 「た、確かに……あ!陽ちゃんがさ、今度梓にお礼言いたいってさ」 「別にお礼を言われるようなことしてないけど?」 「ううん、何か奢らないと気が済まないんだってさ!だから、二人でパフェ奢ってもらおう!」 「いいけど、なんで茉奈も?」 「陽ちゃんに無理矢理南霧トンネルに連れて行かれたから私、教祖をあそこに落としちゃったの!」 「そうなの?」 「そうなの!」 「じゃあ、奢ってもらおう!」 「うん!」 ヨレヨレのTシャツを着た背の高い男性が横を通り抜けたことに、楽しそうに話す二人は気付かなった。その姿を見て、男性は口元に笑みを浮かべたのだった。
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