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「僕の事を忘れても、きっと大丈夫だよ」 彼の大きな手のひらが頭を撫でた。 目の前の彼は、海野光くん。私の恋人らしい。 私は彼の事を覚えていない。 空港から彼の手を引きながら、自分のアパートへと帰ってきた。自分の住まいすら分からなかった。〝佐々木花〟自分の名前以外は全て忘れてしまったみたいだ。    彼はスペインで建築の勉強をして、こっちへ帰ってきたと話してくれた。彼のスマホには海外の建築物や絵画、美しい海の写真が入っていて私に見せてくれた。エメラルドグリーン色の海、黄色の絨毯の様な向日葵畑。その風景の美しさに目を奪われた。 「キレイ!キレイだね!」 「いつか花と一緒に見に行きたい」 その目は深い悲しみの場所に居る様に感じた。胸の奥に棘が刺さり、チクリと痛みが走る。 彼への愛情を全く思い出せない。 「ごめんなさい、光くん……」 「大丈夫だよ、花。ゆっくり思い出していこう」 彼は泣きながら私を抱き寄せた。   次の朝、私は目の前の彼が誰なのか分からなかった。説明をされてようやく納得する事が出来たけれど……なぜか、一晩眠ると私の記憶はリセットされていたのだ。 〝前向性健忘症〟と診断された。 大きなストレスや脳への異変により異変があった以後の記憶が安らぐ症状。原因は記憶と深い関係がある側頭葉が強い衝撃を受けた為と思われるそうだ。 私はスマホの使い方、歯磨きの仕方、服の着替え方など日常生活で必要な動作は覚えていた。彼が仕事で居ない時はスマホを触って音楽を聴いたり、彼とのやりとりや写真などを見ていた。スマホの中の2人は幸せそうに微笑んでいる。私は彼と離れた時間が悲しくて苦しかったみたいで、帰ってくるのを本当に楽しみにしていた様だ。 「花、ただいま!ケーキ買ってきたよ」 彼が白い箱を差し出した。開けるとフルーツたっぷりのタルトが2つ。口に頬張ると懐かしい匂いや甘さがした。私が働いていたパティスリーのケーキと教えてくれた。 私はケーキが好きでケーキを作る仕事をしていて、そのお店にお客さんとして光くんが来たのが出会いらしい。 彼は毎日、私の事を色々と教えてくれた。 寝る前に「花、好きだよ」と抱き締めてくれたが、彼に特別な感情は抱かなかった。 朝起きると彼が隣にいて、びっくりするけれどスマホのメモに書いた 〝彼は海野光くん、私の恋人〟 それを見るとなぜか安心感を覚えた。 毎日記憶が無くなる……それは私にとって衝撃的で、毎日苦痛でしかなかった。1人で深い深い海底を彷徨っている様で、息が出来なくてもがいて、もがいて……でも彼が帰ってきてくれると手を引っ張って救い出してくれるんだ。 寝るまでの数時間の恋人。 彼に愛情はないけど、こんな私を必要としてくれるのが嬉しかった。 「花、明日の休み出かけよっか?2人が付き合った場所に行こう」 「うん」 彼がまた私の髪を愛しく撫でる。 私は明日出かける事をメモに残し、温かいぬくもりに身を任せながら瞼をゆっくりと閉じた。
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