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3
眩しい日差しがカーテンの隙間から顔を出し、瞼を開けると知らない男の人が隣で眠っていた。すぐにスマホを見る。
〝彼は海野光くん、私の恋人〟
〝今日は彼とお出かけをする〟
今日は恋人とお出かけ。
気持ち良さそうに寝息を立てる寝顔を覗き込む。彼が私の恋人。私は手のひらで柔らかい髪をそっと撫でた。
知らない内に冷蔵庫を開け、バターや砂糖、小麦粉、ボウルなどを出していた。バターをボウルに入れて、泡立て器で混ぜていく。不思議だ。手が勝手に動いていく。
「光くん、クッキー喜んでくれるかな?」
「んーいい匂い!おはよー花。何作ってるの?」
「今日、光くんとお出かけするからクッキー作ってるんだよ。一緒に食べようね」
「花のクッキー大好きだよ。ありがとう」
彼は少し驚いた後、目を細めて微笑んだ。
毎日眠ると記憶がリセットされる事を聞いた。ショックだった。「大丈夫。思い出の場所へ行けば失った記憶が戻るかもしれない。だから出かけよう!」と彼は言ってくれた。
思い出の場所——それは海だった。
潮風が頬を撫でて、ざらざらした白い砂が舞ってキラキラ煌めいた。どこまでも遠く伸びている水平線。青い空と深い青の境い目はぼんやりとぼやけている。
彼が私の手を握りしめて呟く。
「ここが花と初めてデートした場所だよ」
「そうなんだ。すごくキレイ!空も高いね!」
この潮風の匂い、知ってる気がする。
私たちは砂浜に腰を下ろし、作ってきたクッキーを頬張った。「うん、美味しい!」光くんが隣で嬉しそうに笑う。
口に広がるクッキーの甘さ。
海風が連れてくる空気感。
優しく微笑む彼の顔。
やっぱり、どこかで……
「きゃっ!」
白い砂が舞い上って目の前を遮った。
「花、大丈夫?」
彼が私の顔を覗き込む。
〝花ちゃんが好き〟
頭の奥でそう聞こえた気がした。
彼の唇が私の唇に優しく触れた。
「光、くん?」
彼は泣いていた。
「あの日も砂嵐が舞って、君にキスをして告白をしたんだよ。花は照れ臭そうに笑って、頷いてくれてすごく嬉しかった」
少しずつ、思い出せそうなんだけど……
光くんの事はまだ思い出せない。
「まだ思い出せないんだね。花と居ると辛い、苦しいよ。だからもう、恋人のふりしなくてもいいよ」
「え?」
「何にも思ってない男と居るなんて嫌だよな?でも最後に僕にチャンスをくれないか?」
彼は私にチケットを一枚渡した。それは飛行機のチケットだった。
「明日から休暇を取った。もし僕を必要としてるなら、一緒に海外に行って欲しい。記憶がリセットされて、それでも一緒に行きたいなら明日返事をして欲しい。迎えに行くから」
彼の目は一途に私を見つめている。
真剣な眼差しから目が離せない。
私を本当に愛しているんだと感じる。
「分かったよ、明日の朝返事をする」
私は忘れない様にメモを取った。
夜、ベッドにはいつもの彼は居ない。
〝一緒に海外に行って欲しい〟
彼の言葉が頭の中をこだまする。
「どうか、神様……記憶を奪わないで」
私はそう祈り、愛しいぬくもりを思い出しながら瞼を閉じた。
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