手の中の温もりを感じて

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手の中の温もりを感じて

「ああ大丈夫大丈夫」 手を振る白髪の男性の前には、優しそうな女性。笑いを噛み殺している。奥さんだろうか、口元に手を当てていた手を振って、「この人、石頭だし、大丈夫だから気にしないで。ほら、あなたももっと前に腰掛けて。狭いんだから。ご迷惑よ」 「わかった、わかった」 イスをガガッと前へ引き寄せる。 「まったくもう、自分のことしか考えてないんだから」 「すまんすまん。君も悪かったね」 「いえ、こちらこそすみませんでした」 老夫婦のその穏やかなやり取りに、大同の胸がほわりと温かくなる。 夫婦円満。 絵に描いたような温かさ。チャラくてナンパな今の自分では、手に入れることはとうてい叶わない。 遠い。遠すぎる。自分との距離。その遠くかけ離れたものを考えて、大同はそんな自分を少し苦く思った。 席に戻る。すると今度は無表情のままのひなたが、謝ってくる。 「……驚かせてしまって、ごめんなさい」 「あ、いや、別に大丈夫だから」 「そんなに驚くとは思わなくて」言った瞬間、口元がもにょもにょとなった。 鉄面皮はなかなか崩れないと思っていたが、今回は人に頭突きを食らわせてしまったのが功を奏し、どうやら崩すのに成功したようだ。どう見ても、笑いを噛みしめている。 人の手柄だが、嬉しかった。 それでも先日の失敗もある。大同はバツが悪いというようなスタイルで手を頭に当てた。 「あはは、失敗失敗」 「……ふ」 ひなたの口角が上がったり下がったりしている。そんなひなたを見て、大同はへらっと笑った。 (やべえ、嬉しいかも……と、いかんいかん) 直ぐにも顔を戻す。真剣な表情で訊き直した。 「に、乳がん?」 ひなたも一瞬で戻す。 「はい。でも悪いところは全部取りました。それから抗がん剤治療を。それでこの髪型に」 「そ、っか」 コーヒーカップを持ち上げた。想像していたものがその通り過ぎて正直、動揺した。コーヒーの苦味も香りも感じない。 なんと言っていいのかがわからない。思っていた通りの自分に陥って、自分を情けなく思った。 「大丈夫だから、気にしないでください」 はっとして、ひなたを見ると、ひなたは真っ直ぐに大同の目を見つめている。 「私、ちゃんと生きてますから」 ぎょっとした。 ちゃんと生きてますから。 そのある意味、残酷な言葉に。 ひなたの目が、緩やかに優しく、瞬いた。 そしてその力強さ。それはまさしく『生』の輝き。 なにかが大同の身体を一瞬で駆け抜けていく。(いかづち)に打たれたのだと例えて、間違いない。 (なんだろう、これは……この、感覚は?) 改めて見た。ひなたの瞳。真っ直ぐに見れば見るほど、淡い色に染まっていく。そのまま吸い込まれてしまいそうな、そんな錯覚すら覚えた。 「大丈夫だから。気にしないでください」 もう一度言った大丈夫の言葉。その力強い声に促され、大同は今度はしっかりと頷いた。 そして、心を決めて立ち上がる。 「行こう」 大同はカバンを取ると、中から財布を出す。キョトンとした、ひなたの顔。 「行こう」 もう一度言う。 「……突然ですね」 ひなたの顔に薄っすらとした笑みが浮かんだ。 (……もしかしたら結構、笑う子なのかもしれない) それならやっぱり。もっと、笑うところを見てみたい。大笑いした顔を見てみたい。 「どこへ?」 その柔らかい返事に大同は満足して、ひなたの手を取った。 「ついておいで」 ぐいっと手を握って引っ張ると、ひなたが自然に身体を立ち上がらせた。 こんなにも。 人の体温は温かい。 久しぶりに握った体温は、手の中でひとつの温もりとなって、いつまでも大同の中に残った。
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