命の、その先

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命の、その先

(はああ、本番だあ) モエの気合の入ったメイクを終わらせてから、ひなたは「りく」の店長サオリが選んだ深紅の服を着た。 鏡の前で佇む。 (髪も、ずいぶんと伸びたんだなあ) その髪は栗色に染められ、美容師の滝田の手によって、ベリーショートのくせっ毛風に散らされている。 「せっかく、ここまで伸ばしたのにだけど、もうちょっと切っちゃっていい?」 「はい、全然、構いませんから」 滝田が苦笑しながら言うので、ひなたも苦笑で返した。二人で苦く笑いながら相談した結果の、この髪型だ。 鏡の中の自分を再度、見る。 「金魚みたい」 上から下まで、赤一色だ。 ひなたは、側に置いてあったバックから、ピンクのリボンを取り出した。ピンクリボンは乳がん検診を促す、シンボルマークにも使われている。 ひなたはそのリボンをぐっと握ると、声が掛かるのをその場で待った。 ♢ ♢ 「うそ、」 二の句が告げられない、というのは本当だった。隣に座る母親の口からも、言葉は出なかった。 「乳がんです。他への転移があるかどうかも、調べていきましょう」 パソコンの画像を見ながら、白衣をだらしなく着崩している男の医師は、そう告げた。 「乳房切除術をしてから、その後に抗がん剤治療する流れでいきたいですが、いかがですか?」 いかがですかと訊かれても、何も浮かばないし、頭は真っ白だ。 ひなたは隣にいる母親が、そろりと手を伸ばしてきて、ひなたの手を握ったことで、現実を突きつけられた気がした。 母親の手が震えていたのだ。最初はそう思ったが、今思えば自分の手の方が震えていたのかも知れない。 「命は、」 ひなたが声を絞り出す。掠れて聞き取りにくかったのだろう、医師がはい? と、もう一度訊いた。 「私の、命は助かるんですか?」 隣に座っている母親の顔が、跳ね上がってひなたを見た気がした。それでも、ひなたは言葉を続けた。 「私、……死んじゃうんですか?」 言葉は一度発すると、思ったより直ぐに口から出る。その時、一番に訊きたいことを最優先で、しかも端的に訊いたのだと思う。 医師は苦笑しながら、癌の進行具合を表すステージや乳房切除術の詳細が載ったパネルを出してきた。 「頑張って治療しましょう」 そう言ったに留めた言葉と慎重に言葉を選ぶ仕草で、医師の立場では「助かる」と断定できないことを知った。 治療計画が決まると直ぐにその計画は実行され、あっという間に乳房を失った。腕をそっと上げるだけでも、ひきつれを感じる。 何度も、泣いた。ほぼ毎日。涙が流れ落ちた。 人間の涙タンクは枯れることがないんだなあ、どうなっているんだろう、些細なことをネットで調べては気を紛らわせていた。 一つを失ったことで、何もかもを失ったように思えて仕方がなかった。 夜もあまり眠れなかった。とにかく、寝つきも悪いし、夢見も悪い。 ようやく眠れたと思っても、グラグラと足元の覚束ない塔の上で、なんとか落ちないように両手を広げてバランスを取っている自分の夢を見ては、その恐怖で夜中に飛び起きる、というのを繰り返した。 転移がなかっただけでも、神さまに感謝しなければと思い、無理矢理にそう思い込むようにして、その虚しさにまた泣いた。 「五年、様子を見ましょう」 次には白衣の前ボタンをきちんと留めた医師に、そう言われた。
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