渇望

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渇望

五年という長い歳月を。 気の遠くなりそうなその五年を、再発の恐怖に震えながら、生きなければならないのかと思うと、どうひねり出そうとしても自分の中からは絶望しか出てこない。 時には、生きよう、と思う。 その半時間後には、この若さで死ぬなんて、と思う。 どうして私なんだろう? 自分ではどうしようもならない怒りに支配されることもある。 辛さや息苦しさから食欲は減り、体重も減ってガリガリになった自分を見る。このままでは乳がんでなく栄養失調で死ぬかも、そう思ったら少しだけ笑えてきて、大好きなアイスクリームをバカみたいに際限なく食べた。 (おっぱいがなくても人間って、こうやって食べては生きていくんだなあ) コンビニの、どこにでもあるソフトクリームを買い食いしていたある日、ようやくそう思えるようになった。 この日から、自分の命の恩人は、ソフトクリームなのだ。 そして急いで家へと帰り、乳がん患者専用の下着をつけて、姉に借りたブラウスを羽織った。 このブラウスは、姉がショッピングモールで見つけて母親に買ってもらったものだ。 白い色の、肌触りの良い生地でできた、細身のデザイン。襟元に、パールが施してあり、見た瞬間、あ、これお姫さまが着るやつだ、と思った。 自分も喉から手が出るほど欲しかったが、サイズは姉にぴったりで、そうなると三つ歳下の自分には、大き過ぎてぶかぶかだ。 心から欲しいと思うものを、自分ではどうしようもできない理由で諦める、という経験。その時、初めて人生はままならないということを知ったような気がする。 「お姉ちゃん、このブラウス、貰っちゃだめかな」 ソフトクリームに救われた日。 姉はそのブラウスに飽きていたのかもしれない。いや、病気になった妹を不憫に思ったのかもしれない。快く譲ってくれた。お下がりには慣れていて、それも嫌だとは思っていたけれど、そのブラウスは特別だったから、貰えたことが嬉しくて仕方がなかった。 着られなくなる日が来るかも、そう思うとサイズなんて、気にしてはいられない。 「ひな、あんたにこれ」 抗がん剤治療が始まり、髪がすっかり抜け落ちてしまうと、姉と母がニット帽やウィッグを買ってくれた。治療の副作用のようなもので体調が思わしくなく、付き合っていた彼氏とも別れてしまい、自宅に引きこもっていた頃だ。 最初はウィッグなどは気恥ずかしいのも手伝って、ニット帽ばかりを愛用していた。 けれど、姉にもらった白いブラウスを着ると、そのニット帽はまるで似合わない。さらにロングスカートを履くと、やはりウィッグの方がいい。 そして、そのブラウスを着ると、不思議と外へと飛び出していきたくなるのだ。 あの日もそうだった。ウィッグを被って、衝動的に外へと出掛けた。 久しぶりに地下鉄に乗る。見知らぬ駅で降り、そして階段の多さに辟易しながらも、地上に出る。 外へ出て、陽の光を浴びるように、深く息を吸う。深呼吸。 単純に、それだけで気持ちが良い。 二、三歩進むと、目に飛び込んできたのは、大型ビジョン。 可愛らしい洋服を着た若い女優が、ウィンクをしている。生き生きしたその表情は、久しぶりに外へと出た自分には、とても眩しいものだった。 (ああ、生きてるんだなあ) その女優は、健康で。 けれど自分は、乳がんで。 それなのに、どちらも同じように生きている。 涙が出そうになった。 その涙こそが、生きている(あかし)。 (当たり前なんだ、当たり前に生きてるんだ) それが。 これからも、どんな辛いことでも。 乗り越えるというよりは、受け入れる。それができるかもしれないと思った瞬間。 (それで、あの時。匠さんに出逢って……) 大型ビジョンの前で声を掛けられて、内心驚いた。 スーツ姿。ずいぶんと歳上。その顔は整っていて、背も高い。スラックスのポケットに手を入れて、立っている姿にちょっとした貫禄を感じて。 ああ、大人の男の人だなあ、と思った。 最初、壺や数珠か何かを買わされる、セールスかと勘違いをした。それが大型ビジョンで見ていたCMの会社の社長だとは、夢にも思わない。 ちょうど、車のクラクションで聞こえなかった女優のセリフが何だったかを訊くと、「『I need you』って言ってるんだよ」と優しく返してくれた。 (キミが必要だ、……あの時、その言葉がぐっと胸に入り込んできたんだっけ) 愛する人からそう言われたら、どんなに幸せなのだろう? それこそ生きるに値することなのだと感じられるのかもしれない、と。 もう一度、CMを見た。 生きたい、そしてそう思った。
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