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ありがとう
苦く思った。単なるヤキモチだということはわかっていても、これだけは譲れない。
諦めたくない。
生きることも含め、全てのことを。
心を決めて、ロビーへと歩き出す。
(……挨拶して、それから、)
恋人だという紹介はしてはもらえないかもしれないが、匠さん、と名前呼びすれば多少の牽制になるだろうか? そう考えながら歩いていく。すると大同が振り返ってひなたを見つけた途端に。
「ひなちゃんっ」
満面の笑顔で、寄ってくる。すると、あろうことか大同は、ひなたをぐいっと抱き上げて、頬にキスをしてきた。
そのまま持ち上げて縦抱きにされ、ひなたは慌てて大同に掴まった。
「えええ、ちょ、大同さんっ」
「あ、あれ? 名前、名前呼んでくんねーの? あ、外だから? 別にいいじゃん、外でもさ。恥ずかしがんなよなー」
そして、くるっと向きを変える。ひなたを抱えたまま、先ほどまで話していた女性二人に声を掛けた。
「ひなちゃん来たから、俺もう帰るわ。じゃあな」
「はーい、またね」
「可愛い恋人ちゃんと、ごゆっくりー」
「旦那によろしくな。気をつけて帰れよ」
そして、エレベーターへと向かう。
「ひなちゃんのモデル姿、ちょう綺麗だった」
「み、見たんですか?」
「もちろん見たっ、見たよー! この髪型、くるくるしてて可愛いな」
「お仕事終わってから来るって言ってたから……」
「もちろん、午前中で全部終らせたっての」
「そんな早くに……じゃあ、最初から?」
「そうだよ。鹿島んとこみたいに、うちには口うるせえ秘書さんがいねえから、その点はラッキーなんだよ。全部、オレ勘定で仕事してるから、午後はこうやって休みにもできるんだぜ」
エレベーターのボタンを押す。
「あ、あれ? どこ行くんですか?」
「もちろん、デートだよ。さっきのレストランで飯でも食おう」
すとんとひなたを下ろして、大同は開いたドアからエレベーターに乗り込んだ。ひなたが乗ると、押していた『開』のボタンから手を離す。
「もちろん部屋も取ってあっから、今日はお泊まりな。ちゃんとお母さんに電話しろよ、あはは」
大同が笑う。ひなたも笑ってから、大同に抱きついた。
「……ありがとう」
単純に嬉しかった。自分を、恋人と紹介するどころか、みんなの前でなんの躊躇もなく可愛がってくれた。
(……こんな私なんかを)
大同と一緒にいると、時々そう思うことがある。 けれど、そう思うのはもう止めよう。そして、大同の隣を胸を張って歩けるようになろう。
ありがとうと、もう一度、呟く。
くぐもった声だが、大同には聞こえただろう。背中に腕が回って、大同が耳元で囁いた。
「それな、俺のセリフ」
ひなたは目を瞑ると、エレベーターが最上階に着くまで、その声と体温を堪能した。
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