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抱えて生きていく
「別れてもらえませんか」
安っぽいドラマのようなセリフだと思った。それが、ひなたの口から出ているとは、到底思えなかった。あまりに唐突すぎて、大同は言葉を発せない。
「私では、……大同さんの家族になれないから」
言葉に芯の強さを感じた。いや、感じてしまった。思いも寄らぬ、別れの言葉だった。
何を言われているのか、何を言っているのかを、理解することができないほどの衝撃。幸せに思った温泉旅行から帰って、わずか一週間後のことだったからだ。
いつものように、うきうきと仕事から帰る。
そこにはもちろんひなたが居て、いつものように手料理を作って待っていて。幸せに包まれながらご飯を食べ、そしてひなたとじゃれ合い、一緒のベッドで眠る。
(ああ幸せだなあ)
噛みしめる。そんな幸せな日々。
けれど今回は様子が違っていた。いつもなら帰宅した玄関で、晩ごはんの匂いが漂ってくるはず。不審に思いつつ、リビングのドアを開けると、そこには正座したひなたの姿。
「ただいまー」
ひなたの姿にほっとしたのもつかの間。硬い表情に、直ぐになにかあったのかと察したほどだった。
リビングのテーブルの上には、誕生日にあげたキーケースが置いてあった。その膨らみから、中にはまだスペアキーが入っているままだと、容易に想像できる。その前に正座をして、ちょこんと座っていたひなたからの別れの言葉。
「な……な、んで」
「……ごめんなさい、」
心当たり。もちろんある。不用意に口に出してしまった、あの言葉。
「お、俺が結婚とかって、言っちまったから?」
「違、……ううん、そうかも知れない……」
「……じゃあ、ひなちゃんはこの前の旅行の時、さ、……あの時もう別れるってこと考えていたんだ」
「……考えて、いました」
頭をガツンと何かで叩かれたような衝撃があった。
「…………」
何が何だかわからない怒りが湧いてきた。一言でも発すれば、爆発してしまう、そんな怒りをぐっと抑える。
「ごめんなさい」
ひなたは何度も謝ってくる。けれど何に対しての謝罪なのかも、大同にはわかってはいない。
俯いて、伏せられた瞳。その瞳をもう覗き込めないのかと思うと、途端に現実味が湧いてきた。
「……だ、誰か他に、好きなやつでも、」
震える声。やっとのことで、絞り出す。
「違います」
「こんなおじさん、嫌になった?」
「違う」
「結婚なんてしなくていい、」
「そんなのダメですっっ」
ひなたの悲痛な顔。
(……どうして、)
「乳がんって、再発の可能性があって……」
ひなたの声が、ふるっと震えて聞こえた。
「手術や治療で、おっぱいも髪も失ってまで治療したのに、まだ五年、様子を見てなきゃならなくて……それなのにまだ、一年しか経ってない」
吐き捨てるように言った。
「その一年、俺とじゃ楽しくなかった?」
弱々しい声が出て、大同は自分でも驚いた。こんなのは自分の声じゃない。頭の中でぐわんぐわんと響いて、消えた。
「……楽しかった」
「だったら! これからの四年もそうやって過ごそうよっ」
声が裏返ったが気にせず、大同は言った。喉がひりと痛んだ。
「俺と生きるんじゃ、だめなの? ひなちゃんが好きだから、一緒にいたいんだ」
「まだ四年もあるんですっっ! その間、私が相手じゃ、子どもだって作れないっっ」
しん、と空気が張りつめた。
「……こ、子ども?」
「再発して、もし私が死んじゃったら、赤ちゃんが可哀想で。そう思ったら、安心できるのは四年後で。その時、匠さんは四十歳になる。家族になるのをずっとずっと待って待って、それなのに再発したら匠さん、もう二度と家族は持てなくなっちゃうっ」
「……ひなちゃん」
「四年をドブに捨てるようなものなんです」
カッと怒りのまま、大同は声を上げた。
「ひなちゃんと生きる四年だぞっ! ドブなんかに捨てるような、薄っぺらいもんじゃないっっ」
「そ、それにっっ!」
ひなたが負けじと声を張り上げた。荒くなった息を整える。ひなたは深呼吸を何度か繰り返すと、落ち着きを取り戻したかのように、続けた。
「……それに、乳がんは……遺伝……遺伝するかも知れなくて、」
悲痛な顔。そのひなたの顔に、ずきっと心臓が痛んだ。
「もし、赤ちゃんができて、産まれるのが娘だったらって思うと、」
思わず、大同は側にあったひなたの手を握った。ひなたは、それを振りほどかなかった。
「怖いんです、怖いの、自分の命にも責任が持てないっていうのに……こんなに怖いのに、自分の子どもなんて持てない、持てないよう……」
わっと涙が溢れ出て、嗚咽を抑えられずに、ひなたは大声で泣いた。
「た、匠さんに、私、か、家族、を作ってあげられない、あげられない、んです、」
悲痛に顔を歪ませて、泣きじゃくる。
もちろん大同は、ひなたがこんなにも自分を忘れて慟哭するのを、今までに見たことがなかった。表情の乏しい、体温の低いひなたからは、想像ができないほどの激しさだ。
乳がんを乗り越え、強い意志とそれが宿る強い瞳。そんな淡い色の瞳で真っ直ぐ前を向いて生きている。そう思っていたし、その姿に惹かれたのも事実だ。
(……けれど、こんなのは当たり前だ。これが普通なんだ)
ひなちゃんだって、ただのひとりの人間なんだ。
大同は、そんなひなたをぐいっと抱き締めた。ひくひくと波を打つ背中に手を回す。大同は優しく、その背中を撫でた。
「ひなちゃん、ひなちゃん、」
ひなたの髪に、顔を埋める。ふわ、と鼻の奥に滑り込んでくる、ひなたの匂いに、軽く目眩がした。
(ひなちゃん、俺の、俺のひなちゃん、)
大同は何度も、その愛しい名前を繰り返した。
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