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別れ
「わかった」
たった一言だった。
ぽつん、と置いてきぼりだったスペアキーに、大同が手を伸ばして取る。それをそっと上着のポケットに滑り込ませていたのを、遠くに見ていた。
そのまま、ひなたは大同のマンションを後にした。
(……匠さん、私が泣き止むまで、抱き締めていてくれた)
そう思ったきり、帰り道をどう帰ったのかわからないくらいに、意識を失くしていた。ノブに手を伸ばしたところで、ああ、家に帰ってきたんだな、と思う。
玄関に入ると、リビングで心配そうに待っていた母親と姉に一言、話す。そのまま二階へと上がって自室に入った。
カバンを置くと、ベッドに潜り込む。
涙が、また溢れてきた。
手を伸ばしてサイドテーブルに置いてある箱ティッシュを取ると、ベッドの布団の中へと引っ張り込んだ。
「私の涙タンク、どうなってるんだろう」
きっと壊れてる、そう思ったら急に可笑しくなってきて、少し笑ってから目を瞑った。
この苦しみはいつになったら、終わるのだろう?
乳がんと知らされてから、ずっと続いているような気もするし、それを大同に助けられて、いったんは救われていたような気もしている。
胸が潰れそうなくらいに、痛んだ。
居ても立っても居られない気持ちは、布団の中で丸くなることで、自らを縛る。
「何か、他のことを考えなくちゃ。他に楽しいことを考えなくちゃ」
途端。
大同と行った温泉旅行が、宝物のように蘇ってくる。
「匠さんには悪いことしちゃったな……」
ごめんなさいと、何度だって謝まりたい。許してもらえないのはわかっている。それでも。何度もごめんなさいと心で繰り返す。
(ごめんね、匠さんとの思い出が、どうしてもどうしても欲しくて、)
別れなければならないとわかっていて行った温泉旅行。
ごめんなさい、匠さん。
自分の都合で匠さんを傷つけた自分を、きっと一生、許せない。
ひなたはベッドの中、深い暗闇へと潜り込んだ。
✳︎✳︎✳︎
「大同、おい、大同っ」
聞き慣れた声で、振り返ると顔を歪ませて、同じパーティーに参加している鹿島が立っていた。
「お前、ひなたちゃんと別れたって、本当か?」
「あ、うん、……まあな」
答えてから大同は持っていたワイングラスの中身を、あおった。
(まずっ、ナニコレ)
慌てて口を拭うと、近くを通ったボーイにグラスを渡し、代わりにシャンパンを取る。
「どうしたんだ、何があったんだ?」
「ん? ああ、ちょっと失敗したのもあってな。フラれたんだ」
「フラれたって、この前旅行に行ったばっかじゃねえか」
「ああ、もうそん時にはフラれる予定だったらしい……」
ははと自嘲気味に笑う。
「……いいのか、お前はそれで」
鹿島が声を低く落として問う。
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