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届かない
「ただいまあ」
誰もいない部屋に向かって、声を掛ける。鍵をかけると、大同はエアコンのスイッチを入れた。
どこからともなく、ニャアと鳴き声が聞こえてくる。
「おう、チビ助。帰ったぞー」
カバンをソファに投げて、スーツを脱ぎ、スウェットに着替えると、棚から猫缶を出してきた。
「メシ、食おうぜ」
足にまとわりついてくる仔猫を、抱き上げる。すると、仔猫は身体をくねらせるようにして、大同の腕からシンクの上へと飛び降りた。
「つれねえなあ……もうちょっと優しくしてくれ」
猫缶をそのまま皿に乗せて差し出す。
「おおっと、お前までネグレクトとか言うんじゃねえぞ。ただ、皿に出すのがめんどくさいだけだからな」
笑いながら、丸くなった背中を撫でる。
「なあ、チビ助。さっき、『ヒナ』の新しい動画見つけたから、後で一緒に見ような」
大同を無視しながら、顔を猫缶の中に突っ込んで夢中で食べる仔猫の頭を撫でると、大同は冷蔵庫から買い置きしてある惣菜を出して、電子レンジの中へと放った。
レンジのボタンを押してウィーンと言わせてから、冷蔵庫からさらにビールを出した。
「おっさんは、これこれ」
缶ビールをゴクゴクと喉を鳴らしながら飲んでから、電子レンジに入れた惣菜パックを取り出すと、ソファの前に座った。
惣菜を口の中に詰め込んでから、カバンから取り出したタブレットを見る。スクロールし再生すると、動画が動き出した。アップテンポな音楽が流れる。
「……ひなちゃん、相変わらず綺麗だ」
ピンクリボンデーに行われたイベントで開かれたファッションショー。モデルとして参加したひなたを、数ある動画の中で見つけていた。
ランウェイを歩く姿。その体温の低い、表情の乏しい顔。
「くくっ、ひなちゃん、相変わらず君の表情筋どうなってんのよ」
それでも、その端正な顔と真っ直ぐな瞳で、モデルとして人気が出てきている。ファンは多い。その中でも特に、若年層に多大な影響を与えているそうだ。
ひなたの顔が世間に浸透すればするほど、反対に『ヒナ』としての情報は減っていった。
SNSなどの発信はない。そしてもちろん乳がんのことは暗黙の了解的な話ではあるものの、正式に自ら乳がん患者だと公表も公言もしていない。インタビューもプライベートな取材も受けず、口コミでもらった仕事を地道にこなし続けている。
ただ、ひたすら。
ピンクリボンを手首に結び続けて。
その意志の強さ。
「ベールに包まれたプライベートだなんてなあ、カッコよすぎだろ」
ビールをあおる。
猫缶を平らげた口を舌でペロリペロリと舐めながら、仔猫がソファに座る大同の膝に乗ってきた。
「お、チビ助も一緒に見るか?」
ニャア、と鳴くと、「なあ、ひなちゃん美人だろー?」
大同が満足げな声を出す。
「俺の恋人だったんだぞー。すげーだろ? あ、お前え、その顔は信じてねえな」
仔猫がもたげた頭を、ぐいっと押しつけてくる。
「あーあイケメンモデルの彼氏の一人や二人、いるんだろうなあ」
前から美人だったが、それほどに最近のひなたは綺麗になった。
頭をガシガシと掻く。
「彼氏情報とか。小梅ちゃん、ぜってー教えてくんねーからなあ。まあ、聞きたくもねえけどさ」
情けない、と自嘲。
けれど、と思う。
結局、何度考えても辿り着くのは、そこなのだ。
(……いいんだ、ひなちゃんがこうして元気でいてくれるだけで、俺は……)
大同はいつまでもタブレットの中のひなたから目を離すことはなかった。
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