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あっという間にゼロになる
「もう抗がん剤治療が始まってる。まずは薬物療法からだそうだ」
「……そうか」
ふ、と大同が弱々しく笑った。
「ん、どうした?」
「いや、ひなちゃん、また髪が抜けちゃうんかなあって」
「……たぶんな」
「せっかく、……生えたのになあ」
目頭が熱くなる。
初めて出逢った頃のひなた。
その時すでに髪は失っていたが、そんなことはへっちゃらだしなんていうことはない、とでも言うような瞳で、大型ビジョンを見上げていた。ハタノパートナーズの社員食堂で、着けていたウィッグを取った時もそうだった。
その瞳に宿る、ひなたの強さ。その強さに惹かれたのだと思っていた。
けれど。
(違う、そんなわけがないんだ……それを俺は勘違いして、なんて強い子なんだろうって……)
一から積み上げた希望が。一気に崩れ落ちて、あっという間にゼロとなる。
「やっとなあ……あんだけ伸ばしたのになあ」
口からそう絞り出すと、もう言葉は出てこなかった。
嗚咽だけが、震えた声が、タクシーの中に小さく響いた。
✳︎✳︎✳︎
ベッドの上で目を開けると、自宅の天井だった。
(夢か、)
けれど、身体を起こそうとして、腕も頭も鉛のように重いことを知ると、それが現実だと知る。
顔の皮膚も引きつっていて、それは目の周りに顕著に現れていた。泣いていたんだな、ずっと。
(そっか、夢じゃねえんだ)
顔を横に向けると、隣で仔猫が丸くなっている。
大同は、その背中に手を伸ばしたが、指先が届く前にやめた。
(起こしちゃ、悪いか)
伸ばした手を戻す。
天井に視線をやると、所々に茶色にすすけた染みがあるのに気がついた。
(そういやあ、昨日鹿島と飲んだ居酒屋の天井にも、こんなような染みがあったなあ)
その染みが。
癌細胞のように広がっていくように思えて、大同は慌てて目を瞑った。
「やめろっ! ……くそっ」
大同のその声で仔猫が起きたのか、ごそごそと寄ってきてその場でくるりと回ると、最後に尻尾で大同の頬を撫でてから、ベッドから軽々と飛び降りた。キッチンから、ニャアニャアと催促する声が、何度も聞こえてくる。
「わかったわかった、飯だろ」
鉛のような身体をようやく起こす。
「そうだな、飯食わねえとなあ」
食パンをトーストしている間に、猫缶を開ける。焼きあがったトーストにバターを乗せて溶かし、コーヒを淹れた。
いつもの朝食の光景だ。けれど、いつもと同じではない。見慣れた部屋の景色も、がらりと変わり、色褪せた。
「なあ、チビ助。お前はどう思う?」
顔を突っ込んだ猫缶が前へとずれると、仔猫はそれを口で定位置に戻して食べる、を繰り返している。
「うん、会いたいよなあ。やっぱ、そう思うだろ?」
トーストの角を口に押し込む。もぐもぐと咀嚼すると、コーヒーの香りがようやく鼻の奥に届いた。
それだけで、やっと気が落ち着いた。
「なんでだろうな、会いたいんだ。会いたくてしょうがねえんだよ」
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