あっという間にゼロになる

1/1
前へ
/84ページ
次へ

あっという間にゼロになる

「もう抗がん剤治療が始まってる。まずは薬物療法からだそうだ」 「……そうか」 ふ、と大同が弱々しく笑った。 「ん、どうした?」 「いや、ひなちゃん、また髪が抜けちゃうんかなあって」 「……たぶんな」 「せっかく、……生えたのになあ」 目頭が熱くなる。 初めて出逢った頃のひなた。 その時すでに髪は失っていたが、そんなことはへっちゃらだしなんていうことはない、とでも言うような瞳で、大型ビジョンを見上げていた。ハタノパートナーズの社員食堂で、着けていたウィッグを取った時もそうだった。 その瞳に宿る、ひなたの強さ。その強さに惹かれたのだと思っていた。 けれど。 (違う、そんなわけがないんだ……それを俺は勘違いして、なんて強い子なんだろうって……) 一から積み上げた希望が。一気に崩れ落ちて、あっという間にゼロとなる。 「やっとなあ……あんだけ伸ばしたのになあ」 口からそう絞り出すと、もう言葉は出てこなかった。 嗚咽だけが、震えた声が、タクシーの中に小さく響いた。 ✳︎✳︎✳︎ ベッドの上で目を開けると、自宅の天井だった。 (夢か、) けれど、身体を起こそうとして、腕も頭も鉛のように重いことを知ると、それが現実だと知る。 顔の皮膚も引きつっていて、それは目の周りに顕著に現れていた。泣いていたんだな、ずっと。 (そっか、夢じゃねえんだ) 顔を横に向けると、隣で仔猫が丸くなっている。 大同は、その背中に手を伸ばしたが、指先が届く前にやめた。 (起こしちゃ、悪いか) 伸ばした手を戻す。 天井に視線をやると、所々に茶色にすすけた染みがあるのに気がついた。 (そういやあ、昨日鹿島と飲んだ居酒屋の天井にも、こんなような染みがあったなあ) その染みが。 癌細胞のように広がっていくように思えて、大同は慌てて目を瞑った。 「やめろっ! ……くそっ」 大同のその声で仔猫が起きたのか、ごそごそと寄ってきてその場でくるりと回ると、最後に尻尾で大同の頬を撫でてから、ベッドから軽々と飛び降りた。キッチンから、ニャアニャアと催促する声が、何度も聞こえてくる。 「わかったわかった、飯だろ」 鉛のような身体をようやく起こす。 「そうだな、飯食わねえとなあ」 食パンをトーストしている間に、猫缶を開ける。焼きあがったトーストにバターを乗せて溶かし、コーヒを淹れた。 いつもの朝食の光景だ。けれど、いつもと同じではない。見慣れた部屋の景色も、がらりと変わり、色褪せた。 「なあ、チビ助。お前はどう思う?」 顔を突っ込んだ猫缶が前へとずれると、仔猫はそれを口で定位置に戻して食べる、を繰り返している。 「うん、会いたいよなあ。やっぱ、そう思うだろ?」 トーストの角を口に押し込む。もぐもぐと咀嚼すると、コーヒーの香りがようやく鼻の奥に届いた。 それだけで、やっと気が落ち着いた。 「なんでだろうな、会いたいんだ。会いたくてしょうがねえんだよ」
/84ページ

最初のコメントを投稿しよう!

196人が本棚に入れています
本棚に追加