蕾摘み人 -つぼみつみびと-

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 その日から、私は懊悩した。  絵の修行の傍ら、先生に隠れ、手の内にこっそりと納めた名刺を見ては、絵の勉強を外ですることを夢想した。  先生の工房で修行することが嫌になったわけではなかった。だが、外の世界で自分の力を試してみたい気持ちがあった。  しかし、先生は許さないだろう。先生は、私の可能性を自らの手で花開かせたいのだ。それが最近、とみに身体の不調を訴えがちの先生の生きる目標となっていることは、私が一番よく知っている。  だが、結局、私は我慢できなかった。ある日、画材を買いに行くと偽って、名刺に印された住所の地、根津に私は足を向けた。そしてそこであの男性に接すると、入学試験の段取りを付けて貰ってしまったのだ。  それから暫く、先生に嘘をついていることに対する罪悪感で、はらはらしながら、先生の前で絵筆を振るう日々が続いた。私は先生の前で、不自然な態度を取らないように心がけた。同時に、その罪の意識から、買い物に出た際は先生の好物である団子や素甘を買い求め、先生への土産にした。そして、先生がことのほか喜んで、上機嫌でそれらを口に運ぶ様子に、密かに胸をなで下ろしたりしていたのだ。後から思えば、浅はかなことながら。  試験の日が来た。  それは師走の寒い冬の日だった。私はその日、老母の様子を見に行きたいと暇乞いを先生にした。その願いを聞いた先生は、一瞬、私に何か言いたげな顔をしたが、次の瞬間には、ただ静かにいつもの口調で、私にこう告げてくれた。 「行ってらっしゃい。今日は冷えるから、気をつけて」  夕刻、試験を終えて帰ってきた先生の家は、真っ暗だった。  そして、先生の代わりに私の帰りを待ち構えていたのは、険しい顔をした警官だった。  警官は、予想もしないことに、ただただ慌てる私に向かって冷徹に言った。  先生は、その日の午前、神田川で入水自殺した、と。
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