氷解

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氷解

 食べ終わった蟹の殻は、人工着色料で染めたみたいな朱色で、流しの三角コーナーから飛び出している。生ゴミをまとめてゴミ袋に移す。プラスチックじみた冷たいハサミが指先に痛い。 「ヒロさん片付けてるの。マメだねー」  裕孝(ひろたか)の肩越しにシンクをのぞきこみ、和希(かずき)が笑った。ボクサーパンツ一枚の和希はしゃがんで冷蔵庫を開ける。足元に人工的な冷気が漂う。見下ろした半裸の背はまだうっすらと湿り、茶髪がうなじに張り付いていた。唇でたどった弾力のある肌の感触と、その微細な震えがよみがえる。 「氷もうほとんどないや。全部食べていい?」  和希が裕孝をふりあおいで聞いてきたので、裕孝は手元の蟹の殻に視線を戻して「いいよ」と答えた。冬になると氷など滅多に使わないから、新しく氷を作るのを忘れる。今製氷室にある氷は、一体いつ作ったものか。  製氷室の中の氷は、長期間放置し過ぎたせいでくっつきあって固まっていた。和希はその歪な氷塊を製氷室の壁からこそげ落とし、躊躇なく口に放り込んだ。白い歯が氷を噛み砕く。ガリ、と硬質な音がした。  セックスの後に氷を齧る。和希の奇妙な癖は、一年前、マッチングアプリで知り合った時から変わっていなかった。いつだったか理由を尋ねると、和希は「運動後に水一気飲みする感じ。熱くなったのを一気に冷やすと、終わったって感じがする」と答えた。裕孝にとって、和希が氷を噛む音は、いつもふたりの間にあるものの終わりの合図だ。だが終わるどころか、永久に始まることもないのかもしれない、と裕孝は思う。 「カズ、雨降ってるけど大丈夫か」 「うん、折り畳み持ってるから」  和希を見送るために玄関に出た。コートを着た和希は、白地にピンクのチェックが入った、女物のようなマフラーをぐるぐると巻きつける。二十七の男のくせに、そんな格好が似合ってしまうのだから美形は得だ。マフラーの端が後ろでぐしゃぐしゃになっているのを直してやろうと手を伸ばしたが、和希が振り返ったのでやめた。 「蟹美味かったわ、ありがと。俺も実家からうまいもん送られてこないかな」  スニーカーを履いた和希は、テーブルを指さした。今夜は北海道の実家から蟹が大量に送られてきたので、ひとりでは食べきれないから、と和希を部屋に招いたのだ。テーブルには、蟹の礼にと和希が持ってきた日本酒が置いてある。 「そのお酒、置いていくけど、ヒロさんひとりで飲み干しちゃだめだよ」  笑みをこめて言われた。「俺はおまえみたいなザルじゃない」と返しながら、にやけそうなのを必死で殺した。つまり、この酒を飲みにまた来てくれるということだ。見事に踊らされている自覚はある。おそらく和希の方はなんの意図もないだろうけれど。  和希が氷で冷ます熱を、自分だけが常に抱え続けている。  玄関の扉を開けたところで、和希のスマホが鳴った。電話に出た和希が「えっ」と声をあげ、スマホを両手で支えた。動揺した様子で二、三あいづちをうち、電話を切る。 「どうした?何かあったのか?」  和希は迷子の子犬のようにしおらしく眉を下げた。 「水道管が破裂したって。俺ん家、水浸しになっちゃった」
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