氷解

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 一時間後「お邪魔します」と言って和希が来た。走ってきたのか乱れた髪は、ところどころ水滴がついている。 「傘持ってなかったのか」 「いや、傘壊れちゃって。なんかいい匂いするね。鍋?」 「おでん。食うか?」 「いいの?」 「多めに作ってあるから」  和希と食べるつもりで、電話の後二人分のおでんの材料を買いに走ったことは言わないでおく。  向かいあって座りおでんをつつく。大根をひと口食べて、和希がほうと息をついた。 「あー、あったまる。染みるわー」 「外寒かっただろ。昨日はネットカフェなんかで大丈夫だったのか」 「ちょっと寒かったかな。狭くて乾燥してて、なんか久しぶりの感覚だった」 「久しぶり?」 「うん。学生のとき、ひとり旅行とか行かなかった?俺金ないからカプセルホテルとかネカフェとかよく使ってて。どこでも寝れるから大丈夫だと思ってたんだけど、やっぱアラサーになるときついわ」 「六つも若いやつに言われたくねえな」  返せば、和希はヘヘッと笑う。裕孝の大学時代といえば、勉強ばかりだった気がする。つくづく自分とは違う男だ。同じゲイでなければ関わることもなかっただろう。  昨日の酒を少しだけ飲んでから、先に風呂をもらった。身体を洗いながら、自然と鼻歌を漏らしていることに気づく。いつもは湯にちゃんと浸かるが、早く和希の顔が見たくなりすぐに上がった。髪を拭きながら風呂場を出る。台所から水音と皿の鳴る音が聞こえた。和希は皿洗いをしてくれているようだ。代わろうと声をかけようとした時、和希の苛立った声がした。 「だから、無理だって言ってるだろ」  裕孝はその場に立ち止まった。 「んもう、なんでよカズちゃんのケチー。そのひと、カズちゃんの友達なんでしょ。私も一緒に泊めてくれてもいいじゃん」  若い女の声だった。硬直した身体をなんとか動かして、和希の後ろ姿をのぞき見る。シンクの上のカウンターに、和希のスマホが置いてある。皿を洗いながら、スピーカーにして通話しているようだった。 「無理なもんは無理。一晩くらいなんとかしろ。というかアカネ、なんでこんな時間になって電話してくるんだ」 「だって水漏れなんてすぐ直って、今日は帰れると思ったんだもん」  スマホから女の甘えた声が流れる。 「もん、じゃねえよ。大家さんの話聞いてたの?業者が来るのは明日なの。もう危ねえからフラフラ出歩くな。実家帰れ」 「やだ、お父さんに会いたくない」 「一晩だけだっつうの。わかった、家には俺が連絡しとくから、な?」  諭すように和希が話しかける。ぶっきらぼうなようで優しい口調だった。かなり親しい間柄なのだろう、と裕孝は思い、不意に湧き出した感情に耐えきれず風呂場に飛び込んだ。  あの女は誰だ。  話の内容からして、一緒に住んでいるようではなかったか。昨日水漏れした、和希のアパートで。しかも実家に電話できるなんて、家族ぐるみの付き合いなのか?  目眩がして裕孝はその場にしゃがみ込みかけた。  いや、友達かもしれない。たまたま同じように水漏れしただけかもしれない。そもそも和希はゲイだ、女と一緒に暮らしていてもなんの問題もない。シェアハウスとやらもあるらしいし。  いや待て、和希がバイでないと、いつ言った?  そういえば、和希の家には一度も行ったことがない。  裕孝は目を固く閉じ、胸のうちの嵐を閉じ込めようとした。
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