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彼の名は…
男性『あなただったんですね!』
満面の笑みで私にそう言った。
私はどうしていいかわからずその場を逃げ出し走り去ろうとした…その時…
男性『あのぉ…お急ぎじゃなかったら少しお話ししませんか?』
私は足を止めた。だが、彼の方を振り向く勇気がない。
あまりにみすぼらしいこんな姿で彼の前に立っていたくはなかったからだ。
私は振り返らずに足早に立ち去ってしまった。
本心は彼に礼を言いたかった。
だけど…見られたくない。もっと別の形で出会っていたならどんなに良かっただろう。
普通に綺麗な洋服を着て化粧もして普通に生活をしてたなら…どんなに良かっただろう。
今の自分はあまりにも惨めでならない。
とても彼の前に立って居られるような身分では無いから…
だから…気持ちとは裏腹な態度を取ってしまった。
もうあの人は来ないだろう…親切にしてくれたのに…あまりにも酷い対応をしてしまったのだから…
自分の寝床まで戻ってそのまま横になった。
彼の声が、優しい彼の声がずっと頭に響いてる…
会いたい…あの人に会いたい…もう人間の心なんてとっくに捨てたつもりでいたけど、もう自分なんか人ではないと諦めていたけど、久々に人の心に触れたような気がして…
また来るかしら…
バカだわ、ほんとバカ…
何を考えてるんだろ!
ほんの少しでもバカな夢を見てしまった。
どんなに親切にしてもらっても、自分の生活はこれからも何も変わらないし、また醜い生き方を続けるだけなのだから、心なんてもう要らない…
どんなにそう自分に言い聞かせても、自分で自分をどうすることも出来ないほど彼が私の頭の中を支配してしまっているのだ。
あの人の声…
あの優しい声…
あの優しい笑顔…
もう一度だけ…
もう一度だけ彼に会いたい…
あってどうするわけでも無いけど…話してみたい…
いろんな妄想をして興奮して時間が経つのを忘れていた。
気が付けば辺りはすっかり暗くなっていた。
こんな長い時間彼のことばかり考えていたのかと自分で自分に驚いた。
ほんの少し会っただけで、少しだけ話しかけられただけで、何故こんなに頭から離れないほど考えてしまうのか不思議で仕方がない。
それだけ人の愛情に飢えていたのかも知れない。
喉が乾いてきたので川の水を汲んで飲もうと立ち上がった。
その時…
人の足音が聞こえてきた…
不意の出来事に心臓が飛び出しそうな感覚に襲われた。
聞き覚えのあるあの足音…
来たんだ!また来てくれたんだ!
今朝はあんな失礼なことをしてしまいなんとも気まずいところだが、彼が少し話しませんか?と言ってきたのだから、また声をかけられる可能性は十分に考えられる。
次こそはちゃんとお礼を言わなきゃ…
今度こそちゃんと失礼を詫びお礼を言わなきゃ…
そう思うのだがまだ心の準備が出来ていない。
緊張のあまり心臓が破裂しそうなほどに激しく脈打って身体が震えてきた。
もうすぐ近くに気配を感じる。
あれほど会いたいと切願したのに、いざそれが手の届くところまで来たら今度は逃げ出したくてたまらないのだ。
自分でもいったいどうなってるのかまるでわからない。
でも…
話をしてみたい…
忘れていた自分の中の乙女の心が熱く燃え上がろうとしている。
人の気配はまたガサガサと音をさせている。
私は暗闇の中段ボールで囲っている寝床からそっと覗きこんだ…
暗くてハッキリとはわからないが、朝出会った彼であると確信していた。
彼はしゃがみこんで手に持った袋を傾斜になった地面に置くとゆっくりこちらに顔を向けた。
私はとっさに首をすくめて息を殺した。
少しの間沈黙があったが、彼はゆっくり立ち上がっていつものように来た方向へと歩いていく。
ここで呼び止めなければもう声をかけるチャンスは無いかも知れないと思い、私は立ち上がって精一杯大きな声で…
私『あの!』
彼は立ち止まりゆっくりとこちらを振り返った。
私『あの…何て言うか…その…』
それ以上言葉が出てこない。
男性はゆっくりとこちらに歩いて来た。
そして
男性『やっと声が聞けましたね。今朝は驚かせてしまって大変失礼しました。』
優しく穏やかな声を聞いて、再び気持ちが昂る。
男性『先ずは自己紹介をさせて下さい。僕は松橋…真人(まつはし まさと)と言います。以後お見知りおきを』
人は名前を聞くと親近感が沸くものだ。
先ず好きな人の何が知りたくなるか…それは名前だ。
あの人は何て名前なんだろうから始まり何処に住んでいるんだろう、毎日どんな生活をしてるんだろう…徐々に知りたいことが増えていく。
まつはし…まさと…さん…
私の中で何かが弾けた。
もっと彼を知りたい。もっと彼に近づきたい。
私は深呼吸をし、段ボールの囲いから出て彼と話すことにした。
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