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神聖な自死
細い路地裏。耄碌した年寄りと、頭の飛んだ男たちが集まる、ゴミ溜めみたいな裏路地。その奥の奥。ずうっと奥の暗がりにある、ひとつの建物。
錆びたドアノブを捻ると、薄汚れた大理石にひとりの司祭が立っている。十字架を胸に抱いて、わらっている。
それは救い。
憎たらしい。
そんな感情は押さえつけて、こんにちはとあいさつをする。こんちには、と優しいような、作ったような声が返ってくる。
それでもその声は、心地いい。
司祭の横を通って、鉄の螺旋階段を上がる。吹き抜けの二階には、今時珍しい紙の本がたくさん並んでいる。
栞の挟まった一冊を手に、側の長机の前に腰を下ろす。
色褪せたステンドグラスから、ちょうど光が取り入れられる位置だ。机の上に飾られた偽物の花が、埃をかぶって眠っていた。
ああ。
もう、
いつからだっけか、ここに通うのは。殺された親友。名前も忘れてしまった。誰よりも大事だったはずなのに。
でも、ここに来たのは彼が死んでからなのは確かだ。
あの日は雨の日だった。酷い雨だったのに、身に受けた返り血だけは流れなくて、それが妙に悔しかった。
その日、ねぐらにしていた寂れたアパートに戻ると、彼が血の海で眠っていて、とても羨ましかった。銃は手元に落ちていて、体に空いた穴のまわりは火傷になっていて、ああ自死したんだなぁと感慨深く思う。
僕の方には穴なんて空いていないけど、なにかを落としてしまったような気持ちだった。
そんな日の夜、アパートの屋上から眺めた汚れた景色のなかで、僕の見たことがない光があった。でもそれは、建物の十字架が、月光を反射しているだけだった。そこに優しい自然の光はなく、汚れた異端児を射抜くような痛い光だった。
「こんな場所で寝たら、風邪を引きますよ」
と肩を揺すられて目が覚めた。ぼやけた視界に、閉じられた本と、深い色の机と、細い指があった。その指は、投げ出された僕の手に添えられていて、僕は唇を噛んだ。
人殺しの手だと言われているようだった。
こんな手に触れてほしくないと思った。
寝起きの耳が音を取り戻していくにつれ、小さな子供たちの遊ぶ声が届いた。顔をあげて、振り向く。
ぼろ切れをまとった、子供たちが冷たい大理石の上を叫びながら走り回っていた。その上に、ステンドグラスの光が落ちている。
「小さな天使のように見えます」
子供たちのことだろう。司祭が僕の肩に手を置いて言った。
「ああ……」
そういう風には、見えない。
あれは、ステンドグラスで描かれた人間を、踏んでしまっているし。
そう答えると、司祭は微笑みをこぼした。そういう見方もある、といった風に。
「あの日死んだ親友が、一体なにだったか思い出せない」
と僕は夢の追憶をする。
「夢のままではいけないのですか?」
ああ……きれいだな。司祭を見上げて思う。このきれいな人も、人を殺したことがあるのだろうか。
血塗れた顔を見てみたい。
この憎たらしい笑顔を、
「それは綺麗な夢ですか?」
「いや」
綺麗とはとても言えない、腐りきった夢。
口に出してしまえば現実になってしまいそうだから、閉じ込めておく。
「***さん」
「え?」
司祭が僕の手を取り、立ち上がらされる。
「わたしの夢は」
手すりを掴んで、子供たちを見下ろす。
「平和な世の中をつくることです」
子供たちが遊んでいる。手すりが冷たい。
「あなたの夢を」
きかせてくれますか?
質問、質問、質問。疑問符は好きじゃない。
カツンと靴の音。僕は、振り向く。
伸びてくる綺麗な手が、肩を、
ぐらぁっ。
視界が反転する。ひっくりかえった司祭の笑顔が見える。重力のおかげで頭に血が下がって、ああ、二階から落とされたんだと思う。
子供たちの悲鳴。遊んでいるのか、怯えているのかわからない。
結局僕は、司祭にとっては悪だった。ただのあわれな人殺しにすぎないというわけか。
「僕は」
死にたくはないな。
「夢見てる」
司祭様……。
伸ばした手は空を掻く。
「僕を殺した」
夢を見ていた。
*
パアンという乾いた音が耳許で鳴る。
天使、あるいは悪魔の甘美な囁き。
僕は、あの日の昼下がりに死んだままだ。
*
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