赤の羅針盤

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 ビルの屋上で、莉子はフェンスから街を覗き見る。  もう良いよね、と思う。この金網を乗り越えて飛び出せば全てが終わるのだ。  莉子は金網に手をかけ、足をかける。 「おい、待て」  背後から声をかけられ、莉子はびくりと動きを止めた。誰かが居た。莉子は全く気づいていなかった。 「匂いにつられて来てみれば……そのフェンスを乗り越えるつもりか?」  高く、それでいて凛と冷たい男性の声。莉子は恐る恐る振り向いた。  闇の中から人影が現れる。真黒いシャツにスラックスを身に着けた男性は、まるで輪郭のみがそこに存在するかのようだ。襟の裏側の赤——血のような赤が、男の存在を確実なものにしている。  天使——いや、どちらかと言えば悪魔のように冷たく鋭い目を持った若い男はカッ、カッと足音を立てて莉子との距離を詰めてくる。莉子は後ずさり、ガシャリとフェンスに背が当たる。  薄い月明かりの中で、男は手を伸ばし、莉子の背後のフェンスを掴む。挟まれるような格好になった莉子に、男は顔を近づける。 「お前、死にたいのか?」  何かを見透かすように細められた目に、莉子は屋上へ来た目的を思い出す。ごくりとつばを飲み込むと、小さくうなずいた。 「ハッ」男が口角を上げる。 「ならば、オレの餌になれ」  中学のころからだろうか、あからさまに差を付けられるようになったのは。  両親は姉にひどくご執心で、私はいわゆる「搾取子」だった。  姉は何でも買ってもらえたし、好きなことを習わせてもらえた。テストが八〇点でも褒められたし、徒競走は三位でも大喜びされた。私は姉のお古しか与えられなかったし、時には買ってもらえず、なけなしの小遣いから鉛筆もノートも買った。一〇〇点を取っても一位になっても両親の回答は「そう」「ふうん」しかもらえなかった。  やがて姉は有名私立大学へ合格した。費用は掛かるが、名の通った大学だ。両親は泣いて喜び、知り合いに電話をかけまくり、その日はお祭り騒ぎだった。  私は姉よりも高い偏差値の大学をめざした。もちろん両親の負担が少ないよう、国立だ。その大学に行きたい、と告げた時の両親の答えは「奨学金を貰うなら好きになさい」だった。  それでも私は頑張った。家に居場所はなかったから、ほとんどの時間を図書館で過ごした。ある意味好都合だった。私が打ち込めるものは勉強だけだった。  そして先日、合格発表があり、結果は合格だった。  私はそれまでの何もかもが報われた気がして、その場で母に電話をした。 「そう」——短い、ほんの一かけらの興味もなさそうな返答があった。私はしばらく言葉を失い、電話を切った。  私はただ、自分が必要とされていなかったことを再確認したに過ぎなかった。
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