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ちょうど隣に停車したその車に視線を持っていかれたのは、渋谷駅前の信号につかまっていたときだった。
真っ黄色なボディ。―――それに惹かれたわけではない。
右前に見える特徴的なボンネットの形。それが、途端に懐かしさを呼び起こしたから。
フィアット500。
こういう仕事をしていても、まず出逢うことのなかった車種。もちろんニューモデルは幾度も目にしたことはある。しかし、五〇年代から七〇年代にかけてつくられたシリーズ二代目のその旧型は、はじめてだった。
感じた視線に、つい首が動いた。
目が合ったのは、左ハンドルを握る若い女。
すぐさまドアに肘をつき、戻した顔を隠すようにして、俺は依然赤いシグナルに視線を据えた。
車には詳しくはない。しかし、そのフィアットに関してだけはべつだった。なぜならそのコンパクトカーこそ、結婚と同時に乗り始めたものだったから。―――といっても、購入したのは妻のほうだ。
アニメ映画の主人公が乗っていて、とても可愛かったから。というのが理由だったか……。
当然中古車。ただ、レストアされたものだったので、新車の国産大衆車が優に手に入る金額だったと思う。そんなものをぽんと買えたのは、ひとえに彼女が裕福な家の娘だったから。
妻の運転は、よくいうと男っぽかった。悪くいうと、荒い。だから彼女がドライバーズシートに座るとき、たいして馬力のないエンジンは常に悲鳴をあげていた。これでは車どころか、乗っている人間の寿命も縮まると思い、同乗の際にはほとんど俺がハンドルを奪った。
車が流れ始めた。
こっちよりも少し早目に動きだした黄色いフィアットは、六本木通り方面へそれていった。
俺はそれを視界から外すと、そのまま真っ直ぐ246をいく。
わずかばかり進んで、明治通りを前に信号につかまるのは、日中ではお約束のタイミング。JR、東横線の高架が、陽射しをさえぎる。
背中の凝りに、上体を反らした。その拍子に目に入ったバックミラーには、フロントシートに並ぶ若い男女の、楽しげに揺れる半身。それが思考を再びさかのぼらせた。
大学の同じクラス。そこが妻との出逢いの場だった。
そこそこのルックスを誇っていた彼女に言い寄った男は、噂を信じれば少なくはなかったようだ。
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