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ブラックベンジャミンの木
私は一目惚れというのを初めて経験した。
深夜の帰り道、花屋のガラス越しに見える「ブラックベンジャミンの木」。
それを見た瞬間、
「この木が私の部屋にあったら、どんなに素敵だろう」
と、その場から動けなくなった。
私の身長と同じくらいの高さまで真っ直ぐ伸びた幹。
その先に黒味がかった深緑の葉がやんわりとした丸の形を描くようにバランスよく生えている。
植物にはそんなに興味がないはずだった。
小学校の時の夏休みの宿題で育てた朝顔は、花を咲かせる前に枯れてしまった。
知り合いからもらったマリーゴールドの種は芽が出ることのないまま土の中に埋まったままだ。
そもそも、この花屋がこんな遅い時間に灯りが付いているのを見るのは初めてだった。
毎日0時頃に会社から帰る私は、平日にこの花屋が開いているのを見たことがない。
こんなにもこの木を欲しいと思うのは、私が嫌な上司から受けるストレスとハードワーク続きで疲れきっていたからかもしれない。
あまりにもじっとベンジャミンを見つめていたからか、店員さんが店先に出て私に声をかけた。
「真夜中にゴタゴタとごめんなさいね。暫くお店をお休みしようと思って片付けをしていたの」
母と同じくらいであろうその女性は、申し訳なさそうに言った。
「こちらこそお店の中を覗いてすみません。ベンジャミンの木があまりにも素敵で」
それを聞いた店員さんは、
「ありがとう。このコの魅力に気づいてくれる人がいて嬉しいわ」
と、全てを包み込むような優しい声で言った。
「このベンジャミンの木、ください!」
感情がするっとそのまま言葉として溢れ出た。
それは今日一日の中で初めて自分の気持ちを素直に出した瞬間だった。
たまたま深夜に開いていたこのお店でこの木と出会えた嬉しさで迷いは一寸もなかった。
店員さんは少し驚いた表情を浮かべた後、
「このコは売り物じゃないのよね......。
この店を始めた時から店に置いていて、
看板犬ならぬ看板木なの」
と言った。
「そうだったんですね。
何も知らず不躾なことを言ってすみません......」
私は恥ずかしさで体が急に熱くなった。
「ううん、いいの、いいの。
それによく考えたら、暫くお店を閉めるし、誰かに引き取ってもらった方がこのコも幸せだと思うわ。
あなたがもしよければ、引き取ってもらえるかしら?」
「えっと、そんなに大切なものを私には......」
私は少し戸惑いながら言った。
「これも運命だと思うの。
こんな夜に、偶然にもこのコと出会ってくれたのは。
あなたにとっても、このコにとっても」
店員さんは優しい眼差しをベンジャミンと私に交互に向けた。
私は俯きながら唇を噛み締め、自分に問いかけた。
そんな大切なものを私が引き取っていいのだろうか?
ちゃんと大切にできるだろうか?
でもーー
「出来る限り大切にします」
私は顔を上げ、店員さんの目をまっすぐ見つめて言った。
「出来る限り」と付けたのは、後ろめたさからだった。
朝顔もマリーゴールドも上手く育てられなかった私は自信を持って誰かに「大切にします!」なんて言えない。
「ええ、あなたなりに大切にしてくれればいいのよ。きっとこのコも喜ぶわ」
店員さんはベンジャミンの葉を優しく撫でた。
「このコを運ぶのは大変でしょうから、明日、配送しましょうか?」
「いえ、抱えて帰ります」
私は鉢の下の方を持ち、ベンジャミンを抱え上げた。
思った以上にずっしりと重く、ベンジャミンの葉が私の頭を撫でるようにかすった。
「そう?気をつけてね、夜遅いし。
またね、ベンジャミン」
店員さんは少しだけ寂しそうな表情を浮かべていて、まるで巣立っていく我が子を見守る母親のようだった。
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